『世界の哲学50の名著』より
ウィトゲンシュタインによれば、単純な言語の目的は説明ではなく、事物の指示標識にすぎない。だから、子どもに言葉を教えるのはその子が対象の名前を知るように訓練するということだ。言語の説明そのものは必要ではない。
「語を発音するということは、いわば表象を蔵したピアノの鍵盤を叩くようなものなのだ」とウィトゲンシュタインは書いている。一つの「音」、すなわち一つの語が、一つの表象を呼び起こすのである。
事物に対応する語の意味は、それが語られる文脈や、時と場所に応じて異なるから、ウィトゲンシュタインは言語を抽象的な規則の組み合わせという観点では考えない。むしろ、言語は「ゲーム」である。
われわれは子どもの頃に、ほとんど文字どおり事物「そのもの」である語から出発して(たとえば椅子という語がわれわれの心の中で椅子を意味するようになる)、「この」とか「そこへ」などのより抽象的な語を使用することで、語が事物を指示することを理解するのである。続いて、われわれはカテゴリーという観点で考えはじめる。こうして言語は成長するとウィトゲンシュタインは述べている。
われわれの言語は、これを一つの古都とみなすことができる。路地や広場、古い家や新しい家、さまざまな時代に建てましされた家々から成る一つの錯綜物であって、これが、まっすぐできちんとした街路と同じ形の家々から成る、一群の新開地によってとりかこまれているのである。
ウィトゲンシュタインは実に多様な言語ゲームの例を示そうと試みる。命令する、命令に従う、対象を観察によって記述する、あるいは対象を測定する、ある出来事について報告する、あるいは推測する、仮説を立て、検証する、実験の結果を図や表に表わす、物語を作り、読む、劇を演じる、輪唱する、謎解きをする、冗談を考え、それを言う、数学の問題を解く、ある言語から別の言語に翻訳する、そして「乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る」などはすべて言語ゲームの例である。ウィトゲンシュタインは次のように書いている。
言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味深いことである。(さらにまた『論理哲学論考の著者が述べていることとも』。)
ここで、ウィトゲンシュタインは言語が世界を描写する手段だという自分の考えは誤りだったと認めている。言語の働きはそれをはるかに超えたものだ。
語は、単に事物を名づけるだけでなく、しばしば複雑な意味を伝えるし、同じ語から多数の異なる意味を伝えることができる。ウィトゲンシュタインは、水! わあ! 助けて! すごい! だめ! などの感嘆符を取り上げて、これらが「対象を名ざしている」と言えるだろうかと問いかけている。
すると、かつてウィトゲンシュタインが主張したのとは違って、言語は世界の限界を示す形式的な論理などではない。言語は世界を〝創造する〟ための、自由に流動する創造的な手段である。われわれの言語形成の深さと多様性は、他の動物と人間を区別する特質である。
命令し、問い、話し、しやべることは、歩いたり、たべたり、飲んだり、遊んだりすることと同様、われわれの自然史の一環なのである。
語られた実際の語よりも、それらが〝語られる方法〟や発言全体の方が、しばしば多くの意味を伝えてくる。捨を持ってきてほしいと頼むとき、われわれは「棒とその先に取りつけられた刷毛を持ってきてくれ」とは言わない。言語は事物を論理的な部分に分解するのではなく、実際の対象の表象よりむしろ、その対象の意図された使い方を重視するように働く。もし帯を持ってきてくれと誰かに頼んだのなら、それはこれから掃除するつもりだということの別の言い方でありえるし、相手にはすぐにそれがわかるだろう。
一つの語は単独で存在しているのではなく、「一家族分のいろいろな意味」に属している。たとえばわれわれが「ゲーム」と言うとき、それが何を意味しているのかをウィトゲンシュタインは苦心して確認している。考えられるあらゆる種類のゲーム(盤ゲーム、スポーツ、子どもの遊びなど)を列挙しても、何かゲームであり、何かそうでないのかを正確に言うことはできない。ところが、われわれはみな、ゲームとはどういうものか。わかっている‰だとすると、定義は意味ほど重要でないということになる。
別の言い方をすれば、ゴーd語はわれわれの世界の限界を定めるものではない〃のである。言語には、哲学者がさんざん探し回ってきたような厳格な規則や客観的な論理というものはない。言語は社会的構築物であり、プレイしながら発展していくゆるやかな体系を持ったゲームなのである。
事物を名ざすことは、哲学者が取りつかれる「神秘的な出来事」であるとウィトゲンシュタインは言う。哲学者はただ結合を存在させようという意図によって、名と対象との間に結合を生じさせる。実際に重要なのは名ではなく文脈上の意味なのに、哲学者があるアイデアや概念の名ざしをまるで「洗礼」のように重要な瞬間とみなすから、哲学的な諸問題が発生するのである。哲学とは、この哲学という学問を「まどわしているもの」に、言語そのものによって挑む絶え間ない戦いであるというウィトゲンシュタインの言葉はよく知られている。
