未唯への手紙
未唯への手紙
「民主主義の戦争」の矛盾 米国の参戦
『第一次世界大戦を考える』より
第一次大戦開戦から二年八ヵ月を経過した一九一七年四月、アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦した。このことは二百万人の大援軍を英仏の西部戦線に供給しただけでなく、この戦争の世界史的な意義を変容させる大きなインパクトを持った。
第一にアメリカの参戦は、戦争の影響する地理的な範囲を拡大した。「ヨーロッパの戦争」に中立を保ってきたアメリカだが、実はこの間、二つの地域で深刻な国際紛争に関わっていた。ひとつは中米・カリブ海であった。米西戦争(一八九八年)以来、この地域に介入を強めていたアメリカは、現地の人々に民主政を授けるのだと称して。ニカラグアやハイチ、ドミニカに海兵隊を送り、一六年にはメキシコの反米勢力と大規模な地上戦を繰り広げていた。
もうひとつの係争地域は東アジア(中国)だった。時のウィルソン政権は、中華民国の自立と民主化を基本方針としたが、この領土保全プランは日本の「特殊権益」論といずれ衝突せざるを得なかった。事実、一九一五年の対華二十一ヵ条要求問題にあっては、アメリカはこれに強く反発し、中国をめぐる日米の外交上の熾烈をきわめた。西半球からアジア・太平洋地域にまたがる覇権を築こうとするアメリカの参戦は、この大国の営みと各地の紛争を欧州の大戦に接合し、戦争を字義通りグローバルなものにした。
第二にアメリカの参戦は、大戦にある種の規範的な性格を植えつけた。ウィルソン大統領は欧州列強の同盟網や力の均衡に基づく旧来の平和論を批判し、多国間の協調を軸とする「民主的な国際秩序」をつくろうとした。国際連盟の創設や民族自決主義の唱導は、そうした戦争目的の具体的表現であった。言うなれば、ここに語られた「理想」は、欧州列強同士の勢力争いの次元を超えてグローバルに展開する戦争に、より普遍的な理解の枠組みを与えるものだった。ただし、理想を旗印にした戦争は、もとより敵国の悪を殲滅するまで終われないという怖さもある。アメリカ参戦後の世界は、容赦なきイデオロギー戦争の時代に突入していったのである。
このょうに、むき出しの地政学的な権力政治と人類普遍の理想が混在する戦争の様態は、今日に至るまでアメリカが関わった多くの国際紛争に見られるもので、むしろ、「民主的な国際秩序」に宿るこの矛盾こそが現代史の動力源だつたかもしれない。すなわち、第一次大戦後もアメリカはハイチやニカラグアを軍政下に置きつづけ、あるいは、親米の独裁政権を支援した。その結果、この地域が反米ナショナリズムの豊穣な培地となったことは周知のところである。まぺ東アジアでは、多国間合意(九カ国条約)に基づくワシントン体制が発足したが、この新秩序は一九二〇年代中葉に、民族自決(国権回復)を求める中国ナショナリズムが台頭するや、脆くも自壊の道をたどっていく。満洲事変にいたるこの過程の先に次の世界大戦が胎動していたことは言を俟たない。第一次大戦がアメリカ流の理想主義を内包したことは、必ずしも、その後の世界に平和をもたらしたわけではなかった。
最後に、大戦が惹起した国内問題にも少し触れておこう。戦時下のアメリカは他の交戦国と同様、総力戦体制を敷いた。だが、それは「民主主義の戦争」の大義に反する国家動員にも見えた。特に一九一七年五月の選抜徴兵法には批判があり、奴隷制を禁じた合衆国憲法修正第十三条の言う「意に反した苦役」にあたるとする訴えも起こされた。他方、米政府によれば、徴兵は強制ではなく、自発的な奉仕や義務の感覚を組織するのだという。連邦最高裁もまた市民が軍務に従う相互的義務は憲法の認めるところだと判決したのである(『アーヴァー対合衆国』一九一八年)。
この修正十三条と同様の身体的自由権の規定は日本国憲法第十八条にもある。今のところ日本で徴兵制を否定する論拠のひとつとなっているが、かつてアメリカでは、市民の「奉仕」は苦役ではないというロジックで、約二百八十万人が徴兵された事実は記憶してよい。
