『哲学のメガネ』より 経験のさらに前提にあるものを探るのが哲学である 存在というもう一つのパラドクス 道徳が良心となるために宗教があった
われわれ日本人は、この宗教を前提とする道徳というものに対しておそらく大多数の人がピンとこないはずである。何故ならば、日本人はこれまで「宗教なくして道徳を身につけてきた」からである。そのことに関して、次のエピソードを紹介しよう。それはかつて五千円札の肖像にもなった思想家・新渡戸稲造が百年以上前に書いた『武士道』の序文にある。約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過したが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしやるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。 (新渡戸稲造『武士道』矢内原忠雄訳 岩波文庫)
この西洋の法学者は、日本に宗教教育がないと聞いて、「では、道徳はどのようにして教えるのですか」と驚いたのである。つまり、西洋では宗教と道徳は不可分なのである。先ほど語ったように、西洋では道徳を教え込むために、宗教における彼岸思想、すなわち死後の世界には天国と地獄があって、善なる者は天国へ、悪なる者は地獄へ行くのだから、この世ではできる限り善い行いをしなさいよ、という仕組みを教えて道徳を身につけさせていたのだ。では西洋のように宗教教育とそれに伴う道徳を厳しく教え込むことがなかった日本において、いったい道徳はどのように身につけられるのか。この質問に対して新渡戸はその場で即答できなかった。即答できなかったというのは、つまりそれだけ「道徳があまりにも自然に身についていた」からである。誰かから強制的に、身につけさせられたものならば、おそらく彼は即答できたであろう。しかし彼にとって道徳はきわめて自然に、知らず知らずのうちに身についてしまっていたのである。そしてそれが「武士道」だというのだ。
ここで注意してもらいたいのは、この武士道とはきわめて広義なものであるということである。そうでなければ、では武士道を学ばなかった日本人はすべて不道徳な人間だったのか、ということになってしまうからである。だが実際には江戸時代から明治にかけて、武士から商人、百姓まであらゆる階級の人々がじつに礼儀正しく、道徳精神に長けていたというのは、明治維新前後に日本を訪れた多くの外国人たちが目にした光景であり、また驚嘆した事実であった。つまり武士道とはすべての日本人にとっての道徳形成の基礎となるものだったのである。
ではここで言う武士道による道徳とは何か。それは「自尊心」ということである。
『菊と刀』という日本論を書いたルース・ベネディクトは西洋と日本の違いを、「罪の文化」と「恥の文化」の違いとした。つまり西洋においてはキリスト教によって、人間とはもともと生まれついたときから罪深い存在であり、その罪を償い死後天国へと到るためにこの世で道徳的でなければならないという考え方であった。それが罪の文化であった。しかし日本においては人間が生まれながらにして罪深い存在であるといった考え方はI切ない。そのような宗教的、彼岸的なものによる強制などはなく、道徳とは人間が本来身につけるべき当然の資質であり、それを体現していないものはこの世の中で恥ずべき人間であるとされたのである。すなわち道徳的であることの価値を自尊心に訴えたのである。これが恥の文化であり、そしてそれが武士道でもあったのだ。
つまり西洋においてはキリスト教という強力な宗教の教えのもと、死後の世界での罰を逃れるために道徳を守り、やがてそれが内面化されて良心という形で身につけられていったのだが、日本においてはそのような宗教的な動機は一切なく、最初から道徳は内面化されていたのである。すなわち、神なしでも道徳は価値ある人間の身につけるべきものとして、自ずと備わるべきものだったのである。そしてこの道徳を守らない人間は恥ずべき人間とされたのだ。つまり日本人は宗教なくして道徳を学んできたのである。善をなし、悪を退けるということは、人として当たり前のことであり、それを身につけることこそが自らの名誉であり、人格の完成であった。ここには天国の報酬も地獄の懲罰もない。つまり西洋人たちが宗教の力を借りながら長い歳月をかけて、その内面化に漕ぎつけた良心を、日本人は宗教=彼岸思想という強制力に頼ることなく身につけてきたのである。
だが罪にしても恥にしても、これらの道徳の身につけ方はいずれも功利的である。それは自らの保身のため、あるいは名誉のためという動機がその背後にある。しかし道徳とは本当にそれだけのものなのだろうか。けっきょくは利己主義の延長線上にあるものでしかないのだろうか。
だがわれわれは、道徳の根底にあるもっと奥深いものに気づくべきである。それは人間の、否、生命の本能とでもいうべきものなのだ。
