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未唯への手紙

未唯への手紙

ドゥルーズ派コミュニティとレバノン

2017年01月15日 | 4.歴史
『失われた宗教を生きる人々』より ドゥルーズ派 ⇒ レベノンを知りたいという思いはあります。玲子さんとのネタにするのは無理そう。ソホクリスだと少しは分かるかもしれないけど、宗教問題は中東では止めた方がいいので、一般知識です。

レバノンの首都ベイルートは、南北およそ三十二キロメートルに及ぶ地中海東沿岸の都市である。沿岸には百万人が住む現代的な建物が並び、また、あちこちには、この都市がまだ小さく、より美しかった時代に建てられた赤い屋根の古いハチミツ色の家が残っている。二〇一一年のこと、私はこの街の海岸通りを歩いていた。慎み深い恋人たちや立ち並ぶクラブの前を歩いていると、岩に砕け散る波の音がそこら中から聞こえてくる。冷たい水の流れる百年前のドーヴァー海峡で、マシュー・アーノルドは信仰の海の「憂いに満ちた、長い、引く波のとどろき」を聞いていた。ベイルートでは海は今も満ちたまま、荒々しい音を立てている。

十四年に及んだレバノン内戦は公式には一九八九年に終結したが、内戦で衝突を繰り返した各宗教グループは、いまだに用心深く相手の様子をうかがっている。この戦争でレバノン国民の四人に一人が傷を負い、二十人に一人が命を失った。どのグループも例外なく残虐行為を行い、それによりどのグループも苦しみに見舞われた。だが、レバノンの多様性がもたらしたのは、衝突だけというわけではない。この国の五百万の国民は十八の宗教・宗派に分かれているが、この中東で最も宗教的平等に近いものを享受しているのも彼らなのである。憲法は「国はいかなる信条をも尊重する」と宣言し、世論調査機関ギャラップ社の調査によると、レバノン国民は世界のどこよりも宗教的多様性に対して寛容であるという。

「哀れなるかな、宗教にあふれるも信仰のなき国よ。哀れなるかな、寸断された、その切れ端を国家だと信じる国よ」とレバノンの詩人ハリール・ハンブラーンはその詩集『預言者の庭』で歌い、一国に多数の宗教や宗派があることに苦言を呈している。しかし、レバノンにこのように多様なグループが密集していることは、理にかなったことである。これらのグループにとって、レバノンはどこよりも安全な場所なのだ。というのは、この国の大半の地域は山中にあり、政府軍でも侵入には困難を極めるからである。一方、地中海に面した立地によって、レバノンは西洋とも東洋とも言える国となっている。古代「西洋」文明の中心地は、ヨーロッパ大陸ではなく地中海だ。ソクラテスがかつて言ったように、その周辺には「池の周りにいるカエルのように」古代ギリシャ人が住んでいた。この海を越えて、貿易商は香辛料や小麦、染料や奴隷を運び、哲学者や聖人は思想や知識を伝え合った。紀元前八世紀のギリシャの詩人ホメロスや紀元前五世紀のギリシャの歴史家ヘロドトス、ギリシャの数学者ユークリッドのなかに、ギリシャ本土の出身者は一人もいない。彼らはエーゲ海の島やイタリア南部、そしてエジプトの出身である。ギリシャの哲学者ピタゴラスは、エーゲ海のサモス島でレバノン人を父として生まれ、晩年はイタリア南部で教鞭をとった。私はレバノンの十八の宗教団体の一つ、ドゥルーズ派の信者たちに会うためにこの国を訪れたが、それは彼らが現代に生きるピタゴラス教団の後継者なのかどうか知るためでもあった。ピタゴラス教団とは、ピタゴラスを信奉する、ギリシャ哲学者の古代の宗教的学問的教団である。

ドゥルーズ派は現在、約百万人いるとされ、その半分以上はシリアに、残りはイスラエル(十二万人)とレバノン(二十五万人)に分かれている。そのどの国でも、ドゥルーズ派は国内のどの陣営につくかの選択を強いられてきた。イスラエルでは、ドゥルーズ派は軍隊に入り、パレスチナ人からは距離を置いていた。シリアでは、二〇一一年の騒乱後の流血の日々のなか、ドゥルーズ派はおおむねバッシャール・アルトアサド政権を支持している。レバノンでは一九七五年に内戦が始まると、ドゥルーズ派市民軍はジュンブラート家に率いられ、ムスリムと急進派が大半を占める連合軍と手を組んで、キリスト教徒が多数を占め、西洋の支援を受けるレバノン政府と戦った。時の経過とともに、内戦は複雑さを増していった。両陣営とも分裂していったのである。キリスト教徒のグループ同士が衝突し、キリスト教徒がイラクやシリアなどのムスリムが多数を占める国々と同盟を結ぶこともあった。ドゥルーズ派は他のムスリム集団と敵対し、特にレバノン最大の単一宗教集団となったシーア派ムスリムの民兵組織と戦った。内戦が長期化し、一進一退を繰り返すなか、レバノン旧市街の中心部は荒廃していった。

