未唯への手紙
未唯への手紙
晩婚化と離婚を武器に
『日本-喪失と再起の物語』より
日本の女性たちは男性社会に反旗を翻し、強力な手段を用いて抵抗を始めている。中でも彼女たちが行なっている最大の破壊活動が「晩婚化」である。それは出生率低下の直接的要因となり、日本の将来を危うくしているという声さえ上がっている。晩婚化によって女性の労働参加率はじりじりと上昇していたが、その他の点では、女性たちは事実上のスト状態にあった。彼女たちは、妻と母親という、女性に与えられてきた伝統的な役割分担を拒否するようになっている。かなり最近まで、二五歳でまだ独身の女性は叩き売り直前の「クリスマスケーキ」(一一月二五日以降は価値が急落するため)と呼ばれてさげすまれる風潮があった。だが今や形勢は逆転し、女性は安定した仕事に就き、感情面で支えてくれるだけでなく、家事も分担してくれるようなパートナーが現れるまで婚期を遅らせるようになっている。経済と女性の関係の研究者で、著述家でもある大沢真知子によれば、女性と比較した場合、日本の男性の社会的地位は相対的に低下しているという。「昔の日本は、男性にとって天国のような場所でしたが、今では新たな現実に幻滅を感じています」と彼女は私に言った。私たちは東京駅の壮麗な赤レンガ造りの建物から道路を隔てたビルで、ランチを共にしていた。かつて日本の女性は、どんなにさえない男性でもまともな仕事に就いているというだけで愛想を振りまいたものだが、今では相手に向ける視線はもっと厳しくなっていると大沢は語った。しかも、男性で増える一方のパートタイム労働者が結婚相手に恵まれる可能性はゼロに近いのが現実だ。「女性の気を引くために何かしたいと考えても無駄なので、すっかりあきらめてしまった男性もいます」
水玉模様のモチーフを使った絵画や彫刻などで知られる草間禰生も、伝統的な結婚に対する軽蔑の念を隠さない。戦後の日本で幼少時を過ごした彼女は、芸者と浮気をし続ける父親のことを自伝でこう書いている。「男は無条件にフリーセックスの実践者であり、女はその陰でじっと耐えている。そういう姿を目のあたりにして、子供心にも、『こんな不平等なことがあっていいものだろうか』と、強い憤りと反発を感じたものだ」〔『無限の網--草間禰生自伝』新潮文庫、二○一二年、一二〇頁〕。一九六〇年代の日本社会に息が詰まりそうになった草間は、ニューヨークヘ脱出を図った。キャリアの一時期には、自分で縫った数百個の布のペニスで、家具をおおうことに夢中になった。そうすることで男性器に対する嫌悪感を「消し去ろう」と考えたのだ、と彼女は語っている。ある写真には、無数のペニスにおおわれたボートの後ろで、カメラに背を向けて素っ裸で立つ草間の姿が映っている。彼女はその作品を『集積の一千のボートーショー』と名付けた。
一方、旧弊な考え方も、決して消滅したわけではなかった。二〇〇三年、早稲田大学のサークル「スーパーフリー」のメンバーたちは、女子大生をパーティーに招いて泥酔させ、集団暴行するという事件を起こした。すると、ある国会議員は「集団レイプする人はまだ元気があるからいい」と述べたのである。この発言に対しては、世間から激しい非難の声が集中し、強盗罪の罰則が懲役五年以上なのに対し、強姦罪の罰則を二年以上〔二〇〇四年に三年以上に改定〕と定めた法定刑の低さを疑問視する意見が相次いだ。結局、「スーパーフリー」を主催した事件の首謀者、和田真一郎は、法定刑上限の一五年に近い懲役一四年の実刑判決を受けた。その後も政治家たちは、前時代的な考え方を露呈し続けた。二〇〇七年には、七十代の柳滓伯夫厚生労働相が少子化問題について「一五歳から五〇歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっている」のでもっと頑張って欲しいと発言。すぐに「機械と言ってごめんなさい」と謝罪したが、女性は「産む役目の人」だと言い換えた。
経済的、社会的な状況の変化によって、日本ではさらに多くの女性が「陰でじっと耐え忍ぶ」必要がなくなりつつある。結婚相手の条件を厳しくすることで女性の晩婚化と未婚化か進み、三十代まで独身でいる女性の割合は、一九八○年代に比べて倍近くにまで増加した。その結果、多くの女性たちは、二十代、三十代、あるいは四十代に至るまで親と同居を続けて家賃を浮かし、自分で稼いだ給料はぜいたく品、外食、そして海外旅行に注ぎ込むようになっている。山田昌弘は、彼女たちを「パラサイト・シングル」と名付け、決して現れるはずのない「白馬の王子様」を待ち続ける「現実逃避の夢想家」に過ぎないと片付けた。だが、こうした現実は、四五歳以上の女性の未婚率がわずか四%で、アメリカの半分の比率に過ぎないこととはあまりにも対照的である。つまり、若い女性たちの行動は現実逃避というより戦略的なもので、古い世代のように社会的圧力に屈して、気の進まない結婚をすることを拒否した結果という解釈も容易に成り立つのである。
