『図書・図書館史』より 古代アレクサンドリア図書館
現在、ムセイオンにあったとされるアレクサンドリア図書館は、遺跡も発見されておらず、存在した痕跡さえわからない。それでも古代最大の図書館であったアレクサンドリア図書館が、破壊と終焉を迎えたことは確実である。その終焉は、ひとつの出来事であったのか、徐々に衰退したのかについてもさまざまな説がある。そのなかでも、アレクサンドリア図書館の破壊や終焉と深く結びついていると考えられているのが、紀元前48年のローマ内戦におけるカエサルの戦役における大火、391年のキリスト教徒によるセラベウム図書館の破壊、642年のアラブのアムル・イブン・アル=アース将軍によるエジプト征服に伴う、アレクサンドリア占領の3つの出来事である。
紀元前48年のカエサルの戦役における大火
ギリシアの著述家であったプルタルコス(Plutarchus)は、『英雄伝』で次のように述べる。ユリウス・カエサル(G.Iulius Caesar)が、紀元前48年のローマ内戦でアレクサンドリアにおいて狙われた際(カエサルは)それを逃れるために自身の船隊に火を放った。この火が「船渠を焼いたのち、さらに燃えひろがってついにかの大書庫を灰燈に帰せしめた」としている。この記述を根拠に火事が原因で図書館が焼失し、終焉を迎えたという説を提起する者もいる。他方、大書庫は図書を保管していたアレクサンドリア図書館とは別の港近くの倉庫という説を主張する者もいる。この後、アントニウスがクレオパトラに対して、焼失したアレクサンドリア図書館のコレクションの代わりとして、ベルガモン図書館のコレクションから20万冊を贈ったとされている。
図書館の消滅を否定する根拠になるのが、カエサルの死後に、アレクサンドリアを訪れた人による、立派な図書館が存在し続けていたとの証言である。その後も、3世紀後半パルミラの女王ゼノビア(Zenobia)とローマ皇帝アウレリアヌス(L.D.Aurelianus)との戦いで炎上したとの伝説もある。
こうした伝説から確証を得ることはできない。しかし、数度にわたる戦火により、アレクサンドリアにあった図書が何らかの損傷を被ったことは想像にしやすい。403年に没したサラミスのエピファニオス司教が、アレクサンドリア図書館やムセイオンのあったところは、いまは荒れ果てた一角だと書き残していることから400年よりも前にその機能を失っていたと考えられる。
391年のキリスト教徒によるセラペウム図書館の破壊
313年にローマ帝国では、コンスタンティヌス帝(Constantinus Ⅰ)のミラノ勅令によりキリスト教が認められた。さらに388年にテオドシウス1世(Theodosius Ⅰ)はキリスト教を国教とし、それ以外の宗教が異教ということになった。391年、アレクサンドリアの総司教テオフィルス(Theophilos)の求めに応じ、テオドシウス1世は、アレクサンドリアにある異教の神殿破壊を許可する勅令を与えた。テオフィルスは、キリスト教信者を従えて、セラペウムを徹底的に破壊し、略奪しつくした。事実上、セラペウムの図書館が消滅した瞬間であった。なお、セラベウムの図書館が破壊された頃、天文学や数学に通じた学者アレクサンドリアのテオン(Theon of Alexandria)がアレクサンドリア図書館の館長を務めていたとされる。 415年には、テオンの娘で天文学や数学、哲学に通じた学者ヒュパティア(Hypatia)が異教徒迫害のなかで虐殺された。
415年にキリスト教の聖職者で神学や歴史を著した学者でもあったオロシウス(Qrosius)は、アレクサンドリアを訪問した。彼はセラペウム図書館について「われわれがかつて見た神殿は今なお存在する。しかしその書架はわが信仰の友たちによって空しくされたのだ。この事実は疑いようがない」と記した。
642年のアルム将軍によるアレクサンドリア占領
12世紀から13世紀の著述家イブン・アル=キフティ(lbn al-Qifti)の『賢者の歴史(ターリフ・アル・フクマ)』には、次のような記述がある。
642年にアラブのアムル・イブン・アル=アース(Amr ibn al-As)将軍によるアレクサンドリア占領の際に、知り合ったアレクサンドリアの文法家でコプトの僧であったョハネ(Johannes)が、プトレマイオス2世が死ぬまで収集し続けた図書が王家の宝物の中にあり、自分たちに役立つかもしれないと申し出た。アムル将軍は、カリフの許可なくその図書を勝手に処分することはできないと答え、図書の取り扱いに関する問い合わせをカリフのウマル(Umar)へ行った。その返事は、図書について、そこに書かれた内容がイスラム教の神の書と一致するならばそれらの図書は必要ない。もし反するものならば、それらは望ましくないものであるから、すべてを焼却せよ。この指示を受け、アムル将軍は、図書をアレクサンドリアの浴場に配分し、燃料として利用させたという。
アラブの征服は、宗教や文化、風俗、慣習に干渉しない、宗教的に寛容であったとされていることは、アムル将軍の行為と矛盾する。さらに、イブン・アル=キフティによる記述は、アレクサンドリア占領から500年以上経過して書かれたものであり、史実を裏付けるものと考えられていない。ひとつの伝承としてとらえるべき話である。いずれにしても、アレクサンドリア図書館が一度に消滅したか、徐々に衰退していったのかははっきりしていないのである。
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