『行く先はいつも名著が教えてくれる』より 死を「物語」として受け容れる--『歎異抄』
死を「物語」として受け容れる--『歎異抄』
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなりけリ
(【現代語訳】阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった)
親鸞ほど、人間の「光」と「闇」の間で揺れ動いた信仰者は、まれだと思います。浄土仏教への信仰を貫きながらも、我が身の罪深さ、自分の信仰が偽物ではないかとの懐疑に、生涯僕悩し続けました。『歎異抄』は、そんな赤裸々な親鸞の人間像が浮かび上がってくるような名著です。
その親鸞が常々語っていたのが、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなりけり」という言葉でした。『歎異抄』の「後序」にはそう書かれています。この確信こそが親鸞を支えていたのだともいわれます。
あまりにも有名な親鸞の言葉なのですが、あなたは読んでその真意を理解することができますか? 簡単に言うと、「浄土仏教の教えの根幹は、私、親鸞一人のためにあるのだ」と言っているようなものです。そのまま読むと、「親鸞ってどれだけ傲慢な人なんだ。すべての人のために説かれたという教えを、自分一人のためなのだと断言するなんて」と思いませんか?
「情報」は消費するもの、「物語」は生き方を変える
私自身、この一文は、大学時代に読んだときにはまったく理解できなかったのですが、心のどこかに、消化されないままずっとひっかかり続けていました。そして、宗教学者の釈徹宗さんに出会って、話をお聞きしてはじめて、この言葉の真意がようやく理解できた気がしました。
釈さんがこの言葉を読み解くにあたって提示してくれたのが、「情報」と「物語」というキーワードです。「情報」は人を救えない。それは消費の対象で、道具として使われるしかないものだ。新しいものが出てきたら、すぐに捨てられてしまう。それに対して、「物語」は、「それは私のために準備されたものだ」と受け止めるもの。生き方自体を変え、それに出会うと二度と元に戻れないようなものだ……当時のメモには、そう書かれています。
この説明を聞いたとき、視界がぱあーっと開かれるような気持ちになりました。そうか、「物語」こそ宗教の本質なんだ。私たちは普段、「情報」とばかり接しているけれど、それとは質がまったく異なる経験をすることがある。それを知ってしまったあとでは、もう決してその前には戻れないような、一冊の小説、一本の映画、一曲の音楽との出会いというものが、確かにある。「この作品は私だけのためにある」といった体験がー。これこそが「親鸞一人がためなりけり」という体験ではないのか。そして、こうした体験の延長上にあるものととらえると、「宗教」という普段、縁遠く感じているものが、現代の私たちにも理解できるように思えてきます。「情報」と「物語」という釈さんの言葉によって、「親鸞一人がためなりけり」のもつ深い意味がようやく理解できました。
釈さんはさらに、このように語ってくれました。現代人は、「情報」を扱うスキルに関しては非常にたけているが、「物語」に身をゆだねることが苦手になっている。「情報」は自分で操作することが可能だけど、「物語」はいったん受け止めると、逆に自分のありよう自体が問われることになる。いったん出会うと、もう出会う前には戻れないほどの力をもっている。つまり、「物語」は「情報」のように決して消費はできない。だからこそ苦難の人生を生き抜く力になるのだ、と。
「宗教」を信じているかと問われると、日本人の多くは信じていないと答えるかもしれません。でも、自分自身を意味づけている何らかの「物語」をもっているかと問われれば、はっきり言語化できるかどうかは別として、誰にも思い当たることがあるのではないでしょうか? そう考えると、私たちは、広い意味で誰もが「宗教的な営為」を積み重ねている、ということもできるかもしれません。