女性が自立を主張するために使い始めたもう一つの手段が離婚である。一九九〇年代以降、ほぼ倍近くにまで増えており、今では四組に一組の夫婦が別離の道を選択している。もっとも、比率としてはヨーロッパに近づいているが、アメリカと比べればいまだに半分程度でしかない。調査によれば、離婚を最初に切り出すのは女性の場合が多く、男性と違って再婚を急がない。二〇〇三年には、養育費が支払われていない場合に妻側が強制執行を請求することが、法律改正で可能になった。また二〇〇七年以降は、離婚の申し立てを行なった女性は、夫の厚生年金の最高半額まで請求できるようになったのである。二〇〇一年には、配偶者からの暴力を防ぐ通称「DV防止法」が施行され、家庭内暴力はもはや家族の問題として放置されることはなくなった。地方裁判所を通じて、配偶者に六ヵ月間の接近禁止命令を出したり、住居から短期間の退去命令を出したりすることが可能になったからだ。
一方、四五歳から六四歳までの年齢層の離婚率は、一九六〇年から二〇〇五年の間に一五倍にまで膨れ上がった。また一九八五年以降、三〇年以上連れ添った夫婦の離婚件数も四倍に増えている。これらの数字は、法的規範や社会通念に妨げられて、不本意な夫婦関係に縛られてきた女性たちが、ようやく逃げ道を見つけ始めたことを示唆している。熟年夫婦の離婚は、夫の定年退職後に起きることが多い。これは、それまで家に寝に帰るだけだった夫と年がら年中同じ屋根の下で暮らすのはもはや耐えられないことに、妻がはたと気付くためであった。これらの女性たちは、時哲言われるような、黙って試練に耐える引っ込み思案な存在からは程遠い。その証拠に、彼女たちは定年後の夫を「粗大ごみ」と呼んで邪険に扱ったりすることがある(愛情を込めてそう呼ばれる場合もなくはないが)。
日本の女性たちは男性社会に反旗を翻し、強力な手段を用いて抵抗を始めている。中でも彼女たちが行なっている最大の破壊活動が「晩婚化」である。それは出生率低下の直接的要因となり、日本の将来を危うくしているという声さえ上がっている。晩婚化によって女性の労働参加率はじりじりと上昇していたが、その他の点では、女性たちは事実上のスト状態にあった。彼女たちは、妻と母親という、女性に与えられてきた伝統的な役割分担を拒否するようになっている。かなり最近まで、二五歳でまだ独身の女性は叩き売り直前の「クリスマスケーキ」(一一月二五日以降は価値が急落するため)と呼ばれてさげすまれる風潮があった。だが今や形勢は逆転し、女性は安定した仕事に就き、感情面で支えてくれるだけでなく、家事も分担してくれるようなパートナーが現れるまで婚期を遅らせるようになっている。経済と女性の関係の研究者で、著述家でもある大沢真知子によれば、女性と比較した場合、日本の男性の社会的地位は相対的に低下しているという。「昔の日本は、男性にとって天国のような場所でしたが、今では新たな現実に幻滅を感じています」と彼女は私に言った。私たちは東京駅の壮麗な赤レンガ造りの建物から道路を隔てたビルで、ランチを共にしていた。かつて日本の女性は、どんなにさえない男性でもまともな仕事に就いているというだけで愛想を振りまいたものだが、今では相手に向ける視線はもっと厳しくなっていると大沢は語った。しかも、男性で増える一方のパートタイム労働者が結婚相手に恵まれる可能性はゼロに近いのが現実だ。「女性の気を引くために何かしたいと考えても無駄なので、すっかりあきらめてしまった男性もいます」
水玉模様のモチーフを使った絵画や彫刻などで知られる草間禰生も、伝統的な結婚に対する軽蔑の念を隠さない。戦後の日本で幼少時を過ごした彼女は、芸者と浮気をし続ける父親のことを自伝でこう書いている。「男は無条件にフリーセックスの実践者であり、女はその陰でじっと耐えている。そういう姿を目のあたりにして、子供心にも、『こんな不平等なことがあっていいものだろうか』と、強い憤りと反発を感じたものだ」〔『無限の網--草間禰生自伝』新潮文庫、二○一二年、一二〇頁〕。一九六〇年代の日本社会に息が詰まりそうになった草間は、ニューヨークヘ脱出を図った。キャリアの一時期には、自分で縫った数百個の布のペニスで、家具をおおうことに夢中になった。そうすることで男性器に対する嫌悪感を「消し去ろう」と考えたのだ、と彼女は語っている。ある写真には、無数のペニスにおおわれたボートの後ろで、カメラに背を向けて素っ裸で立つ草間の姿が映っている。彼女はその作品を『集積の一千のボートーショー』と名付けた。
