『ウズベキスタンを知るための60章』より
アレクサンドロス大王の足跡
アルゲアス朝マケドニアの王アレクサンドロス三世(紀元前 52356~前323、在位紀元前336~前323)は、ギリシア平定後、アケメネス朝ペルシアを軍門に下すべく、紀元前334年、ダーダネルス海峡を渡った。いわゆるアレクサンドロス大王の東征である。この大遠征において、アレクサンドロスとその軍は中央アジアにも足を踏み入れている。そこは当時、バクトリア(中心は現アフガニスタンのバルフ)とングディアナ(中心はサマルカンド)と呼ばれた地域であり、おおむね現在のアフガニスタン北部からウズベキスタン南部に相当する。アレクサンドロスが「カウカソス(ヒンドゥークシュ)」「オクシアナ」「マルギアナ」「最果て」の各アレクサンドリアを築き、絶世の美女ロクサネを妻に迎えたのは、この地とその周辺でのことである。
ウズベキスタン考古学界の重鎮エドヴァルド・ルトヴェラゼ(1942~)は長年ウズベキスタンとアフガニスタンとの国境地帯で発掘を行ってきたが、ライフワークの一つとしてこの地域でのアレクサンドロスの行軍について検証している。ギリシア・ローマ史家らの記述や帝政ロシア時代の中央アジア踏査の記録などを、彼自身による現地調査と考古学的調査・考察の結果と突き合わせ、アレクサンドロスの足跡に迫っている。ここでは、氏の説に従って、アレクサンドロス大王の足跡の一部を紹介しよう。
そもそもアレクサンドロスはなぜこの地へ進軍したのか。グラニコス川、イッソス、ガウガメラの三会戦を経て、アレクサンドロスはペルシア軍を撃破、それを率いるダレイオス三世を敗走せしめた。ペルシア軍にはアケメネス朝支配下のバクトリアやングディアナの軍勢も含まれていたが、左翼部隊を指揮したバクトリア総督ベッソスはやがて仲間と共謀してダレイオス三世を暗殺し、バクトリア方面へ逃亡、自らペルシア王を名乗るに至った。アレクサンドロスはダレイオス三世の遺骸を丁重に葬った後、アケメネス朝ペルシア王の復讐を遂げる正統なる者として、裏切者ベッソス追討を掲げ、紀元前329年の春ヒンドゥークシュ山脈を越え、バクトリア、さらにングディアナヘと軍を進めたのである。
バクトリアからさらにングディアナヘ入るにはアム川を渡らねばならないが、その渡河地点はどこだったか。アレクサンドロス軍は合計四回アム川を渡った。まず、ヒンドゥークシュ越えの後、バクトラ(バルフ) 心とアオルノス(アルトゥン・ディリョルテパ遺跡)を経由して北上、紀元前329年春に最初にアム川を渡った。その後ングディアナとウストルシャン地方を経てシル川にまで至り、そこに「最果てのアレクサンドリア」(現タジキスタンのフジャンド)を建設させた。秋にはングディアナから逆方向にアム川を渡り、バクトラヘ戻って越冬した。紀元前328年春、新たなングディアナ遠征のため三回目の渡河、その年はングディアナのナウタカ地方で越冬し、前327年の春または夏、ガザバ、パライタケネ、ブバケネ遠征を終え四回目の渡河、バクトラに戻り、そこから今度はインドヘ向かったのである。史資料から得られる渡河地点周辺情報(川幅1・1キロメートル以上、流れは速く、水深は深く、川底は砂地、近くに高い旺があるなど)と、渡河方法(先に逃亡したベッソスが渡し場の船を燃やしてしまったため、動物の皮に干し草を詰めて浮き袋にし、全部隊が渡り切るのに五日を要した)などの条件からすると、少なくとも一回目と四回目の渡河地点は、現在のウズペキスタン領アム川沿いのカンピルテパ遺跡とショルテパ遺跡の中間にあったシュロブの渡し場であったと考えられる。
