goo

個人と社会の関係について

ジンメルの『社会的分化論』より

個人と社会の関係の問題を解明する課題は第二章から最後の第六章までの五つの章で取り組まれており、どの章においても、社会や集団の発展が解明されているとみることかできる。

第二章の「集団的責任」では、未開な時代には、罪を犯したのは個人であっても、その個人が責任を負うのではなく、その個人の属する家族や部族などの集団全体が責任を負いがちであったという。この形で負う責任が集団的責任で、これがなぜ起こるのか。この時代には、集団の規模が小さく、全体と部分が未分化な融合状態にあって部分が全体と自分とを区別できなかったために、部分の犯した罪でも全体の罪にされて、全体がその責任を負うことになったからである。

のちの時代に、集団の成員数が増大して集団が拡大してくると、全体は部分に依存しなくなり、また、部分も全体に依存しなくなってくるから、両者が相互に自立しあうようになってくる。そのために、この意味の分化に対応して、ある集団の成員が別の集団の成員に対して罪を犯しても、集団全体がその責任を負うことなく、罪を犯した成員だけがその責任を負うようになり、別の集団の傷つけられた成員の憎悪の感情もその罪を犯した成員に対してのみ向けられるようになるというように、責任の負い方も変化してくるわけである。

第三章では、「集団の拡大と個性の発達」が扱われている。この章でのジンメルの論証は、集団の拡大、つまりその成員数の増大につれて、集団内部の諸成員のあいだに分化と個別化か生じて、それら諸成員のあいだに個性の発達する余地が増大するというものである。

第四章で扱われているのは「社会的水準」である。ジンメルのいう社会的水準とは、ある集団ないしは社会圏のなかで「多くの人びとが共通にもっている精神的所有物」の範囲を示す概念で、この水準が個性の出現を促す分化との関連で把握されている。

第五章は「社会圏の交錯」である。ジンメルは個性について論じている。しかし、そこでは、どちらかといえば、集団の内部でその諸成員のあいだに分化がみられるようになって個性の増大する余地が生まれるとともにその集団自体が逆に個性の乏しいものになっていくことが主に明らかにされているとすれば、集団の内部でよりも、むしろその外でさまざまな集団とのかかわりを通して、近代人の個性が形成されることが主に明らかにされているということができる。

最後の第六章は「分化と力の節約の原理」である。この章の冒頭では、「有機体の系列においてたどられるすべての発達は、力を節約しようという傾向によって支配されているとみることかできる」と。力の節約とは、われわれの目的活動の障害を避けて、われわれの目的をより少ない力で達成することであるが、ここでは、そのことが分化によって可能になることか明らかにされている。

個人のばあい、その内部にはさまざまな衝動がある。いまこれらが互いに自己を主張しあって競争すれば、いたずらに力が浪費されて、互いの衝動か充足されない。しかし、これらの衝動が分化して、別々の充足目標とそれに至る別々の道とをもつことになれば、それらは、競争も摩擦も起こさずにそれだけ力を節約でき、それぞれの目標を効果的に達成できる。

たとえば、近代以前には、戦士身分がもっぱら戦う機能を引き受けて社会の他の成員から分化したが、この分化によって、戦士身分は戦うことに没頭でき、他の成員は戦うこと以外の各自の仕事に没頭できたために、そういう形で社会の統合化か確保されて、力が大いに節約されたのである。ところが、近代に入ると、戦士身分よりももっと高い軍事的効果を果たす国民軍が分化し、この軍隊が祖国愛のために「給料も強制も人為的緊張も必要とせずに」軍事的機能を発揮することによって、一定期間にせよ、社会の統合化が確保されて、力が節約されることになったが、しかし、戦士身分の機能的分化はもちろんのこと、そのあとあらわれた傭兵のそれも消滅してしまった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 自分に関する... ニーチェ『ツ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。