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未唯への手紙

未唯への手紙

第一次世界大戦 ウクライナ問題

2014年08月13日 | 4.歴史
『第一次世界大戦』より 帝国崩壊と東中欧の民族的再編の行方--オーストリア領ガリツィア戦線によせて 大戦とポーランド問題・ウクライナ問題

ポーランド人の民族自決問題が、大戦以前の国際社会で広く認知されていたのに対し、ウクライナ問題の方はどうだろうか。

ウクライナの知識人によるウクライナ民族の「発見」は、ようやくT几世紀はじめのことである。そのさい彼らの民族意識覚醒に無視できない影響を与えたのが、作者不詳の奇書『イストーリア・ルーソフ』(ルーシ人の歴史)だ。当時のウクライナ語は、まだ文盲の農民の話し言葉にすぎず、書き言葉としては未完成であったが、そのウクライナ語で書かれた『イストーリア・ルーソフ』の原本は一八一五年から一八年のあいだにまとめられ、四六年の刊行以前にかなりの部数の写本が出回り、プーシキンやゴーゴリにも読まれていたことが確認されている。同書は、歴史的事実を記した歴史書というより、ウクライナ・コサックの英雄が次々に登場する歴史物語だ。古代国家キエフ・ルーシの滅亡後、ウクライナに独立国家は成立しなかったものの、一六四八年のフメリニツキーの反乱後、一七六四年にエカチェリーナニ世によって廃絶されるまで、ウクライナ中央部には、ウクライナ・コサックの首領に率いられた自治的国家が存続した。『イストーリア・ルーソフ』をひもといた人々は、ポーランドの支配からも、モスクワの支配からも独立した自由の戦士コサックにウクライナの過去の栄光を見出し、魅了された。ウクライナの国民詩人と呼ばれるシェフチェンコもその一人である。

徐々に開始されたウクライナ語による文化推進やウクライナ民俗文化の収集、民衆に対する教育活動は、しかし、ウクライナ分離主義の発生をかぎつけたロシア政府によって弾圧される。一八七六年のエムス法(アレクサンドル二世がドイツのエムスでこの法に署名したため、エムス法と通称される)は、ロシア帝国におけるいっさいのウクライナ語出版物の刊行を禁じた。これによってロシアでの活動を封じられたウクライナ語作家たちの亡命先となり、一九世紀末、ウクライナ民族運動の文化的また政治的中心となったのがオーストリア領ガリツィアであった。

大戦前夜のガリツィアで、ウクライナ人は何をめざしていたのだろうか。

ガリツィアのウクライナ知識人の立場は、親ロシア派(以下、ポーランドの親ロシア派と区別し、同時代の呼称ルソフィーレを用いる)とウクライナ民族派(ルソフィーレに対してウクライノフィーレと呼ばれる)の二派にわかれ、時期的には前者の活動が先行する。ガリツィアはサン川を境に東西にわかれ、西はポーランド人居住地域であったのに対し、ガリツィアのウクライナ人の九七%が居住する東ガリツィアでは、一九一〇年当時でウクライナ人口が六二%の多数を占め、残りの一二%以上はユダヤ人であった。ところが一八六七年にオーストリアがオーストリア=ハンガリーニ重君主国として再編された後、ガリツィア全土でポーランド人の自治が実現したのに対し、東ガリツィアのウクライナ人の存在はないがしろにされる。ガリツィアの公用語は、ドイツ語からポーランド語に変わった。一八六〇年代から八〇年代まで、ウクライナ人の貴族と正教ならびにギリシア・カトリックの聖職者のあいだで一定の影響力を保ったルソフィーレは、ガリツィアにおけるポーランド人の政治的、文化的優位に対する反発と、それを制度化したオーストリア政府に対する幻滅をペースとする。彼らは、ともに正教の典礼に従うウクライナ人とロシア人の言語的、文化的、宗教的共通性を説き、ウクライナ人がポーランド人支配から解放されるためには、東ガリツィアのロシア帝国への統合が必要と唱えた。

これに対して、ロシアからの亡命ウクライナ人を受け入れつつ、一九世紀末から勢いを増したのがウクライナ民族派である。彼らは、将来的には、ロシア帝国のウクライナ人居住地域と東ガリツィア、ブコヴィナとを合体して、統一ウクライナの独立実現をめざした。ウクライナ民族派は、オーストリア=ハンガリーの対ロシア戦を現状変革のための好機と見る。大戦が始まると、亡命ウクライナ人によって組織された「ウクライナ解放連盟」は、本部をルヴフからウィーンに移し、ヨーロッパ各国語による定期刊行物や書籍を発行して、ポーランド問題と同様、ウクライナ人の民族自決問題が存在することを国際社会に訴えた。

他方、ルヴフでは、ウクライナ人居住地域の政治的独立を志向するガリツィアのウクライナ人諸党派が集合し、「ウクライナ最高評議会」が結成される。ポーランド軍団創設とほぼ同時期、この最高評議会のイニシアティブで創設されたのが、同じくオーストリア=ハンガリー軍のもとでロシアと戦うウクライナ軍団である。ウクライナ軍団は、コサックの伝統にさかのぼり、ウクライナーシーチ射撃隊と名づけられた。シーチはコサ。クの軍事的、行政的本拠地を意味し、シーチ射撃隊は、かつてザポロージエ(ドニェプル川下流域)に展開したコサックの軍事組織の名称である。とはいえ、一九一四年九月一日までに訓練を完了した志願兵は約二〇〇〇人にとどまり、ポーランド軍団と比較すれば、ウクライナ軍団の規模はごく小さい。ウクライナ最高評議会は、一九一五年五月一五日にメンバーを拡大し、「全ウクライナ評議会」と改称する。評議会は、当面、ロシア支配下のウクライナ人居住地域については独立を、オーストリア=ハンガリー二重君主国内のウクライナ人居住地域については自治権の獲得をめざした。

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