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私は私の世界

外なる世界

 偶々、FBで言ったことを問題にしているけど、私のブログは完全に私の世界ですから、全てを出しています。当然、自分の中の暗号化しています。もっと、素直に出さないといけない。世の中に対する不平不満ではなく、自分の世界をどう表すか。

 そこでは、全ての人が主役です。比較の問題は一切ないです。そのために自分を鍛えなければならない。思い切って考えることです。

結局、スッキリさせることはできなかった

 2年前の5月のサファイアなきサファイアのレベルに上げます。それで言えるのは、パートナーとして、スッキリしましたか。今だけでなく、その先も含めて。

私は私の世界

 「私は私の世界」が心地いいです。

 逆に言うと、自分の世界でないところで苦労するのはイヤです。どっちみち、何を考えているのか分からないから。そこからの要請があれば、動けばいいです。自分の世界を載せるのであれば、丸ごと載せます。

 疎外感を感じた時に『論考』と考えたのは、『論考』の良さです。何しろ、手前勝手な真理を順番に関係なく、述べればいい。後は、補足するカタチです。次元が異なる空間を旅するカタチです。

 池田晶子さんが述べていた、空間を跳ぶという感覚はまさにそれなんでしょう。

 『論考』はあくまでも「私の世界」です。これは、内なる世界とつながった。そういうことですよね。

全体の世界をまとめる

 全体の世界をまとめる。まとめてどうする。ウィットゲンシュタインのように、逃げるか。自分の世界だから、自分が消滅するまで、どこまでもついてくる。

 問われれば、応えるようにして、スッキリさせる。今、私がパートナーに求めているのが可能な範囲です。

最終稿への準備

 そのために、ディバイスとコンテンツは整理しましょう。紙の世界とタブレットの世界。タブレットの世界を最新の状態にしておけるかどうか。やはり、PCで抑えるしかない。

 データのハンドリングがあるから、PCをベースにするしかできないでしょう。スタバとか図書館にPCを持って行くかどうかです。家では、とてもじゃないけど、出来ないです。空間全体を見るのは、タブレットにするために、PCを常に反映させておきましょう。だけど、検見の方が書きやすい。

 取りあえずは、時間つぶししながら考えましょう。

量子力学の多世界解釈

 ものごとを観察する主体、すなわち、私は、観察の瞬間ごとに世界全体とともに枝分かれする。Aという状態を見た私は、状態Aの世界に進み、Bという状態を見た私は、状態Bのせかいになる。状態の重ね合わせは、観察によってつぶれるのではなく、私の分身を増やして続けていく。

 コペンハーゲン解釈であれ、多世界解釈であれ、観察という行為が大役を果たす。その瞬間に、状態の重ね合わせがつぶれて、一つになるのか、それとも、状態を重ね合わせたまま、世界は分かれるのか。どちらにしても、その帰趨は偶然に委ねられている。

 一つの問題が起こる。量子力学の観察論は私の世界はともかく、私たちの世界の成立を危うくする。

 私たちが唯一無為の世界を共有しているのであれば、あなたの観察と私の観察はいつも一致しなくてはならない。観察主体の並列する世界がどう捉えたらいいのかという問いが。

 これは現象学で言う、間主観性の理系的なメッセージを送っている。観察という行為を視野に入れ始めた。文系と理系の垣根を越えた議論を湧き上がらせることにもなる。

 カントの間主観性。主観と主観との間に。

パートナーの電話相談

 「どうなりました?」で電話相談を1時間、行っていた。
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