一方、旧弊な考え方も、決して消滅したわけではなかった。二〇〇三年、早稲田大学のサークル「スーパーフリー」のメンバーたちは、女子大生をパーティーに招いて泥酔させ、集団暴行するという事件を起こした。すると、ある国会議員は「集団レイプする人はまだ元気があるからいい」と述べたのである。この発言に対しては、世間から激しい非難の声が集中し、強盗罪の罰則が懲役五年以上なのに対し、強姦罪の罰則を二年以上〔二〇〇四年に三年以上に改定〕と定めた法定刑の低さを疑問視する意見が相次いだ。結局、「スーパーフリー」を主催した事件の首謀者、和田真一郎は、法定刑上限の一五年に近い懲役一四年の実刑判決を受けた。その後も政治家たちは、前時代的な考え方を露呈し続けた。二〇〇七年には、七十代の柳滓伯夫厚生労働相が少子化問題について「一五歳から五〇歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっている」のでもっと頑張って欲しいと発言。すぐに「機械と言ってごめんなさい」と謝罪したが、女性は「産む役目の人」だと言い換えた。
経済的、社会的な状況の変化によって、日本ではさらに多くの女性が「陰でじっと耐え忍ぶ」必要がなくなりつつある。結婚相手の条件を厳しくすることで女性の晩婚化と未婚化か進み、三十代まで独身でいる女性の割合は、一九八○年代に比べて倍近くにまで増加した。その結果、多くの女性たちは、二十代、三十代、あるいは四十代に至るまで親と同居を続けて家賃を浮かし、自分で稼いだ給料はぜいたく品、外食、そして海外旅行に注ぎ込むようになっている。山田昌弘は、彼女たちを「パラサイト・シングル」と名付け、決して現れるはずのない「白馬の王子様」を待ち続ける「現実逃避の夢想家」に過ぎないと片付けた。だが、こうした現実は、四五歳以上の女性の未婚率がわずか四%で、アメリカの半分の比率に過ぎないこととはあまりにも対照的である。つまり、若い女性たちの行動は現実逃避というより戦略的なもので、古い世代のように社会的圧力に屈して、気の進まない結婚をすることを拒否した結果という解釈も容易に成り立つのである。
女性が自立を主張するために使い始めたもう一つの手段が離婚である。一九九〇年代以降、ほぼ倍近くにまで増えており、今では四組に一組の夫婦が別離の道を選択している。もっとも、比率としてはヨーロッパに近づいているが、アメリカと比べればいまだに半分程度でしかない。調査によれば、離婚を最初に切り出すのは女性の場合が多く、男性と違って再婚を急がない。二〇〇三年には、養育費が支払われていない場合に妻側が強制執行を請求することが、法律改正で可能になった。また二〇〇七年以降は、離婚の申し立てを行なった女性は、夫の厚生年金の最高半額まで請求できるようになったのである。二〇〇一年には、配偶者からの暴力を防ぐ通称「DV防止法」が施行され、家庭内暴力はもはや家族の問題として放置されることはなくなった。地方裁判所を通じて、配偶者に六ヵ月間の接近禁止命令を出したり、住居から短期間の退去命令を出したりすることが可能になったからだ。
一方、四五歳から六四歳までの年齢層の離婚率は、一九六〇年から二〇〇五年の間に一五倍にまで膨れ上がった。また一九八五年以降、三〇年以上連れ添った夫婦の離婚件数も四倍に増えている。これらの数字は、法的規範や社会通念に妨げられて、不本意な夫婦関係に縛られてきた女性たちが、ようやく逃げ道を見つけ始めたことを示唆している。熟年夫婦の離婚は、夫の定年退職後に起きることが多い。これは、それまで家に寝に帰るだけだった夫と年がら年中同じ屋根の下で暮らすのはもはや耐えられないことに、妻がはたと気付くためであった。これらの女性たちは、時哲言われるような、黙って試練に耐える引っ込み思案な存在からは程遠い。その証拠に、彼女たちは定年後の夫を「粗大ごみ」と呼んで邪険に扱ったりすることがある(愛情を込めてそう呼ばれる場合もなくはないが)。
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