ベッソスが捕えられた場所はどこか。ベッソスは逃亡のさなか配下の者に裏切られ、ナウタカ地方の城壁と門のある村で捕えられて大王側に引き渡された。ナウタカとはカシュカダリヤ・オアシス東部を指すので、ベッソス捕捉の場所はこのオアシスの山麓地帯にある要塞址ウズンクルまたはセンギルテパだと考えられる。さらに興味深いエピソードとして、ペッソス捕捉の後にアレクサンドロス軍が到着した町には、もともとは小アジアのミレトスのアポロン神殿の神官であったが、神殿を汚して出奔した一族ブランキダイが住み着いていた。アレクサンドロスはミレトス人を辱めたブランキダイの存在ゆえにこの町の壊滅を命じるのだが、このブランキダイの町とは、カルシ近郊の巨大遺跡エルクルガンである。
最後の遠征は、紀元前328~前327年の春・夏、マラカンダ(サマルカンド)とバクトラの間の平野部と山岳部で行われたが、この間にかのロクサネとの出会いがある。それではその出会いの場所はどこか。ロクサネの父オクシュアルテスはパライタケネ地方の名高い総督であったとされるが、アレクサンドロスの権威と庇護を受け入れ、のちにはバクトリア東部一帯の広大な所領を統べることになる。パライタケネ地方は、のちに玄奘三蔵も通った鉄門からさらに北東のスルハン川上流域に延びるヒソル山系の南東斜面と山麓のオアシスを含む。ギリシア語のオクシュアルテスはアラム語ではヴァフシュヴァルとなるが、まさにこの山麓地帯にヴァフシュヴァルの名を持つ集落と川が現在に至るまで残っていて、付近にはアケメネス朝期の城砦集落や岩砦が見つかっていることから、ここがオクシュアルテスの本拠地であり、ロクサネの故郷だったと考えられる。ロクサネはアレクサンドロスの寵愛を受け、インド遠征にも同道した。バビロンで大王が急死した後、ロクサネは、マケドニアでアレクサンドロス四世を生んだが、やがて王位争いの中、息子とともに殺害された。
ルトヴェラゼの指摘によれば、アレクサンドロスの東征は、その苛烈な軍事行動ゆえにソグド人が東方のタシュケントや新疆方面にまで移住するのをうながした一方で、この地への相当数のギリシア・マケドニア人の移入とギリシア文化の定着をもたらした。大王とロクサネのみならず、多くのギリシア・マケドニア人が現地女性と結婚し、大規模な民族的混淆が生じた。ルトヴェラゼは、アレクサンドロスの帝国を継承したセレウコス朝のすべての王にングド人の血が流れているとさえ述べている。
イスラーム世界には独自のアレクサンドロス伝説の展開が見られるが、ウズペキスタンでもアレクサンドロスは「イスカンダル」の名で知られる。また「ズ・ル・カルナイン(二本角)」というアラビア語の異名はウズベク語では「イッキ・ショフリク」となり、二本角の表象はアレクサンドロスを指すものと広く理解されている。各地に様々なイスカンダル伝説が残されており、「イスカンダル」の付く地名も多い。また、現在も男子の名として「イスカンダル」はよく用いられる。
新国家建設と個々の自己実現の要 教育
新国家における教育の役割
国連人口基金の世界人口白書(2014年)によれば、ウズベキスタンの人口では約半数を30歳未満の青少年が占める。独立後の新興国という意味でも、また人口構成の観点からも、ウズペキスタンは「若い国」なのである。青少年の発達や自己形成には、知識を蓄え、それを応用する力を涵養する学びの機会が欠かせない。一方、新たな国家建設においても、国を支える若年層の育成が不可欠である。独立後のウズペキスタンは、個々の成長と国の発展を支える要として教育が存在している。
学校教育の変貌--義務教育の拡充と課題
ソ連期の学校教育はH年制の初等教育および中等教育が一般的であった。ウズペキスタンでは独立後、この形式を大枠では踏襲しつつ、新たに12年制の義務教育制度を敷いている。教育行政は地方自治体毎に任される地方分権ではなく、中央政府によってほとんどが統制されており、画一的な教育政策が全国的に実施されている。教育行政全般を司るのは、初等教育および生涯学習分野を管轄する国民教育省と、中等教育、高等教育を所管する高等中等専門教育省である。
