『ユニオンジャックの矢』より
アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。
一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。
江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。
同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。
この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。
長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。
松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。
興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。
ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。
さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。
宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。
遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。
長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。
山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。
長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。
ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。
一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。
江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。
同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。
この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。
長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。
松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。
興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。
ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。
さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。
宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。
遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。
長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。
山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。
長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。
ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
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