『スペイン 世界遺産と歴史の旅』より グラナダ アルハンブラ宮殿観光
スペイン南部に、「ジブラルタル」という岩のある町がある(現在は英国領)。ジブラルタルとは「ターリックの岩」という意味である。「ターリック」はアラブ人の名前だ。ターリックはイスラム帝国ウマイヤ朝の総督で、711年に1万2千人の軍隊を率いてアフリカから船でジブラルタル海峡(まだジブラルタルとは呼ばれていなかったが)を渡り、イべリア半島に進入した。彼らは、「べルベル人」と呼ばれる部族であった。
当時の西ゴート王国の王は「ロドリーゴ王」で、ターリックのイベリア半島への侵入を防ぐために戦ったが、「グアダレーテの戦い」で敗れた。
西ゴート軍はターリックによって「エシハ」というところに連行された。ターリックはさらに軍を進め、コルドバ、トレドを征服した。西ゴート王国は、ターリックの軍隊によって全滅させられてしまった。ただ、ロドリーゴ王が死んだのか、どこかへ逃げたのかは不明である。
その後5年の間に、イべリア半島全域が北アフリカのイスラム軍モーロ人に支配されることになった。それから1492年までの約800年間、イスラム教徒はイベリア半島に定住し、支配した。
カトリック教徒たちは、北部の寒い地方へと追いやられた。イベリア半島のほとんどの地域はイスラム教徒によって占領されたが、北部は寒くて暮らしにくかったので、定住することはなかった。
イスラム軍はイべリア半島の北部をとばしてフランスにまで遠征した。
しかし、フランスでは、シャルル・マーニュ(カール大帝)の祖父のカール・マルテルが、ポワティエの戦いに勝利してイスラム教徒の侵略を防いだ。732年のことである。
イペリア半島の北部に追いやられたカトリック教徒は、イスラム教徒から自分たちの国土を取り戻す運動を始めた。これが「レコンキスタ(La Reconquista)」(国土回復運動または国土回復戦争)である。
そして、北部から少しずつ自分たちの国土を回復し、800年後の1492年に、最後のイスラム王国であったグラナダを滅ぼして全ての国土を奪回した。イスラム教徒によるイベリア半島の支配は、ローマと同じくらい大きな影響を与えた。スペイン語は基本的にラテン語だと話したが、時代とともに変化している。同じラテン語圏でも、フランス語やイタリア語とは少し違う。その一番の違いが、アラビア語から来た言葉が非常に多いことだ。
アルコール(alcohol)'アルカルデ(alcalde)(市長)、アルデア(aldea)(村)、アルゴドン(algondon)(木綿)、アルバアカ(Albahaca)(バジル)、アサフラン(azafran)(サフラン)、アヘドレス(ajedrez)(チェス)など、「ア」または「アル」のつく言葉が多いが、これらは全てアラビア語からきている。
町の名前も、アルメリア(almeria)、アリカンテ(Alicante)、アルバセーテ(Albacete)、アルカンタラ(Alcantara)など、アラビア語に由来するものが多い。
農業においてもイスラム教徒は、東洋から学んだ技術で、溝をつなぎあわせて運河をつくり、川から水を供給できるようにした。潅漑農業を伝え、米や小麦、オリーブ、果物、野菜を栽培した。バレンシアの米やオレンジなどは特に有名で、いまでもスペインの重要な農作物となっている。
中国で発明された火薬は、12世紀にはヨーロッパに知れ渡ったが、13世紀の中頃、イスラム教徒によってニエブラで始めて軍事用として使用された。
また、イスラム教徒は紙を作る技術も中国人から学び、12世紀の始めにはバレンシアのハティバに、亜麻から紙を作る製紙工場ができた。後述する哲学者や詩人、数学者、医者も多く輩出した。
イスラム教徒が支配し始めたイペリア半島は「アルアンダルス」と呼ばれ、コルドバを首都とした。
8世紀に始まったアルアンダルスは発展し、11世紀まで全盛時代が続く。10世紀初めのアブドアルラマン3世の時代に最も繁栄した。
「アルアンダルス」の繁栄はいつまでも続かなかった。11世紀には、イベリア半島でのイスラム教徒の力が衰え始め、統一が崩れて23のタイファと呼ばれる小国に分裂してしまった。では、北部に追いやられたキリスト教徒はどうなったのか。イスラム教徒はあっと言う間にイペリア半島を征服したが、キリスト教徒がイスラム教に改宗することはなかった。宗教に寛容なイスラム教は、人頭税さえ払えば、改宗を強要することはなかった。
北部アストゥリアス(Asturias)のドン・ペラーョという西ゴート人貴族は、イスラム教徒に毎年年貢をおさめることに反対した。イスラム教徒は軍を送り、コバドンガ(Covadonga)で戦いが始まった。この戦いに、ペラーヨの軍が勝利したのだ。722年のことである。
それによってアストゥリアス王国というキリスト教徒の独立した王国が誕生した。ペラーヨはこの国の最初の王となった。
これを記念して、次の王になる人、つまり皇太子のことをアストゥリアスの王子(プリンシペ・デ・アストゥリアス)と呼ぶようになった。現在のフェリーペ国王も皇太子時代こう呼ばれていた。
このときから、800年近い年月をかけて、キリスト教徒たちが国土を取り戻していくのだが、アストゥリアス王国の他にも、北部ではパンプローナ王国、アラゴン伯国などが誕生した。
アストゥリアス王国は、10世紀には拡大して、レオン王国となり、さらに11世紀にはカスティーリャ王国となる。