既述の通り、新制度では12年制義務教育が開始され、4年間(6~9歳)の初等教育、5年間(10~14歳)の前期中等教育に続き、新たに日本の高校にあたる3年間(15~17歳)の後期中等教育が無償義務教育となった。労働力としての若年層の育成や国民の基礎学力のさらなる底上げの観点から、特に後期中等教育改革が重視され、改革を推進する基本方針として「人材養成国家プログラム」(1997年)が示されている。後期中等教育は同年齢人口の約1割が通うアカデミックリセ(一般教養高等学校)と残る9割が学ぶ職業カレッジ(職業専門高等学校)に二分され、リセでは大学進学を主目的とした専門知識がカレッジでは職業に直結する各種技術が学ばれる。後期中等教育段階から専門知識および職業技術の習得が目指されるが、あくまでもウズベキスタン国民としての国民意識の基盤構築の上に専門性が築かれる点がウズペキスタンの特質である。その国民としての基礎づくりは、自民族の言語や歴史、文化、法制度を学ぶことで国民形成が企図されている。このような中、近年では12年制義務教育から11年制義務教育への転換の議論が始まっており、夕シュケントでは11年制を導入した実験校も現れている。
教員養成の中心はニザーミー名称タシュケント国立教育大学で、主にアカデミックリセと職業カレッジの教員養成を担っている。ウズベキスタンの教師には等級があり、国民教育省(実施は国家テストセンター)によって行われる3年に一度の試験の結果により、高級、1級、2級、新人の等級づけがなされる。また、毎年10月1日の「教師の日」には大統領が優秀な教員を表彰するといった教員の知識や技術、モチペーションの高揚を図る取組みが実施されているが、給与は総じて低く、生活のために副業を持つ教員も少なくない。
教授言語は多民族らしさが反映されており、学校教育は七つの教授言語(ウズペク、ロシア、カラカルパク、タジク、カザフ、クルグズ、トルクメン)で教授され、初等教育の教科書は7言語で刊行されている。初等教育では多様な言語での教育が保障されているが、そこには地域格差が大きく、首都タシュケントには多言語の学校があるが、地方ではウズベク語学校が大半となる。また、中等教育、高等教育へと進むにつれ、ウズペク語とロシア語での教育が中心になり、他の言語で高等教育まで修了することは難しい。
生涯学習と地域社会の教育的役割
学校教育と学校外教育双方からなる、人々の生涯にわたる学びの総称は生涯学習と呼ばれる。ウズペキスタンでも多くの国際機関や国際NGOの支援のもと、生涯学習整備が始まっているが、制度化や法整備は遅々として進んでいない。このため、政府とユネスコは様々な事業をともに実施し、生涯学習の全国的な普及を目指している。なかでも特筆すべき事業は、CLC(Community Learning Center)事業である。これはユネスコ主導によって地域社会に人々の学びの拠点を創造するもので、ウズペキスタンでも1998年よりCLC事業が開始された。計10のCLCが国内に設置され、さらにタシュケントにはCLCリソースセンターが開設され、全国的なCLC配置の制度化、整備を図る取組みが進められている。
既存のCLCでは各地域課題に根差した活動があり、例えば、クルグズスタンとの国境沿いに位置し、子供の貧困が多い地域では学校の一教室にCLCが開設され、「親の教育とECD(Early Childhood Development)」や女性向けの裁縫教室が展開されている。その他、「生殖と家族計画、薬物乱用、HIV/AIDSについての健康教育」「環境教育」「文化遺産プログラム」「ICTスキル開発」「就業スキル」「スポーツ競技」などの取組みが推進されているCLCもある。
