『ガロア理論超入門』より ⇒ 何百人のガロアがいたんでしょう。教養部で「群論」から「ガロア理論」を聞いた時に、スッキリと自分の中に入ってきた。
あなたはどういうきっかけで、「ガロア理論」に興味をもたれたのでしょうか。じつは圧倒的に多いとされるのが、ガロア本人に対する興味・関心です。こうなると、まだガロアのことを知らないという方も、どんな少年だったのか気になってきますね。ここでは、ガロアの生涯をざっと見ていくことにしましょう。
ガロアは、1811年10月25日に生まれ、1832年5月31日に亡くなりました。つまり、たった20年と7ヶ月の人生だったのです。そんな短いガロアの生涯ですが、その中身はまさに激烈でした。
ガロアは、今でいうなら高校生という年齢で、数学上の大発見を成しとげました。ところが、なぜか次々と不運に引き寄せられていったのです。当時の数学者に認められるチャンスはことごとく潰え、政治活動に傾倒し、逮捕投獄され、初恋には破れ、あげくには決闘で命を落としてしまったのです。そんなガロアが、死の直前に書き残したものが、今日でいうところの「ガロア理論」です。
激しいガロアの生涯の中でも、とりわけ衝撃的なのは決闘で亡くなったことです。ガロア自身も認めるような「つまらない決闘」だっただけに、なおさら悲哀が募ります。政治的陰謀とか、恋愛がらみとか、さらには自らの死で政治決起を図る目的だったとか、いろいろな説があるようですが、真相は定かではありません。
「泣かないで。 20歳で死ぬのには、大変な勇気がいるのだから」
これは悲報を聞いて駆けつけた弟に、ガロアがかけたとされる言葉です。この言葉を最後に、天才数学者ガロアの生涯は閉じてしまいました。後世多くの数学者が、若すぎたその死を惜しんでいます。でも当時その死を悲しんだのは、家族や友人や政治活動を共にした仲間だけでした。そもそもガロアが天才数学者だなんて、誰も気づいてはいなかったのです。
ガロアは、生前よくこんなことを語っていたそうです。
「不滅なものは人間の思い出のうちにある」
どのような文脈で語られた言葉かは定かではありませんが、ガロアにとって亡くなった父の存在は大きかったようです。
じつはガロアは、最後の望みを託した論文まで、理解不能と拒絶されていました。その重要性を自覚していただけに、ガロアの無念さはいかばかりだったでしょうか。このままいけば、自らの死とともに、発見された内容もまた消滅する運命にあったのです。
友人シュバリエと弟アルフレッドが尽力したおかげで、ガロアの残した成果は奇跡的に数学者の目にとまることになりました。その重要性は次第に認められ、ガロアの残した「ガロア理論」は不滅のものとなったのです。
こんな壮絶なガロアの生涯を、もう少しだけ詳しく振り返ってみることにしましょう。
ガロアが数学を始めたきっかけは、まるで小説さながらです。何と成績不振で落第したことが、その契機となったのです。どうせ同じ学年を繰り返すのなら、ためしに別の教科を学んでみようとでも考えたのでしょうか。とにかく落第したことで、数学の授業を受けることになったのです。人生、何かどうなるか分かったものではありません。この選択が、ガロアの運命を変えてしまったのです。通常なら2年間かけて学ぶはずのルジャンドルの幾何学の本を、ガロアは何と2日間で読んでしまったそうです。それからというもの、ガロアは狂気にとりつかれたかのように、数学に熱中するようになったのです。
天才の人生が、人もうらやむようなものとは限りません。ガロアの場合も、順風満帆の人生からはほど遠いものでした。まず、入学を熱望していたエコール・ポリテクニークの受験には、2度とも失敗してしまいます。受験は2回までと決められていたので、ガロアの望みは完全に絶たれてしまったのです。
そもそも2度目の受験の直前には、何と父親が自殺していたのです。父親は人望厚き人柄で、15年間の長きにわたって町長を務めていました。それが政治的陰謀に巻き込まれ、精神的に追いつめられていったようです。父親の不幸な死を目の当たりにして、ガロアは心にどれほど深い傷を負ったことでしょうか。自分や家族に対する悪意のようなものを感じたとしても、何ら不思議ではありません。
ガロアの書いた論文も、不幸な顛末をたどりました。恩師のリシヤールが、ガロアの論文をコーシーに託したところまではうまくいきました。コーシーは、当時のフランスの第一級の数学者です。ところがそのコーシーは、突如として亡命し、ガロアの前から姿を消してしまったのです。