スペイン南部に、「ジブラルタル」という岩のある町がある(現在は英国領)。ジブラルタルとは「ターリックの岩」という意味である。「ターリック」はアラブ人の名前だ。ターリックはイスラム帝国ウマイヤ朝の総督で、711年に1万2千人の軍隊を率いてアフリカから船でジブラルタル海峡(まだジブラルタルとは呼ばれていなかったが)を渡り、イべリア半島に進入した。彼らは、「べルベル人」と呼ばれる部族であった。
当時の西ゴート王国の王は「ロドリーゴ王」で、ターリックのイベリア半島への侵入を防ぐために戦ったが、「グアダレーテの戦い」で敗れた。
西ゴート軍はターリックによって「エシハ」というところに連行された。ターリックはさらに軍を進め、コルドバ、トレドを征服した。西ゴート王国は、ターリックの軍隊によって全滅させられてしまった。ただ、ロドリーゴ王が死んだのか、どこかへ逃げたのかは不明である。
その後5年の間に、イべリア半島全域が北アフリカのイスラム軍モーロ人に支配されることになった。それから1492年までの約800年間、イスラム教徒はイベリア半島に定住し、支配した。
カトリック教徒たちは、北部の寒い地方へと追いやられた。イベリア半島のほとんどの地域はイスラム教徒によって占領されたが、北部は寒くて暮らしにくかったので、定住することはなかった。
イスラム軍はイべリア半島の北部をとばしてフランスにまで遠征した。
しかし、フランスでは、シャルル・マーニュ(カール大帝)の祖父のカール・マルテルが、ポワティエの戦いに勝利してイスラム教徒の侵略を防いだ。732年のことである。
イペリア半島の北部に追いやられたカトリック教徒は、イスラム教徒から自分たちの国土を取り戻す運動を始めた。これが「レコンキスタ(La Reconquista)」(国土回復運動または国土回復戦争)である。
そして、北部から少しずつ自分たちの国土を回復し、800年後の1492年に、最後のイスラム王国であったグラナダを滅ぼして全ての国土を奪回した。イスラム教徒によるイベリア半島の支配は、ローマと同じくらい大きな影響を与えた。スペイン語は基本的にラテン語だと話したが、時代とともに変化している。同じラテン語圏でも、フランス語やイタリア語とは少し違う。その一番の違いが、アラビア語から来た言葉が非常に多いことだ。
アルコール(alcohol)'アルカルデ(alcalde)(市長)、アルデア(aldea)(村)、アルゴドン(algondon)(木綿)、アルバアカ(Albahaca)(バジル)、アサフラン(azafran)(サフラン)、アヘドレス(ajedrez)(チェス)など、「ア」または「アル」のつく言葉が多いが、これらは全てアラビア語からきている。
町の名前も、アルメリア(almeria)、アリカンテ(Alicante)、アルバセーテ(Albacete)、アルカンタラ(Alcantara)など、アラビア語に由来するものが多い。
農業においてもイスラム教徒は、東洋から学んだ技術で、溝をつなぎあわせて運河をつくり、川から水を供給できるようにした。潅漑農業を伝え、米や小麦、オリーブ、果物、野菜を栽培した。バレンシアの米やオレンジなどは特に有名で、いまでもスペインの重要な農作物となっている。
中国で発明された火薬は、12世紀にはヨーロッパに知れ渡ったが、13世紀の中頃、イスラム教徒によってニエブラで始めて軍事用として使用された。
また、イスラム教徒は紙を作る技術も中国人から学び、12世紀の始めにはバレンシアのハティバに、亜麻から紙を作る製紙工場ができた。後述する哲学者や詩人、数学者、医者も多く輩出した。
イスラム教徒が支配し始めたイペリア半島は「アルアンダルス」と呼ばれ、コルドバを首都とした。
8世紀に始まったアルアンダルスは発展し、11世紀まで全盛時代が続く。10世紀初めのアブドアルラマン3世の時代に最も繁栄した。
「アルアンダルス」の繁栄はいつまでも続かなかった。11世紀には、イベリア半島でのイスラム教徒の力が衰え始め、統一が崩れて23のタイファと呼ばれる小国に分裂してしまった。では、北部に追いやられたキリスト教徒はどうなったのか。イスラム教徒はあっと言う間にイペリア半島を征服したが、キリスト教徒がイスラム教に改宗することはなかった。宗教に寛容なイスラム教は、人頭税さえ払えば、改宗を強要することはなかった。
北部アストゥリアス(Asturias)のドン・ペラーョという西ゴート人貴族は、イスラム教徒に毎年年貢をおさめることに反対した。イスラム教徒は軍を送り、コバドンガ(Covadonga)で戦いが始まった。この戦いに、ペラーヨの軍が勝利したのだ。722年のことである。
それによってアストゥリアス王国というキリスト教徒の独立した王国が誕生した。ペラーヨはこの国の最初の王となった。
これを記念して、次の王になる人、つまり皇太子のことをアストゥリアスの王子(プリンシペ・デ・アストゥリアス)と呼ぶようになった。現在のフェリーペ国王も皇太子時代こう呼ばれていた。
このときから、800年近い年月をかけて、キリスト教徒たちが国土を取り戻していくのだが、アストゥリアス王国の他にも、北部ではパンプローナ王国、アラゴン伯国などが誕生した。
アストゥリアス王国は、10世紀には拡大して、レオン王国となり、さらに11世紀にはカスティーリャ王国となる。
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