『第一次世界大戦史』より ヴェルサイユ条約とその後の群像
本書を締めくくるにあたり、ヴィルヘルム二世のその後に触れておきたい。オランダに亡命したヴィルヘルムは、ヴェルサイユ条約第二二七条で「国際道徳および条約の尊厳にたいする重大な犯罪の故をもって訴追する」とされる。ヴィルヘルムの訴追を知り、かつての宰相ベートマンは動く。一九一九年六月、代わりに自身を裁判にかけるよう連合国側に要請したのだ。この訴えは無視され、彼は二一年に六四歳で亡くなる。
一九二〇年一月、連合国はオランダ政府にヴィルヘルムの引き渡しを要求する。しかし、オランダ政府は条約の署名国でないことから、直ちに引き渡しを拒否する。さらにオランダ女王、従兄弟のジョージ五世も戦争犯罪人としての彼の召喚に反対した。ただ、ジョージ五世の介入はイギリス政府によって封じられた。また、ペルギーのアルペール一世も意外なことに反対している。彼の反対は、召喚に積極的となるかもしれなかったベルギー政府に大きな圧力となった。
王室ネットワークは大戦を回避できなかったが、ここに来て、ヴィルヘルムを「救う」ためには機能したのである。さらに彼の訴追に関しては、連合国間で当初より足並みが揃っていなかった。イギリス以外は、召喚に熱心ではなかったのである。
召喚の恐れはいつしかなくなり、オランダのドールン城に住みながら、ヴィルヘルムは復位の夢を抱き続ける。一九二九年一月に七〇歳の誕生日を迎えた時、ヴィルヘルムのかつての将軍たちはドールンに集まって祝し、「真の英雄」とも称されたマッケンゼンが代表して祝いを述べた。ヴィルヘルムは即興で、集まった人々にいまでも忠誠を誓うかを問うた。皆が一致して「ヤー」(はい)と答えたと言う。
しかし、ナチスの台頭は、彼の復位の夢を遠ざけた。ヒトラーを嫌うヴィルヘルムは、ヒンデンブルク大統領を通して復位を果たそうとするが、ヒンデンブルクは個人的には復位を望むものの政治的状況と世論からしてそれは不可能であると間接的に伝える。
一九三四年二月、ヒトラーは強烈な君主制批判をして、君主制に関係する組織を非合法化してしまう。病に侵されたヒンデンブルクは五月に書面を残し、その中でいつの日か君主制が復活することを望むと記すが、いつが適切かはヒトラーに判断を委ねるとした。八月初め、ヒンデンブルクは死去する。最後の言葉が「我がカイザー」というのは出来過ぎた話だが、混濁する意識ゆえのこととされる。ヒンデンブルクの国葬をタソネンベルクで執り行ったヒトラーは、ヴィルヘルムがもっと早くヒンデンブルクの能力を認めていたら、大戦は勝利に終わったかもしれないと述べた。
第二次世界大戦の勃発で、ヴィルヘルムの政治的利用価値は高まった。一九四〇年五月にドイツがオランダを占領しドールンが解放されると、彼はディナーでシャンペンを開け、グラスを片手に涙を流して、その「栄光の瞬間」を喜んだ。ヒトラーは彼に書簡を送り、ドイツに戻るよう誘うが、ヴィルヘルムは間接的に断りを入れる。
チャーチルもヴィルヘルムの政治的価値に目をつけて政治亡命を打診したが、「イギリスに逃れるくらいならオランダで撃たれる方がましだ」と断る。チャーチルの政治宣伝に利用されるのは目に見えており、またイギリスヘの恨みも消えていなかったのだろう。
ヴィルヘルムはドイツの軍事的成功を喜んでいたが、それは彼にとっては「余の学校出身」の将軍たちの勝利であるからだった。老いてもなお虚栄心は変わらなかったのである。フランスが休戦を申し出ると、第一次世界大戦の仇討ちができたと考えたのだろう、ヒトラーに祝電を送る。ただ、ヒトラーは素っ気ない返電をしたのみであった。ナチスは彼を見限ったのだった。
ヴィルヘルムは一九四一年六月四日、病気のために八二歳で亡くなった。ヒトラーはヴィルヘルムの国葬をベルリンで行い、その棺の後を歩くことで、ドイツの代々の皇帝の継承者が自身であるように印象づけたいと考えた。しかし、ヴィルヘルムの遺族は、ドイツが君主国でなければドールンに埋葬するようにという遺言の指示に忠実に従い、それを断る。ただ、ナチスを無視もできないので、その関係者も葬儀に招くかたちで妥協が図られ、六月九日に葬儀が行われた。