ガロアはコーシーに渡した論文を書き直して、今度はフランス学士院に提出しました。その論文は審査のためにフーリエに送られたのですが、何と今度はそのフーリエが急死してしまったのです。このため論文の行方も分からなくなってしまいました。
論文が紛失されたこともあり、学士院のポアッソンの勧めで、ガロアはもう一度新たに論文を書き上げました。ところが、さんざん待たされたあげくの回答は、何と「理解できない」というものだったのです。ガロアの怒りが頂点に達したのは、いうまでもありません。ちなみに死の直前に書き直していたのは、このとき返却された論文です。これが後に「ガロア理論」とよばれるようになったのです。
コーシー、フーリエ、ポアッソンと著名な数学者に認められる機会がありながら、期待だけもたせてみんなガロアの前から去っていったのです。
ガロアは数学を研究する一方で、政治活動にも傾倒していきました。当時の支配階級への反抗心を募らせていったようです。やがてある事件で逮捕され、ついには投獄されてしまいます。友人のシュバリエや弟のアルフレッド、姉のナタリーは何度か面会に訪れたそうですが、母親のマリーは一度も足を運ばなかったということです。
パリ市内でコレラが流行したことで、ガロアは監獄から燎養所に移されました。そこでガロアは、今度は失恋を経験することになります。療養所の医師の娘ステファニーヘの一方的な思いは、完全に拒絶されてしまったのです。絶望したガロアは自暴自棄になったのか、最終的には決闘で命を落としてしまいました。
ガロアの遺した論文は、遺言にしたがってガウスやヤコービに送られました。目を通したか否かは定かではありませんが、理解されなかったのは確実です。やがてその写しがリウヴィルの手に渡り、自身が編集する雑誌「純粋・応用数学雑誌」に掲載されました。ようやく認められる機会が訪れたのです。それはガロアの死後14年もたってからのことでした。とはいえ、さしたる反響もなく、ようやく理解できる者が現れたのは、何と40年近くもたってからのことです。数学者ジョルダンがガロアの論文を判読し、「置換論」を書き上げたのです。そのジョルダンは、自らの著作を次のように称したということです。
あなたはどういうきっかけで、「ガロア理論」に興味をもたれたのでしょうか。じつは圧倒的に多いとされるのが、ガロア本人に対する興味・関心です。こうなると、まだガロアのことを知らないという方も、どんな少年だったのか気になってきますね。ここでは、ガロアの生涯をざっと見ていくことにしましょう。
ガロアは、1811年10月25日に生まれ、1832年5月31日に亡くなりました。つまり、たった20年と7ヶ月の人生だったのです。そんな短いガロアの生涯ですが、その中身はまさに激烈でした。
ガロアは、今でいうなら高校生という年齢で、数学上の大発見を成しとげました。ところが、なぜか次々と不運に引き寄せられていったのです。当時の数学者に認められるチャンスはことごとく潰え、政治活動に傾倒し、逮捕投獄され、初恋には破れ、あげくには決闘で命を落としてしまったのです。そんなガロアが、死の直前に書き残したものが、今日でいうところの「ガロア理論」です。
激しいガロアの生涯の中でも、とりわけ衝撃的なのは決闘で亡くなったことです。ガロア自身も認めるような「つまらない決闘」だっただけに、なおさら悲哀が募ります。政治的陰謀とか、恋愛がらみとか、さらには自らの死で政治決起を図る目的だったとか、いろいろな説があるようですが、真相は定かではありません。
「泣かないで。 20歳で死ぬのには、大変な勇気がいるのだから」
これは悲報を聞いて駆けつけた弟に、ガロアがかけたとされる言葉です。この言葉を最後に、天才数学者ガロアの生涯は閉じてしまいました。後世多くの数学者が、若すぎたその死を惜しんでいます。でも当時その死を悲しんだのは、家族や友人や政治活動を共にした仲間だけでした。そもそもガロアが天才数学者だなんて、誰も気づいてはいなかったのです。
ガロアは、生前よくこんなことを語っていたそうです。
「不滅なものは人間の思い出のうちにある」
どのような文脈で語られた言葉かは定かではありませんが、ガロアにとって亡くなった父の存在は大きかったようです。
じつはガロアは、最後の望みを託した論文まで、理解不能と拒絶されていました。その重要性を自覚していただけに、ガロアの無念さはいかばかりだったでしょうか。このままいけば、自らの死とともに、発見された内容もまた消滅する運命にあったのです。