新しい試みが行われる一方で、古くから人々の生活基盤となってきた地域社会での学びも、住民の生涯にわたる学びを形作る一つである。とりわけ古くから地域コミュニティが発達したウズペキスタンでは、マハッラが現在も人々の生活空間での学習を支えている。マハッラ基金のデータ(2015年)によると、現在8190のマハッラが存在するという。各マハッラにはマハッラ委員会が執務するマハッラ事務所が設置されており、マハッラによってはこの事務所に住民の集会場や卓球などのスポーツができるホール、女性や青年、宗教などの下部委員会の執務室、就業訓練や講座を実施する部屋が設けられているところもある。これらの部屋で女性対象の就業訓練や生活相談、パソコン講座などが行われている。
またときには、ウズベキスタンが抱える深刻な問題を扱うこともある。例えば、あるマハッラでは近年問題になっている出稼ぎによる女性の国外流出を防ぐため、マハッラの女性の有志が集まり、女性への啓発を促す寸劇を行った。さらに、前出のCLCリソースセンターでは、学習支援のためにマハッラの住民情報をデータベース化したものを活用することも議論している。また別の事例では、マハッラと学校が子供の教育を行う上で協定を結んだり、問題を抱える子供に対し、学校・家庭と連携し解決にあたることが行われている。このように、マ(ッラはウズベキスタンにおける生涯学習の拠点となっている。
政策と実践の観点から見た学びとは
ウズベキスタンの教育を一望すると、国は新国家建設の土台となる人材育成の役割を教育に付与し、一方で個人は社会での上昇や夢・目標達成の手段として教育に多くの期待を寄せることが分かる。教育政策上では、国家発展のための人材育成が重視されているが、学校や家庭、地域社会といった教育の現場では、子供や大人一人ひとりに寄り添ったあたたかな学びが垣間見られる。そこでは、人々は自分らしい人生を生きていくための学びを得る。ウズベキスタンの教育は、政策と実践の双方から教育の本質を問う上で、重要な示唆を投げかけている。
アレクサンドロス大王の足跡
アルゲアス朝マケドニアの王アレクサンドロス三世(紀元前 52356~前323、在位紀元前336~前323)は、ギリシア平定後、アケメネス朝ペルシアを軍門に下すべく、紀元前334年、ダーダネルス海峡を渡った。いわゆるアレクサンドロス大王の東征である。この大遠征において、アレクサンドロスとその軍は中央アジアにも足を踏み入れている。そこは当時、バクトリア(中心は現アフガニスタンのバルフ)とングディアナ(中心はサマルカンド)と呼ばれた地域であり、おおむね現在のアフガニスタン北部からウズベキスタン南部に相当する。アレクサンドロスが「カウカソス(ヒンドゥークシュ)」「オクシアナ」「マルギアナ」「最果て」の各アレクサンドリアを築き、絶世の美女ロクサネを妻に迎えたのは、この地とその周辺でのことである。
ウズベキスタン考古学界の重鎮エドヴァルド・ルトヴェラゼ(1942~)は長年ウズベキスタンとアフガニスタンとの国境地帯で発掘を行ってきたが、ライフワークの一つとしてこの地域でのアレクサンドロスの行軍について検証している。ギリシア・ローマ史家らの記述や帝政ロシア時代の中央アジア踏査の記録などを、彼自身による現地調査と考古学的調査・考察の結果と突き合わせ、アレクサンドロスの足跡に迫っている。ここでは、氏の説に従って、アレクサンドロス大王の足跡の一部を紹介しよう。
そもそもアレクサンドロスはなぜこの地へ進軍したのか。グラニコス川、イッソス、ガウガメラの三会戦を経て、アレクサンドロスはペルシア軍を撃破、それを率いるダレイオス三世を敗走せしめた。ペルシア軍にはアケメネス朝支配下のバクトリアやングディアナの軍勢も含まれていたが、左翼部隊を指揮したバクトリア総督ベッソスはやがて仲間と共謀してダレイオス三世を暗殺し、バクトリア方面へ逃亡、自らペルシア王を名乗るに至った。アレクサンドロスはダレイオス三世の遺骸を丁重に葬った後、アケメネス朝ペルシア王の復讐を遂げる正統なる者として、裏切者ベッソス追討を掲げ、紀元前329年の春ヒンドゥークシュ山脈を越え、バクトリア、さらにングディアナヘと軍を進めたのである。