ウィトゲンシュタインによれば、単純な言語の目的は説明ではなく、事物の指示標識にすぎない。だから、子どもに言葉を教えるのはその子が対象の名前を知るように訓練するということだ。言語の説明そのものは必要ではない。
「語を発音するということは、いわば表象を蔵したピアノの鍵盤を叩くようなものなのだ」とウィトゲンシュタインは書いている。一つの「音」、すなわち一つの語が、一つの表象を呼び起こすのである。
事物に対応する語の意味は、それが語られる文脈や、時と場所に応じて異なるから、ウィトゲンシュタインは言語を抽象的な規則の組み合わせという観点では考えない。むしろ、言語は「ゲーム」である。
われわれは子どもの頃に、ほとんど文字どおり事物「そのもの」である語から出発して(たとえば椅子という語がわれわれの心の中で椅子を意味するようになる)、「この」とか「そこへ」などのより抽象的な語を使用することで、語が事物を指示することを理解するのである。続いて、われわれはカテゴリーという観点で考えはじめる。こうして言語は成長するとウィトゲンシュタインは述べている。
われわれの言語は、これを一つの古都とみなすことができる。路地や広場、古い家や新しい家、さまざまな時代に建てましされた家々から成る一つの錯綜物であって、これが、まっすぐできちんとした街路と同じ形の家々から成る、一群の新開地によってとりかこまれているのである。
ウィトゲンシュタインは実に多様な言語ゲームの例を示そうと試みる。命令する、命令に従う、対象を観察によって記述する、あるいは対象を測定する、ある出来事について報告する、あるいは推測する、仮説を立て、検証する、実験の結果を図や表に表わす、物語を作り、読む、劇を演じる、輪唱する、謎解きをする、冗談を考え、それを言う、数学の問題を解く、ある言語から別の言語に翻訳する、そして「乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る」などはすべて言語ゲームの例である。ウィトゲンシュタインは次のように書いている。
言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味深いことである。(さらにまた『論理哲学論考の著者が述べていることとも』。)
ここで、ウィトゲンシュタインは言語が世界を描写する手段だという自分の考えは誤りだったと認めている。言語の働きはそれをはるかに超えたものだ。
語は、単に事物を名づけるだけでなく、しばしば複雑な意味を伝えるし、同じ語から多数の異なる意味を伝えることができる。ウィトゲンシュタインは、水! わあ! 助けて! すごい! だめ! などの感嘆符を取り上げて、これらが「対象を名ざしている」と言えるだろうかと問いかけている。
すると、かつてウィトゲンシュタインが主張したのとは違って、言語は世界の限界を示す形式的な論理などではない。言語は世界を〝創造する〟ための、自由に流動する創造的な手段である。われわれの言語形成の深さと多様性は、他の動物と人間を区別する特質である。
命令し、問い、話し、しやべることは、歩いたり、たべたり、飲んだり、遊んだりすることと同様、われわれの自然史の一環なのである。
語られた実際の語よりも、それらが〝語られる方法〟や発言全体の方が、しばしば多くの意味を伝えてくる。捨を持ってきてほしいと頼むとき、われわれは「棒とその先に取りつけられた刷毛を持ってきてくれ」とは言わない。言語は事物を論理的な部分に分解するのではなく、実際の対象の表象よりむしろ、その対象の意図された使い方を重視するように働く。もし帯を持ってきてくれと誰かに頼んだのなら、それはこれから掃除するつもりだということの別の言い方でありえるし、相手にはすぐにそれがわかるだろう。
一つの語は単独で存在しているのではなく、「一家族分のいろいろな意味」に属している。たとえばわれわれが「ゲーム」と言うとき、それが何を意味しているのかをウィトゲンシュタインは苦心して確認している。考えられるあらゆる種類のゲーム(盤ゲーム、スポーツ、子どもの遊びなど)を列挙しても、何かゲームであり、何かそうでないのかを正確に言うことはできない。ところが、われわれはみな、ゲームとはどういうものか。わかっている‰だとすると、定義は意味ほど重要でないということになる。
別の言い方をすれば、ゴーd語はわれわれの世界の限界を定めるものではない〃のである。言語には、哲学者がさんざん探し回ってきたような厳格な規則や客観的な論理というものはない。言語は社会的構築物であり、プレイしながら発展していくゆるやかな体系を持ったゲームなのである。
事物を名ざすことは、哲学者が取りつかれる「神秘的な出来事」であるとウィトゲンシュタインは言う。哲学者はただ結合を存在させようという意図によって、名と対象との間に結合を生じさせる。実際に重要なのは名ではなく文脈上の意味なのに、哲学者があるアイデアや概念の名ざしをまるで「洗礼」のように重要な瞬間とみなすから、哲学的な諸問題が発生するのである。哲学とは、この哲学という学問を「まどわしているもの」に、言語そのものによって挑む絶え間ない戦いであるというウィトゲンシュタインの言葉はよく知られている。
[円]と『自然比矩形』で⦅自然数⦆を[獲得]したようだ。
[数学]と⦅自然数⦆は、[無矛盾](トートロジー)であるが、[事象]・[現象]を[知る]ための[武器]に生っている。