友人シュバリエと弟アルフレッドが尽力したおかげで、ガロアの残した成果は奇跡的に数学者の目にとまることになりました。その重要性は次第に認められ、ガロアの残した「ガロア理論」は不滅のものとなったのです。
こんな壮絶なガロアの生涯を、もう少しだけ詳しく振り返ってみることにしましょう。
ガロアが数学を始めたきっかけは、まるで小説さながらです。何と成績不振で落第したことが、その契機となったのです。どうせ同じ学年を繰り返すのなら、ためしに別の教科を学んでみようとでも考えたのでしょうか。とにかく落第したことで、数学の授業を受けることになったのです。人生、何かどうなるか分かったものではありません。この選択が、ガロアの運命を変えてしまったのです。通常なら2年間かけて学ぶはずのルジャンドルの幾何学の本を、ガロアは何と2日間で読んでしまったそうです。それからというもの、ガロアは狂気にとりつかれたかのように、数学に熱中するようになったのです。
天才の人生が、人もうらやむようなものとは限りません。ガロアの場合も、順風満帆の人生からはほど遠いものでした。まず、入学を熱望していたエコール・ポリテクニークの受験には、2度とも失敗してしまいます。受験は2回までと決められていたので、ガロアの望みは完全に絶たれてしまったのです。
そもそも2度目の受験の直前には、何と父親が自殺していたのです。父親は人望厚き人柄で、15年間の長きにわたって町長を務めていました。それが政治的陰謀に巻き込まれ、精神的に追いつめられていったようです。父親の不幸な死を目の当たりにして、ガロアは心にどれほど深い傷を負ったことでしょうか。自分や家族に対する悪意のようなものを感じたとしても、何ら不思議ではありません。
ガロアの書いた論文も、不幸な顛末をたどりました。恩師のリシヤールが、ガロアの論文をコーシーに託したところまではうまくいきました。コーシーは、当時のフランスの第一級の数学者です。ところがそのコーシーは、突如として亡命し、ガロアの前から姿を消してしまったのです。
ガロアはコーシーに渡した論文を書き直して、今度はフランス学士院に提出しました。その論文は審査のためにフーリエに送られたのですが、何と今度はそのフーリエが急死してしまったのです。このため論文の行方も分からなくなってしまいました。
論文が紛失されたこともあり、学士院のポアッソンの勧めで、ガロアはもう一度新たに論文を書き上げました。ところが、さんざん待たされたあげくの回答は、何と「理解できない」というものだったのです。ガロアの怒りが頂点に達したのは、いうまでもありません。ちなみに死の直前に書き直していたのは、このとき返却された論文です。これが後に「ガロア理論」とよばれるようになったのです。
コーシー、フーリエ、ポアッソンと著名な数学者に認められる機会がありながら、期待だけもたせてみんなガロアの前から去っていったのです。
ガロアは数学を研究する一方で、政治活動にも傾倒していきました。当時の支配階級への反抗心を募らせていったようです。やがてある事件で逮捕され、ついには投獄されてしまいます。友人のシュバリエや弟のアルフレッド、姉のナタリーは何度か面会に訪れたそうですが、母親のマリーは一度も足を運ばなかったということです。
パリ市内でコレラが流行したことで、ガロアは監獄から燎養所に移されました。そこでガロアは、今度は失恋を経験することになります。療養所の医師の娘ステファニーヘの一方的な思いは、完全に拒絶されてしまったのです。絶望したガロアは自暴自棄になったのか、最終的には決闘で命を落としてしまいました。
ガロアの遺した論文は、遺言にしたがってガウスやヤコービに送られました。目を通したか否かは定かではありませんが、理解されなかったのは確実です。やがてその写しがリウヴィルの手に渡り、自身が編集する雑誌「純粋・応用数学雑誌」に掲載されました。ようやく認められる機会が訪れたのです。それはガロアの死後14年もたってからのことでした。とはいえ、さしたる反響もなく、ようやく理解できる者が現れたのは、何と40年近くもたってからのことです。数学者ジョルダンがガロアの論文を判読し、「置換論」を書き上げたのです。そのジョルダンは、自らの著作を次のように称したということです。
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