バクトリアからさらにングディアナヘ入るにはアム川を渡らねばならないが、その渡河地点はどこだったか。アレクサンドロス軍は合計四回アム川を渡った。まず、ヒンドゥークシュ越えの後、バクトラ(バルフ) 心とアオルノス(アルトゥン・ディリョルテパ遺跡)を経由して北上、紀元前329年春に最初にアム川を渡った。その後ングディアナとウストルシャン地方を経てシル川にまで至り、そこに「最果てのアレクサンドリア」(現タジキスタンのフジャンド)を建設させた。秋にはングディアナから逆方向にアム川を渡り、バクトラヘ戻って越冬した。紀元前328年春、新たなングディアナ遠征のため三回目の渡河、その年はングディアナのナウタカ地方で越冬し、前327年の春または夏、ガザバ、パライタケネ、ブバケネ遠征を終え四回目の渡河、バクトラに戻り、そこから今度はインドヘ向かったのである。史資料から得られる渡河地点周辺情報(川幅1・1キロメートル以上、流れは速く、水深は深く、川底は砂地、近くに高い旺があるなど)と、渡河方法(先に逃亡したベッソスが渡し場の船を燃やしてしまったため、動物の皮に干し草を詰めて浮き袋にし、全部隊が渡り切るのに五日を要した)などの条件からすると、少なくとも一回目と四回目の渡河地点は、現在のウズペキスタン領アム川沿いのカンピルテパ遺跡とショルテパ遺跡の中間にあったシュロブの渡し場であったと考えられる。
ベッソスが捕えられた場所はどこか。ベッソスは逃亡のさなか配下の者に裏切られ、ナウタカ地方の城壁と門のある村で捕えられて大王側に引き渡された。ナウタカとはカシュカダリヤ・オアシス東部を指すので、ベッソス捕捉の場所はこのオアシスの山麓地帯にある要塞址ウズンクルまたはセンギルテパだと考えられる。さらに興味深いエピソードとして、ペッソス捕捉の後にアレクサンドロス軍が到着した町には、もともとは小アジアのミレトスのアポロン神殿の神官であったが、神殿を汚して出奔した一族ブランキダイが住み着いていた。アレクサンドロスはミレトス人を辱めたブランキダイの存在ゆえにこの町の壊滅を命じるのだが、このブランキダイの町とは、カルシ近郊の巨大遺跡エルクルガンである。
最後の遠征は、紀元前328~前327年の春・夏、マラカンダ(サマルカンド)とバクトラの間の平野部と山岳部で行われたが、この間にかのロクサネとの出会いがある。それではその出会いの場所はどこか。ロクサネの父オクシュアルテスはパライタケネ地方の名高い総督であったとされるが、アレクサンドロスの権威と庇護を受け入れ、のちにはバクトリア東部一帯の広大な所領を統べることになる。パライタケネ地方は、のちに玄奘三蔵も通った鉄門からさらに北東のスルハン川上流域に延びるヒソル山系の南東斜面と山麓のオアシスを含む。ギリシア語のオクシュアルテスはアラム語ではヴァフシュヴァルとなるが、まさにこの山麓地帯にヴァフシュヴァルの名を持つ集落と川が現在に至るまで残っていて、付近にはアケメネス朝期の城砦集落や岩砦が見つかっていることから、ここがオクシュアルテスの本拠地であり、ロクサネの故郷だったと考えられる。ロクサネはアレクサンドロスの寵愛を受け、インド遠征にも同道した。バビロンで大王が急死した後、ロクサネは、マケドニアでアレクサンドロス四世を生んだが、やがて王位争いの中、息子とともに殺害された。
ルトヴェラゼの指摘によれば、アレクサンドロスの東征は、その苛烈な軍事行動ゆえにソグド人が東方のタシュケントや新疆方面にまで移住するのをうながした一方で、この地への相当数のギリシア・マケドニア人の移入とギリシア文化の定着をもたらした。大王とロクサネのみならず、多くのギリシア・マケドニア人が現地女性と結婚し、大規模な民族的混淆が生じた。ルトヴェラゼは、アレクサンドロスの帝国を継承したセレウコス朝のすべての王にングド人の血が流れているとさえ述べている。