たしかに、もともと生命は利己的なものである。何故ならば、利己的でなければ生きてはいけないからである。生命の本質とはその徹底的な利己性、自己中心性にある。自己の生命活動を維持するためには、酸素や食物などをつねに貪欲にわが身に取り込んでいかなければならない。そこに他の生命への気遣いなど入り込む余地はない。たとえば生まれたばかりの赤ん坊が隣の子に母乳を譲っていたらどうであろう。その赤ん坊はやがて餓死してしまうだろう。しかし生まれたばかりの赤ん坊に道徳などはない。自己が生きるために必死である。それが生命の本質である。自己であろうとひたすら思い、行動すること、それが生命の本質である。
しかし、かたやこの利己的である生命にも、驚くほどの利他性を発揮する場面がある。それが子育ての場面である。たとえば親鳥が雛に餌を与えるとき、親鳥は苦労して捕まえた虫=餌をその嘴にくわえて雛たちの待つ巣に帰ってくる。このとき、親鳥はたとえ自分がどんなに空腹であっても、その口にくわえた餌を自ら食べてしまうことはない。雛に分け与えるまで、大切に持って帰ってくる。そして疲れ果てながらも雛たちの口に餌を入れてやるのだ。これは驚くべきことである。ここには死後の最後の審判を語る宗教もなく、自らの名誉、自尊心などという観念もない。この親鳥は自分以外の生命のために、餌をせっせと運ぶ。自分が空腹で、その口にくわえた餌を呑み込んでしまいたくとも、決してそのようなことはしない。巣で待つ雛たちのために我慢する。すなわち、自分以外の生命のために自己を犠牲にする。これこそが真の道徳でなくして何であろう。そこには理性も宗教も名誉もない。この本能の赴くままに生きているとしか思えない生き物たちが、その自己の最も強烈な欲望、食欲というものを抑えつけて、他者のために生きるのである。これこそ最も純粋な道徳ではないのだろうか。つまり親が子を守り育てる、この「類的本能」にもとづく行為こそが、すべての道徳の基礎となるべきではないのだろうか。
すなわち類的本能こそ、道徳の根源であり、共同体の基礎なのである。そしてこの類的本能は万民共通である。たとえその人間がいずれかの宗教、国家、民族に属していようとも、必ず誰かの子供であり、また親でもある。この類的関係なくして、ただの一人の人間も存在し得ない。すなわち道徳とは、この類的関係=家族というものにこそ、その基礎をおくべきなのである。
われわれ日本人は、この宗教を前提とする道徳というものに対しておそらく大多数の人がピンとこないはずである。何故ならば、日本人はこれまで「宗教なくして道徳を身につけてきた」からである。そのことに関して、次のエピソードを紹介しよう。それはかつて五千円札の肖像にもなった思想家・新渡戸稲造が百年以上前に書いた『武士道』の序文にある。約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過したが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしやるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。 (新渡戸稲造『武士道』矢内原忠雄訳 岩波文庫)
この西洋の法学者は、日本に宗教教育がないと聞いて、「では、道徳はどのようにして教えるのですか」と驚いたのである。つまり、西洋では宗教と道徳は不可分なのである。先ほど語ったように、西洋では道徳を教え込むために、宗教における彼岸思想、すなわち死後の世界には天国と地獄があって、善なる者は天国へ、悪なる者は地獄へ行くのだから、この世ではできる限り善い行いをしなさいよ、という仕組みを教えて道徳を身につけさせていたのだ。では西洋のように宗教教育とそれに伴う道徳を厳しく教え込むことがなかった日本において、いったい道徳はどのように身につけられるのか。この質問に対して新渡戸はその場で即答できなかった。即答できなかったというのは、つまりそれだけ「道徳があまりにも自然に身についていた」からである。誰かから強制的に、身につけさせられたものならば、おそらく彼は即答できたであろう。しかし彼にとって道徳はきわめて自然に、知らず知らずのうちに身についてしまっていたのである。そしてそれが「武士道」だというのだ。
ここで注意してもらいたいのは、この武士道とはきわめて広義なものであるということである。そうでなければ、では武士道を学ばなかった日本人はすべて不道徳な人間だったのか、ということになってしまうからである。だが実際には江戸時代から明治にかけて、武士から商人、百姓まであらゆる階級の人々がじつに礼儀正しく、道徳精神に長けていたというのは、明治維新前後に日本を訪れた多くの外国人たちが目にした光景であり、また驚嘆した事実であった。つまり武士道とはすべての日本人にとっての道徳形成の基礎となるものだったのである。
