未唯への手紙
未唯への手紙
ナショナリズムは全体主義ではない
『ナショナリズムの復権』より ナショナリズムヘの誤解を解く
このようなヒリヒリするような個人を抱えて、人はどうするか。どうやふてみずからの拠り所を探りあてるか--オルテガとアーレントの時代の大衆は、どこでも携帯可能な血や魂に飛びついた。隣国にいる同胞と結びつく理由を与えてくれるからである。また不当に制限された地域を超えて、自民族の本来の姿=拡大運動を正当化できるからである。隣国にいる血=同胞のもとまで、私たちは領土を拡大せねばならない--そう人々は考えたわけだ。
血といういかがわしいことはからも分かるように、ドイツとロシアは人種問題を生み出した。それはイギリスとフランスのモッブより、はるかに深刻な人種思想である。それがドイツやロシアの汎帝国主義の正体なのであった。大衆の心のなかに人種思想を注ぎこんだのである。アーレントの場合、それをナショナリズムではなく、「疑似神学」と呼ぶべきだと思った。
ナショナリズムはしばしば不当にも宗教の代替物もしくは「新しい宗教」であると非難されるが、正しく言えばこの種族的ナショナリズム、特に汎スラブ主義における種族的ナショナリズムが実際に疑似宗教的理論と神聖の観念を生んだのである。
だからまず、ナショナリズムは全体主義ではない。
全体主義を、トラヴェルソを参考に「独裁者の支配を歓迎する雰囲気、集団である」と定義しておいた。しかし今や、もう少し詳しい定義をすることができる。第一に、全体主義に雪崩れこむ人々の心は自閉的で孤独である。なぜなら彼らは過去とも他者とも断絶しているからだ。第二に、みずからの過去に対して否定的であり、つねに現在の自分に不満を抱えている。そして第三に、伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心のなかに、何かを受けいれることで安心しょうとするのだ。そこにしのび寄るのが、人種主義であり疑似宗教なのである。それこそ全体主義だとアーレントは言ったのだった。
安定した秩序と均衡を重視すること、運動や移動よりも土地に刻んできた歴史、先祖の営んできた労働を受け継ぐこと、これがナショナリズムなのである。定住こそ、ナショナリズムの第一の定義である。孤独に打ちひしがれた人間の無目的な運動とそれは対照的な立場のことだ。ナショナリズムと「種族的ナショナリズム」をアーレントは厳密に区別していることに注意しなければならない。種族的とは、血を求めて広がること、すなわち全体主義のことだからである。
また、ナショナリズムは宗教ではない。
ナショナリズムはしばしば、「新しい宗教」と呼ばれるがそれは間違っている。ナショナリズムの定義としても、宗教の本当の意味も、それではともに誤解されてしまう。批判されるべきは、ニセモノの宗教、空虚な心に襲いかかる「疑似宗教」なのである。
全体主義は、人種主義として具体化し、人々に牙をむいた。さらに全体主義は、独裁者を生むニセモノ宗教も生み出してしまった。疑似宗教とはそういう意味なのであって、アーレントにしたがえば、ここで全体主義=疑似宗教だと言ってよい。
だからナショナリズム=全体主義=宗教ではないのであって、全体主義=疑似宗教という等式は成り立つだろう。ひとりのカリスマの登場、独裁者に拝脆する人々の群れ集うありさま、このドラマのような悪夢が眼の前の現実になっていることを、アーレントは必死に書きとめようとしていた。生々しい現実をことばで紙に彫刻してゆく、ここに彼女の尽きない魅力がある。
このようなヒリヒリするような個人を抱えて、人はどうするか。どうやふてみずからの拠り所を探りあてるか--オルテガとアーレントの時代の大衆は、どこでも携帯可能な血や魂に飛びついた。隣国にいる同胞と結びつく理由を与えてくれるからである。また不当に制限された地域を超えて、自民族の本来の姿=拡大運動を正当化できるからである。隣国にいる血=同胞のもとまで、私たちは領土を拡大せねばならない--そう人々は考えたわけだ。
血といういかがわしいことはからも分かるように、ドイツとロシアは人種問題を生み出した。それはイギリスとフランスのモッブより、はるかに深刻な人種思想である。それがドイツやロシアの汎帝国主義の正体なのであった。大衆の心のなかに人種思想を注ぎこんだのである。アーレントの場合、それをナショナリズムではなく、「疑似神学」と呼ぶべきだと思った。
ナショナリズムはしばしば不当にも宗教の代替物もしくは「新しい宗教」であると非難されるが、正しく言えばこの種族的ナショナリズム、特に汎スラブ主義における種族的ナショナリズムが実際に疑似宗教的理論と神聖の観念を生んだのである。
だからまず、ナショナリズムは全体主義ではない。
全体主義を、トラヴェルソを参考に「独裁者の支配を歓迎する雰囲気、集団である」と定義しておいた。しかし今や、もう少し詳しい定義をすることができる。第一に、全体主義に雪崩れこむ人々の心は自閉的で孤独である。なぜなら彼らは過去とも他者とも断絶しているからだ。第二に、みずからの過去に対して否定的であり、つねに現在の自分に不満を抱えている。そして第三に、伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心のなかに、何かを受けいれることで安心しょうとするのだ。そこにしのび寄るのが、人種主義であり疑似宗教なのである。それこそ全体主義だとアーレントは言ったのだった。
安定した秩序と均衡を重視すること、運動や移動よりも土地に刻んできた歴史、先祖の営んできた労働を受け継ぐこと、これがナショナリズムなのである。定住こそ、ナショナリズムの第一の定義である。孤独に打ちひしがれた人間の無目的な運動とそれは対照的な立場のことだ。ナショナリズムと「種族的ナショナリズム」をアーレントは厳密に区別していることに注意しなければならない。種族的とは、血を求めて広がること、すなわち全体主義のことだからである。
また、ナショナリズムは宗教ではない。
ナショナリズムはしばしば、「新しい宗教」と呼ばれるがそれは間違っている。ナショナリズムの定義としても、宗教の本当の意味も、それではともに誤解されてしまう。批判されるべきは、ニセモノの宗教、空虚な心に襲いかかる「疑似宗教」なのである。
全体主義は、人種主義として具体化し、人々に牙をむいた。さらに全体主義は、独裁者を生むニセモノ宗教も生み出してしまった。疑似宗教とはそういう意味なのであって、アーレントにしたがえば、ここで全体主義=疑似宗教だと言ってよい。
だからナショナリズム=全体主義=宗教ではないのであって、全体主義=疑似宗教という等式は成り立つだろう。ひとりのカリスマの登場、独裁者に拝脆する人々の群れ集うありさま、このドラマのような悪夢が眼の前の現実になっていることを、アーレントは必死に書きとめようとしていた。生々しい現実をことばで紙に彫刻してゆく、ここに彼女の尽きない魅力がある。
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