イスラーム世界には独自のアレクサンドロス伝説の展開が見られるが、ウズペキスタンでもアレクサンドロスは「イスカンダル」の名で知られる。また「ズ・ル・カルナイン(二本角)」というアラビア語の異名はウズベク語では「イッキ・ショフリク」となり、二本角の表象はアレクサンドロスを指すものと広く理解されている。各地に様々なイスカンダル伝説が残されており、「イスカンダル」の付く地名も多い。また、現在も男子の名として「イスカンダル」はよく用いられる。
新国家建設と個々の自己実現の要 教育
新国家における教育の役割
国連人口基金の世界人口白書(2014年)によれば、ウズベキスタンの人口では約半数を30歳未満の青少年が占める。独立後の新興国という意味でも、また人口構成の観点からも、ウズペキスタンは「若い国」なのである。青少年の発達や自己形成には、知識を蓄え、それを応用する力を涵養する学びの機会が欠かせない。一方、新たな国家建設においても、国を支える若年層の育成が不可欠である。独立後のウズペキスタンは、個々の成長と国の発展を支える要として教育が存在している。
学校教育の変貌--義務教育の拡充と課題
ソ連期の学校教育はH年制の初等教育および中等教育が一般的であった。ウズペキスタンでは独立後、この形式を大枠では踏襲しつつ、新たに12年制の義務教育制度を敷いている。教育行政は地方自治体毎に任される地方分権ではなく、中央政府によってほとんどが統制されており、画一的な教育政策が全国的に実施されている。教育行政全般を司るのは、初等教育および生涯学習分野を管轄する国民教育省と、中等教育、高等教育を所管する高等中等専門教育省である。
既述の通り、新制度では12年制義務教育が開始され、4年間(6~9歳)の初等教育、5年間(10~14歳)の前期中等教育に続き、新たに日本の高校にあたる3年間(15~17歳)の後期中等教育が無償義務教育となった。労働力としての若年層の育成や国民の基礎学力のさらなる底上げの観点から、特に後期中等教育改革が重視され、改革を推進する基本方針として「人材養成国家プログラム」(1997年)が示されている。後期中等教育は同年齢人口の約1割が通うアカデミックリセ(一般教養高等学校)と残る9割が学ぶ職業カレッジ(職業専門高等学校)に二分され、リセでは大学進学を主目的とした専門知識がカレッジでは職業に直結する各種技術が学ばれる。後期中等教育段階から専門知識および職業技術の習得が目指されるが、あくまでもウズベキスタン国民としての国民意識の基盤構築の上に専門性が築かれる点がウズペキスタンの特質である。その国民としての基礎づくりは、自民族の言語や歴史、文化、法制度を学ぶことで国民形成が企図されている。このような中、近年では12年制義務教育から11年制義務教育への転換の議論が始まっており、夕シュケントでは11年制を導入した実験校も現れている。
教員養成の中心はニザーミー名称タシュケント国立教育大学で、主にアカデミックリセと職業カレッジの教員養成を担っている。ウズベキスタンの教師には等級があり、国民教育省(実施は国家テストセンター)によって行われる3年に一度の試験の結果により、高級、1級、2級、新人の等級づけがなされる。また、毎年10月1日の「教師の日」には大統領が優秀な教員を表彰するといった教員の知識や技術、モチペーションの高揚を図る取組みが実施されているが、給与は総じて低く、生活のために副業を持つ教員も少なくない。
