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アーレント『全体主義の起源』「3 全体主義」

『マルクス入門講義』より アーレントは、マルクスをどう読んだのか?
「3 全体主義」では、第一〇章は「階級社会の崩壊」というタイトルになっています。アーレント固有の議論ではなく、大衆社会論一般の前提ですが、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、産業構造の変化に伴うホワイトカラー層の増大や、帝国主義政策の影響で、[ブルジョワジーVS.プロレタリアート]という二項対立図式が崩れ、階級の区別が曖昧になり、どの階級をどの党が代表しているのか分かりにくくなる。いわゆる、無色透明な大衆というものが生まれてきます。加えて、近代初期から進んでいた伝統的な共同体の解体が更に進み、人々は完全な根無し草、アトムになっていきます。アーレントはそれによって、モブが暗躍する余地が増えたと見るわけです。
ロシア革命に際してのレーニンの問題意識が述べられています。ツァーリとその中央集権的な官僚機構による統治体制が崩壊し、いかなる政治・社会組織もなくなった時、彼は、支配から解き放たれた大衆の行方に懸念をもっていた、ということです。
 巨大な無構造な大衆をなしていたロシア住民の中では、封建的身分の残澄も、都市ブルジョワジーやプロレタリアートの育ちはじめたばかりの芽も、いかなる役割をも果たしていなかった。この状態は、古い秩序を支えていた専制が崩壊してしまった後では、今度は現代的な啓蒙的専制を--革命的独裁であれもっ と別の形であれ--紛れもなく要求しているように見えた。レーニンは、権力の奪取がこれほど容易でそ の維持がこれほど困難なところは世界のどこにもないと言ったが、このとき彼の念頭にあったのは単に口 シアの労働者階層の数的な弱さだけではなく、この本来無政府的な、完全に無構造な状態でもあった。
無構造の大衆をそのままではうまく組織化することができなかったので、レーニンが何をやったかというと、ただこの目的のためにのみ、彼は自分のマルクス主義的確信に反して、およそ作り出せるかぎりの社会的、民族的、職業的差異を強化し制度化した。明らかに彼は、この方法によってしか、党は革命によって手にした権力を維持できないと考えていた。彼はこの政策のためにマルクス主義イデオロギーおよび彼自身の理論に対してかなり重大な譲歩を余儀なくされている。
 民族別の隔離や職業制を固定化して、社会を構造化することで、ソ連国家をまとめ上げようとした。そのため、彼本来の理論に反して、党官僚機構を作り上げたというわけです。この箇所の少し後で、レーニンの死んだ直後はまだいろんな発展可能性があったけど、結局、レーニンが作り上げた構造をスターリン(一八七八-一九五三)が利用して、官僚的な一党独裁による全体支配が徹底化されることになり、少数民族の自治を認めた多元的な政治の可能性が失われていったということが述べられています。大衆社会が無構造であったからこそ、それに人工的な構造を与える党組織が必要になった、というわけです。第一二章「全体的支配」では、それを受けて、スターリン統治下のソ連と、ナチス時代のドイツでは、秘密警察や強制収容所を利用して、「人間」の条件、「人間」の意味が徹底的に破壊されたという論が述べられているのですが、この辺は直接にマルクスと関係しているとは言えないので、アーレントのマルクス観という脈絡では考慮に入れる必要はないでし

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