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アインシュタイン、相対性理論を忘れる

『量子革命』より

ボーアは愕然とし、アインシュタインは微笑んだ。

ボーアはそれまでの三年間、アインシュタインが一九二七年十月のソルヴェイ会議で提案した想像上の実験を、何度も繰り返し吟味していた。いずれも量子力学には矛盾があることを示すためにデザインされていたが、ボーアは、どの場合にもアインシュタインの分析に欠陥を見つけた。しかしボーアはその勝利に安んじることなく、自分の解釈に何か弱点はありはしないかと、自分でもスリット、シャッター、時計などを使った思考実験を考えてみたが、それでも弱点は見つからなかった。だが、ボーアが考え出した思考実験のなかには、第六回ソルヴェイ会議の開かれているブリュッセルで、たった今アインシュタインが説明したような、シンプルで独創的なものはひとつもなかった。

第六回会議は「物質の磁気的性質」をテーマとして、一九三〇年十月二十日から六日間にわたり開催された。会議の組み立てはそれまでと同じだった。まず、磁気に関して話題を提供するように依頼された者が報告を行い、それに続いて討議の時間が設けられた。ボーアとアインシュタインは九人からなる学術委員会のメンバーになっていたので、ふたりは自動的に今回の会議に招待されていたのである。ローレンツはすでに亡くなっていたため、フランスのポール・ランジュヴァンが、学術委員会と議事運営の両方の議長という重責を引き受けた。このたびの会議の参加者は、ディラック、ハイゼンペルク、クラマース、パウリ、ゾンマーフェルトを含め、全部で三十四人だった。

優れた頭脳が一堂に会する場として、第六回ソルヴェイ会議は、一九二七年の第五回に次ぐ重要な催しであり、このときの参加者からは最終的には十二人のノーペル賞受賞者を出すことになった。そのような場を背景にして、量子力学の意味と実在の本性をめぐるアインシュタインHボーア論争の「第ニラウンド」は始まった。アインシュタインは、不確定性原理とコベンハーゲン解釈に致命的な一撃を与えるためにデザインされた新しい思考実験で武装して、ブリュッセルにやってきたのだった。そんなこととは知らぬボーアは、ある公式セッションのあとで不意打ちを食らった。

光を満たした箱を考えてもらいたい、とアインシュタインはボーアに言った。その箱の壁のひとつには穴が開いていて、そこにシャッターが取り付けられている。シャッターは、箱の中にある時計につないだ装置で開閉することができる。その時計は、実験室の別の時計と同期させてある。ここで箱の重さを測ろう。次に、ある時刻にシャッターが開くように、箱の中の時計をセットする。シャッターが開いている時間は非常に短いが、光子が一個、箱から逃げ出せるぐらいには長いものとする。こうして、光子が箱から出た時刻は正確にわかる、とアインシュタインは説明した。ボーアは黙って話を聞いていた。アインシュタインが今説明した実験には、とくに難しいところはなかったし、論じるべきことも何もなかったからだ。不確定性原理は、相補的な変数のペア--位置と運動量、時間とエネルギーなど--が同時に測定されるときにしか適用されない。そうしたペアのどちらか一方だけが測定される場合には、どれだけ正確に測定しようと、この原理の制約は受けないのである。そのとき、かすかに微笑みを浮かべながら、アインシュタインは致命的な言葉を口にした。ここでもう一度、箱の重さを測ろう、と。その瞬間、ボーアは、彼とコベンハーゲン解釈が深い困難に陥ったことを知った。

一個の光子というかたちで、どれだけの光が逃げ出したかを計算するために、アインシュタインはベルンの特許局で審査官をしていた時期に成し遂げた驚くべき発見を利用した。すなわち、エネルギーは質量であり、質量はエネルギーだという発見である。相対性理論の副産物として得られたその関係は、彼が発見したなかで、もっとも単純でもっとも有名な式E=mcとして表されている。ここで、£はエネルギーは質量、そしてcは光の速度だ。

光子が出ていった前後で箱の重さを測定すれば、質量がどれだけ変わったかはすぐにわかる。もちろん、一九三〇年にあった実験装置では、そんなわずかな変化を測定することはできなかったが、思考実験の世界でなら、子どもにでもできる簡単な仕事だ。質量がどれだけ減ったかがわかったなら、式E=mcを用いて、その減少分を・エネルギーに変換する。そうすれば、箱から出ていった光子の・エネルギーを正確に知ることができる。光子が箱から出ていった時刻は、シャッターを制御する箱の中の時計と同期させておいた実験室の時計からわかる。どうやらアインシュタインは、光子のエネルギーと、それが出ていったときの時刻の両方を、ハイゼンペルクの不確定性原理によって禁止されているはずの正確さで測定できる実験を考え出したらしかった。

「ボーアにとってはかなりのショックだった」と回想するのは、ペルギーの物理学者レオン・ローゼンフェルトだ。彼はちょうどそのころ、長く続くことになるボーアとの共同研究を始めたばかりだった。「ボーアはすぐには解決策を考えつかなかった」とローゼンフェルトは続ける。ボーアがアインシュタインの新たな挑戦にうろたえているときも、パウリとハイゼンベルクは歯牙にもかけない様子だった。「まあ、心配ありませんよ。今に解決しますよ」とふたりはボーアに言った。口ーゼンフェルトはのちにこう語った。「その晩中、ボーアはひどく落ち込み、会う人ごとに、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と訴えていた。もしもアインシュタインの言う通りなら、物理学は終わりだ、と。しかし彼はいかなる反論も考え出せなかった」

ローゼンフェルトは、一九二〇年のソルヴェイ会議に招待されていなかったが、ボーアに会うためにブリュッセルに来ていたのだった。彼は、その晩ふたりが量子をめぐって議論を戦わせながら、ホテル・メトロポールに向かうときの情景を忘れたことがなかった。「背が高くて堂々としたアインシュタインは、かすかに皮肉な微笑みを浮かべ、黙って歩きっづけた。ボーアは彼のそばを小走りについて行きながら、ひどく興奮して、もしもアインシュタインの装置がうまくいくなら、それは物理学の終わりを意味する、と空しく訴え続けた」。しかしアインシュタインにとって、それは終わりでもなければ始まりでもなかった。単に、量子力学には矛盾があること、それゆえボーアがいうような閉じた完全な理論ではないことが証明されただけのことだった。彼がこのたび提案した思考実験は、観測者とは無関係な実在を理解することを目標とするような物理学を救済しようという、試みのひとつにすぎなかったのだ。
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