教授言語は多民族らしさが反映されており、学校教育は七つの教授言語(ウズペク、ロシア、カラカルパク、タジク、カザフ、クルグズ、トルクメン)で教授され、初等教育の教科書は7言語で刊行されている。初等教育では多様な言語での教育が保障されているが、そこには地域格差が大きく、首都タシュケントには多言語の学校があるが、地方ではウズベク語学校が大半となる。また、中等教育、高等教育へと進むにつれ、ウズペク語とロシア語での教育が中心になり、他の言語で高等教育まで修了することは難しい。
生涯学習と地域社会の教育的役割
学校教育と学校外教育双方からなる、人々の生涯にわたる学びの総称は生涯学習と呼ばれる。ウズペキスタンでも多くの国際機関や国際NGOの支援のもと、生涯学習整備が始まっているが、制度化や法整備は遅々として進んでいない。このため、政府とユネスコは様々な事業をともに実施し、生涯学習の全国的な普及を目指している。なかでも特筆すべき事業は、CLC(Community Learning Center)事業である。これはユネスコ主導によって地域社会に人々の学びの拠点を創造するもので、ウズペキスタンでも1998年よりCLC事業が開始された。計10のCLCが国内に設置され、さらにタシュケントにはCLCリソースセンターが開設され、全国的なCLC配置の制度化、整備を図る取組みが進められている。
既存のCLCでは各地域課題に根差した活動があり、例えば、クルグズスタンとの国境沿いに位置し、子供の貧困が多い地域では学校の一教室にCLCが開設され、「親の教育とECD(Early Childhood Development)」や女性向けの裁縫教室が展開されている。その他、「生殖と家族計画、薬物乱用、HIV/AIDSについての健康教育」「環境教育」「文化遺産プログラム」「ICTスキル開発」「就業スキル」「スポーツ競技」などの取組みが推進されているCLCもある。
新しい試みが行われる一方で、古くから人々の生活基盤となってきた地域社会での学びも、住民の生涯にわたる学びを形作る一つである。とりわけ古くから地域コミュニティが発達したウズペキスタンでは、マハッラが現在も人々の生活空間での学習を支えている。マハッラ基金のデータ(2015年)によると、現在8190のマハッラが存在するという。各マハッラにはマハッラ委員会が執務するマハッラ事務所が設置されており、マハッラによってはこの事務所に住民の集会場や卓球などのスポーツができるホール、女性や青年、宗教などの下部委員会の執務室、就業訓練や講座を実施する部屋が設けられているところもある。これらの部屋で女性対象の就業訓練や生活相談、パソコン講座などが行われている。
またときには、ウズベキスタンが抱える深刻な問題を扱うこともある。例えば、あるマハッラでは近年問題になっている出稼ぎによる女性の国外流出を防ぐため、マハッラの女性の有志が集まり、女性への啓発を促す寸劇を行った。さらに、前出のCLCリソースセンターでは、学習支援のためにマハッラの住民情報をデータベース化したものを活用することも議論している。また別の事例では、マハッラと学校が子供の教育を行う上で協定を結んだり、問題を抱える子供に対し、学校・家庭と連携し解決にあたることが行われている。このように、マ(ッラはウズベキスタンにおける生涯学習の拠点となっている。
政策と実践の観点から見た学びとは
ウズベキスタンの教育を一望すると、国は新国家建設の土台となる人材育成の役割を教育に付与し、一方で個人は社会での上昇や夢・目標達成の手段として教育に多くの期待を寄せることが分かる。教育政策上では、国家発展のための人材育成が重視されているが、学校や家庭、地域社会といった教育の現場では、子供や大人一人ひとりに寄り添ったあたたかな学びが垣間見られる。そこでは、人々は自分らしい人生を生きていくための学びを得る。ウズベキスタンの教育は、政策と実践の双方から教育の本質を問う上で、重要な示唆を投げかけている。
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