第一次大戦開戦から二年八ヵ月を経過した一九一七年四月、アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦した。このことは二百万人の大援軍を英仏の西部戦線に供給しただけでなく、この戦争の世界史的な意義を変容させる大きなインパクトを持った。
第一にアメリカの参戦は、戦争の影響する地理的な範囲を拡大した。「ヨーロッパの戦争」に中立を保ってきたアメリカだが、実はこの間、二つの地域で深刻な国際紛争に関わっていた。ひとつは中米・カリブ海であった。米西戦争(一八九八年)以来、この地域に介入を強めていたアメリカは、現地の人々に民主政を授けるのだと称して。ニカラグアやハイチ、ドミニカに海兵隊を送り、一六年にはメキシコの反米勢力と大規模な地上戦を繰り広げていた。
もうひとつの係争地域は東アジア(中国)だった。時のウィルソン政権は、中華民国の自立と民主化を基本方針としたが、この領土保全プランは日本の「特殊権益」論といずれ衝突せざるを得なかった。事実、一九一五年の対華二十一ヵ条要求問題にあっては、アメリカはこれに強く反発し、中国をめぐる日米の外交上の熾烈をきわめた。西半球からアジア・太平洋地域にまたがる覇権を築こうとするアメリカの参戦は、この大国の営みと各地の紛争を欧州の大戦に接合し、戦争を字義通りグローバルなものにした。
第二にアメリカの参戦は、大戦にある種の規範的な性格を植えつけた。ウィルソン大統領は欧州列強の同盟網や力の均衡に基づく旧来の平和論を批判し、多国間の協調を軸とする「民主的な国際秩序」をつくろうとした。国際連盟の創設や民族自決主義の唱導は、そうした戦争目的の具体的表現であった。言うなれば、ここに語られた「理想」は、欧州列強同士の勢力争いの次元を超えてグローバルに展開する戦争に、より普遍的な理解の枠組みを与えるものだった。ただし、理想を旗印にした戦争は、もとより敵国の悪を殲滅するまで終われないという怖さもある。アメリカ参戦後の世界は、容赦なきイデオロギー戦争の時代に突入していったのである。
このょうに、むき出しの地政学的な権力政治と人類普遍の理想が混在する戦争の様態は、今日に至るまでアメリカが関わった多くの国際紛争に見られるもので、むしろ、「民主的な国際秩序」に宿るこの矛盾こそが現代史の動力源だつたかもしれない。すなわち、第一次大戦後もアメリカはハイチやニカラグアを軍政下に置きつづけ、あるいは、親米の独裁政権を支援した。その結果、この地域が反米ナショナリズムの豊穣な培地となったことは周知のところである。まぺ東アジアでは、多国間合意(九カ国条約)に基づくワシントン体制が発足したが、この新秩序は一九二〇年代中葉に、民族自決(国権回復)を求める中国ナショナリズムが台頭するや、脆くも自壊の道をたどっていく。満洲事変にいたるこの過程の先に次の世界大戦が胎動していたことは言を俟たない。第一次大戦がアメリカ流の理想主義を内包したことは、必ずしも、その後の世界に平和をもたらしたわけではなかった。
最後に、大戦が惹起した国内問題にも少し触れておこう。戦時下のアメリカは他の交戦国と同様、総力戦体制を敷いた。だが、それは「民主主義の戦争」の大義に反する国家動員にも見えた。特に一九一七年五月の選抜徴兵法には批判があり、奴隷制を禁じた合衆国憲法修正第十三条の言う「意に反した苦役」にあたるとする訴えも起こされた。他方、米政府によれば、徴兵は強制ではなく、自発的な奉仕や義務の感覚を組織するのだという。連邦最高裁もまた市民が軍務に従う相互的義務は憲法の認めるところだと判決したのである(『アーヴァー対合衆国』一九一八年)。
この修正十三条と同様の身体的自由権の規定は日本国憲法第十八条にもある。今のところ日本で徴兵制を否定する論拠のひとつとなっているが、かつてアメリカでは、市民の「奉仕」は苦役ではないというロジックで、約二百八十万人が徴兵された事実は記憶してよい。
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