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一人っ子政策と中国社会 リプロダクションの政治

『一人っ子政策と中国社会』より アジア近代のリプロダクションの変容--出産の近代化と家族計画の普及
国家・家父長制・女性
 アジアにおける家族計画は、上からの政策として普及が図られたので、広範な女性に生殖コントロールヘのアクセスを可能にしたと同時に、個々の女性や家族にとってそれが本当に必要で最適かどうかが、充分に考慮されないままに推進された場合もあった。
 生殖する女性の身体は誰のものなのか? 子どもは誰のものなのか? 国家か、家族か、夫か、当の女性か。子供を産むのは生殖する女性であるとはいえ、一人のヒトを育てるにはさまざまな人や組織が関与するので、これは簡単に答えの出る問題ではない。家族計画の矛盾が先鋭化した時、この問題は具体的な様相で立ち現れる。
 そもそも家族計画は誰のためのものなのか? 国家か、個々の家族か、女性か。その目的は、国家の経済発展か、家族の生存戦略か、女性と子供の健康と幸福か。多様なアクターの関わるこの問いの答えは複雑なものでありうるが、筆者は国家の経済発展の視点からの評価だけでなく、生殖の当事者である女性の立場からの検証が不可欠だと考える。
 アジアの伝統社会においては、多くの場合、子供は家族のものであった。双系制の東南アジアでは伝統社会においても子供の性別による選好はなかったし、近年の日本社会では女児への選好も見受けられるが、父系制の家族制度が支配的な儒教圏やインド文化圏の社会の多くでは、家の跡継ぎとなる男児への選好が見られ、女性は男児を産むまで家族こ親族から強いプレッシャーを受け続け、男児を生む義務を内面化している場合も多かった。しかも生殖についての決定権を、女性自身ではなく夫や姑などの家庭内の権力者が持っていることも多く、乳幼児死亡率の高い社会ではヽ家族の確実な再生産のために一定数の子供を産むことが女性に期待されてい心。そうしたプレッシャーと女性の対応の具体的状況は、国や地域によって多様だが、生殖をめぐる権力関係は、産む女性に対して自らが生きる社会での身近な人間関係を通して顕現してきた。このような社会におけるリプロダクションをめぐる政治--身近な人々との交渉--において、上からの家族計画は、新たな力学を持ち込んだ。
生殖の国家化と私領域化
 家族計画は国家の人口政策として出生調整を普及させようとするものだが、それは必ずしもむき出しの権力をもって女たちの生殖を管理するとは限らない。戦後日本における家族計画は、女性たちの「自発性」に支えられて進展して急激な出生率の低下を実現した。戦中の総力戦体制下における産むべき宿命から「解放」された女性たちは、「自発的」に中絶や家族計画を行っていった。同時に生殖は私領域化され、女性たちの身体の奥でなされる避妊も中絶も出産も、国家の統制を離れて「自発的」に自由に行われるようになっていったが、そこからマイノリティは排除されているなど、その私領域化は強い政治性を帯びていた。
 生殖を私領域化した日本と対照的に、中国では、生殖は国家化されていった。本書でみるその経緯は、日本の戦後のリプロダクションの変容過程と比較すると、どのような特徴が浮かび上がるだろうか。
 女性の身体には、生殖をめぐってつねに家族・共同体・国家などが介入してきた。近代国家建設への過程で家族計画が導入されて各種のアクターの力の働き方は以前とは変化したが、女性自身もその中でしたたかに行為主体として交渉しつづけてきた。二〇世紀後半のアジアでは、生殖をめぐってさまざまなアクターが関与しつつ、出産のあり方が変化し、家族計画が展開してきた。その様相は、それぞれの場の条件と力学に応じて多様である。こうした多様なあり方を比較史的に考察することから、リプロダクティブーヘルス&ライツの保障された生殖を実現する道筋を考えていくことが可能になるのではなかろうか。

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