ドゥルーズ派では、初期のいくつかのムスリム集団の間で広まっていたような、過激な輪廻転生の考え方は認められていない(あるグループでは、新しい身体に生まれ変わる時に、生前の行いの報いを受けると信じられていた。たとえば、羊と性交した者は後の人生で羊に生まれ変わるという具合だ)。アラウィー派は、人間が植物に生まれ変わることもあると信じるが、ドゥルーズ派はこれを認めない。ドゥルーズ派が信じるのは、自分たちのコミュニティのメンバーが常にコミュニティ内で生まれ変わるということだ。この考え方によると、ドゥルーズ派の信者たちはドゥルーズ派という宗教が生まれるはるか昔から、一つの民族的集団として存在していたということだ。彼らは、肉体は若くとも、その魂は何千年も生きており、現代のドゥルーズ派コミュニティの一員である以前に、預言者ムハンマドの教友であり、ピタゴラス教団の弟子だったのである。では、受け皿となる肉体が不足した場合には、魂はどうなるのだろう? ドゥルーズ派に伝わる伝説には、この古くからの問いに対する答えも川意されていた。それによると、入る肉体がない場今ドゥルーズ派の魂は中国に行くということだ。

その晩、ムクタラの村を歩きながら、私は輪廻転生の思想がどのようにしてドゥルーズ派のコミュニティを形成したのかについて思いをめぐらせた。最初のうちは、この思想は改宗者の獲得に役立っていたのかもしれない。キリスト教徒に対しては、初期のドゥルーズ派はこう言っていたはずだ。「ムハンマドを預言者として受け入れても、イエスを拒否することにはならない。ムハンマドはイエスの再来だからである」。ギリシャ哲学を崇める異教徒に対しては、ドゥルーズ派の指導者のハムザ・イブン・アリーはピタゴラスの生まれ変わりだといって説得したはずだ。後の時代、武勇の誉れ高いドゥルーズ派の人々は、死ねばすぐに生まれ変われるという信念によって勇気を得ていた。戦場に向かうドゥルーズ派の兵士は「今夜、母の胎内で眠りたいのは誰だ」と叫んでいたことだろう。

この輪廻転生の思想は、コミュニティに対するドゥルーズ派の強い忠誠心の根拠ともなった。彼らは自らを、ハーキムに対する忠誠の誓いである、時の王への誓いを立てた者だと考えている。彼らはこれをもちろん現世で誓ったのではなく、自分たちが初めてドゥルーズ派のコミュニティを作った前世の十一世紀で誓ったのである。

結局のところ、異教徒との結婚を認めないという厳格な規則は、この輪廻転生の思想に支えられたものだと言える。平均的なドゥルーズ派の一般信者や女性に課されるわずかな義務の一つに、同信の者と結婚するというものがある。ドゥルーズ派はコミュニティ内での生まれ変わりを通じて永遠の命を獲得しているため、非ドゥルーズ派の部外者との間に子どもをもつと、現世のその子どもだけでなく、来世の子どもにも影響を及ぼすことになるのだ。だが、この現世で嫌な結果が出ることもある。二〇一三年七月、あるスンニ派ムスリムの男性がドゥルーズ派の女性と出会い、女性の家族には、自分はよその村のドゥルーズ派の信者だと嘘をついて結婚した。だが男性の正体がわかると、家族は男性を捕らえて去勢した。ワリード・ジュンブラートはこの事件を非難した。だが、ドゥルーズ派の著名な一族の子孫であるアマル・アーラムッディーンが、二〇一四年にアメリカの俳優ジョージ・クルーニーと婚約した時には、コミュニティはもう少し穏やかな対応をした。もっとも、アマルの故郷のドゥルーズ派のある年配の女性は、女性ジャーナリストのインタビューを受け、あまり面白くなさそうにこう言った。「ドゥルーズ派には男が残っていないんですかね? 神のご加護あれ」

コミュニティとしての現代のドゥルーズ派は、ヤズィード教徒やゾロアスター教徒よりもうまく運営されている。今までのところ、自分たちの土地があり、自治を守れているからだ。この理由の一つには、レバノンには支配力を振るう宗教グループがないことが挙げられる。レバノンでは、ジュンブラートは今日まで暗殺を免れ、政治と関わり続けている。シリアでは、コミュニティの規模の大きさや、主要都市から遠く離れた地の利によって、内戦の最悪の被害からは守られている。イスラエルでは信仰の自由があり、多くがイスラエル軍で兵役に就いている。だが、脅威はいたるところにある。レバノンは不安定で、シリアは血なまぐさい戦場となり、イスラエルではユダヤ人移民の住宅建設のために、ドゥルーズ派の土地の大半は没収されている。ドゥルーズ派の一般信者は教義について無知なため、海外での信仰の維持は難しい。それでもなお、ドゥルーズ派の聖職者と世俗の指導者は、あらゆる場所でコミュニティの結束と独自性を保つことに成功している。カーナヴォン卿がその未来をいかに悲観的に描こうとも、私は同じことはしたくない。そんな思いを胸に、私はムクタラとハスバヤの旅を終えた。

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