ではここで言う武士道による道徳とは何か。それは「自尊心」ということである。
『菊と刀』という日本論を書いたルース・ベネディクトは西洋と日本の違いを、「罪の文化」と「恥の文化」の違いとした。つまり西洋においてはキリスト教によって、人間とはもともと生まれついたときから罪深い存在であり、その罪を償い死後天国へと到るためにこの世で道徳的でなければならないという考え方であった。それが罪の文化であった。しかし日本においては人間が生まれながらにして罪深い存在であるといった考え方はI切ない。そのような宗教的、彼岸的なものによる強制などはなく、道徳とは人間が本来身につけるべき当然の資質であり、それを体現していないものはこの世の中で恥ずべき人間であるとされたのである。すなわち道徳的であることの価値を自尊心に訴えたのである。これが恥の文化であり、そしてそれが武士道でもあったのだ。
つまり西洋においてはキリスト教という強力な宗教の教えのもと、死後の世界での罰を逃れるために道徳を守り、やがてそれが内面化されて良心という形で身につけられていったのだが、日本においてはそのような宗教的な動機は一切なく、最初から道徳は内面化されていたのである。すなわち、神なしでも道徳は価値ある人間の身につけるべきものとして、自ずと備わるべきものだったのである。そしてこの道徳を守らない人間は恥ずべき人間とされたのだ。つまり日本人は宗教なくして道徳を学んできたのである。善をなし、悪を退けるということは、人として当たり前のことであり、それを身につけることこそが自らの名誉であり、人格の完成であった。ここには天国の報酬も地獄の懲罰もない。つまり西洋人たちが宗教の力を借りながら長い歳月をかけて、その内面化に漕ぎつけた良心を、日本人は宗教=彼岸思想という強制力に頼ることなく身につけてきたのである。
だが罪にしても恥にしても、これらの道徳の身につけ方はいずれも功利的である。それは自らの保身のため、あるいは名誉のためという動機がその背後にある。しかし道徳とは本当にそれだけのものなのだろうか。けっきょくは利己主義の延長線上にあるものでしかないのだろうか。
だがわれわれは、道徳の根底にあるもっと奥深いものに気づくべきである。それは人間の、否、生命の本能とでもいうべきものなのだ。
たしかに、もともと生命は利己的なものである。何故ならば、利己的でなければ生きてはいけないからである。生命の本質とはその徹底的な利己性、自己中心性にある。自己の生命活動を維持するためには、酸素や食物などをつねに貪欲にわが身に取り込んでいかなければならない。そこに他の生命への気遣いなど入り込む余地はない。たとえば生まれたばかりの赤ん坊が隣の子に母乳を譲っていたらどうであろう。その赤ん坊はやがて餓死してしまうだろう。しかし生まれたばかりの赤ん坊に道徳などはない。自己が生きるために必死である。それが生命の本質である。自己であろうとひたすら思い、行動すること、それが生命の本質である。
しかし、かたやこの利己的である生命にも、驚くほどの利他性を発揮する場面がある。それが子育ての場面である。たとえば親鳥が雛に餌を与えるとき、親鳥は苦労して捕まえた虫=餌をその嘴にくわえて雛たちの待つ巣に帰ってくる。このとき、親鳥はたとえ自分がどんなに空腹であっても、その口にくわえた餌を自ら食べてしまうことはない。雛に分け与えるまで、大切に持って帰ってくる。そして疲れ果てながらも雛たちの口に餌を入れてやるのだ。これは驚くべきことである。ここには死後の最後の審判を語る宗教もなく、自らの名誉、自尊心などという観念もない。この親鳥は自分以外の生命のために、餌をせっせと運ぶ。自分が空腹で、その口にくわえた餌を呑み込んでしまいたくとも、決してそのようなことはしない。巣で待つ雛たちのために我慢する。すなわち、自分以外の生命のために自己を犠牲にする。これこそが真の道徳でなくして何であろう。そこには理性も宗教も名誉もない。この本能の赴くままに生きているとしか思えない生き物たちが、その自己の最も強烈な欲望、食欲というものを抑えつけて、他者のために生きるのである。これこそ最も純粋な道徳ではないのだろうか。つまり親が子を守り育てる、この「類的本能」にもとづく行為こそが、すべての道徳の基礎となるべきではないのだろうか。
すなわち類的本能こそ、道徳の根源であり、共同体の基礎なのである。そしてこの類的本能は万民共通である。たとえその人間がいずれかの宗教、国家、民族に属していようとも、必ず誰かの子供であり、また親でもある。この類的関係なくして、ただの一人の人間も存在し得ない。すなわち道徳とは、この類的関係=家族というものにこそ、その基礎をおくべきなのである。
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