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『確実性』に登場するメタ哲学的コメント

『確実性について』より ウィットゲンシュタイン メタ哲学的コメントの存在と分布
魅入られたように人が繰り返し立ち戻る命題を私は哲学的言語から除去Lたいのである。
こうして我々は少しも我々を前進させない命題を除去するのである。
もちろん私の目的はここで言いたくなるが、しかし有意味には言えない言明を示すことである。
ここで今一度相対性理論でなされたような一歩が必要である。
私のノートを読むことは自分で考えることのできる哲学者にとって興味ある事だろうなぜなら的にはたまにしか当たらないが、私がどんな目標に向かって絶え間なく撃ち続けてきたのかを読んだ人は認識するだろうから。
ここで私は自分が本当に言いたいことが未だ言えないために風車と戦おうとしてしまう。
しかしここにはなお誤りがある。
私の理解とは自分の理解の無さに対する盲目に過ぎないのではないか。しばしばそのように思える。
こうして私はプラグマティズムのように聞こえることを言おうとしているのだ。ここで私は一種の世界観に邪魔されている。
人はしばしば一つの言葉に惑わされる。例えば「知る」という言葉に。
ここで私の思考にはなおギャップが存在する。そしてそれが埋められるかどうか疑わしい。
始りを見出すのは困難である。始りから始めること、そしてそれ以上戻ろうとしないことは困難である、と言った方が良いかもしれない。
私は今いつも眼鏡や鍵といった物を置き忘れては探している老婆の如く哲学をしている。
自負は哲学者の思考力にのしかかる抵当である。
ある表現の意味を、常に実践について考える代わりに表現自身や表現を使う時の気持ちについて考えることにより見出そうとする危険が常に存在する。このため我々は表現をかくも頻繁に自分に繰り返すのである。

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