ドイツから九二歳のマッケンゼンが駆けつけたが、途中、イギリス軍の空爆で到着は遅れた。マッケンゼンはヴィルヘルムに最後まで忠実であった。国民的な人気があった彼は、ワイマール共和国の時代に、望めばヒンデンブルクのようにドイツの指導者の一人になれた可能性がある。そうなればヴィルヘルムの復位も多少は現実味を帯びたかもしれない。しかし、マッケンゼンは政治に関心がなかった。葬儀の二度目の儀式の終わりには、ヴィルヘルムが愛したポツダムの土が棺の上に撒かれた。それからマッケンゼンは棺に寄り添い、しばし祈りを捧げた。
葬儀の日は、すばらしく晴れ上がった六月の一日だったという。二七年前の六月のサライェヴォの暗殺の日がそうであったように。
本書を締めくくるにあたり、ヴィルヘルム二世のその後に触れておきたい。オランダに亡命したヴィルヘルムは、ヴェルサイユ条約第二二七条で「国際道徳および条約の尊厳にたいする重大な犯罪の故をもって訴追する」とされる。ヴィルヘルムの訴追を知り、かつての宰相ベートマンは動く。一九一九年六月、代わりに自身を裁判にかけるよう連合国側に要請したのだ。この訴えは無視され、彼は二一年に六四歳で亡くなる。
一九二〇年一月、連合国はオランダ政府にヴィルヘルムの引き渡しを要求する。しかし、オランダ政府は条約の署名国でないことから、直ちに引き渡しを拒否する。さらにオランダ女王、従兄弟のジョージ五世も戦争犯罪人としての彼の召喚に反対した。ただ、ジョージ五世の介入はイギリス政府によって封じられた。また、ペルギーのアルペール一世も意外なことに反対している。彼の反対は、召喚に積極的となるかもしれなかったベルギー政府に大きな圧力となった。
王室ネットワークは大戦を回避できなかったが、ここに来て、ヴィルヘルムを「救う」ためには機能したのである。さらに彼の訴追に関しては、連合国間で当初より足並みが揃っていなかった。イギリス以外は、召喚に熱心ではなかったのである。
召喚の恐れはいつしかなくなり、オランダのドールン城に住みながら、ヴィルヘルムは復位の夢を抱き続ける。一九二九年一月に七〇歳の誕生日を迎えた時、ヴィルヘルムのかつての将軍たちはドールンに集まって祝し、「真の英雄」とも称されたマッケンゼンが代表して祝いを述べた。ヴィルヘルムは即興で、集まった人々にいまでも忠誠を誓うかを問うた。皆が一致して「ヤー」(はい)と答えたと言う。
しかし、ナチスの台頭は、彼の復位の夢を遠ざけた。ヒトラーを嫌うヴィルヘルムは、ヒンデンブルク大統領を通して復位を果たそうとするが、ヒンデンブルクは個人的には復位を望むものの政治的状況と世論からしてそれは不可能であると間接的に伝える。
一九三四年二月、ヒトラーは強烈な君主制批判をして、君主制に関係する組織を非合法化してしまう。病に侵されたヒンデンブルクは五月に書面を残し、その中でいつの日か君主制が復活することを望むと記すが、いつが適切かはヒトラーに判断を委ねるとした。八月初め、ヒンデンブルクは死去する。最後の言葉が「我がカイザー」というのは出来過ぎた話だが、混濁する意識ゆえのこととされる。ヒンデンブルクの国葬をタソネンベルクで執り行ったヒトラーは、ヴィルヘルムがもっと早くヒンデンブルクの能力を認めていたら、大戦は勝利に終わったかもしれないと述べた。
第二次世界大戦の勃発で、ヴィルヘルムの政治的利用価値は高まった。一九四〇年五月にドイツがオランダを占領しドールンが解放されると、彼はディナーでシャンペンを開け、グラスを片手に涙を流して、その「栄光の瞬間」を喜んだ。ヒトラーは彼に書簡を送り、ドイツに戻るよう誘うが、ヴィルヘルムは間接的に断りを入れる。
チャーチルもヴィルヘルムの政治的価値に目をつけて政治亡命を打診したが、「イギリスに逃れるくらいならオランダで撃たれる方がましだ」と断る。チャーチルの政治宣伝に利用されるのは目に見えており、またイギリスヘの恨みも消えていなかったのだろう。
ヴィルヘルムはドイツの軍事的成功を喜んでいたが、それは彼にとっては「余の学校出身」の将軍たちの勝利であるからだった。老いてもなお虚栄心は変わらなかったのである。フランスが休戦を申し出ると、第一次世界大戦の仇討ちができたと考えたのだろう、ヒトラーに祝電を送る。ただ、ヒトラーは素っ気ない返電をしたのみであった。ナチスは彼を見限ったのだった。
ヴィルヘルムは一九四一年六月四日、病気のために八二歳で亡くなった。ヒトラーはヴィルヘルムの国葬をベルリンで行い、その棺の後を歩くことで、ドイツの代々の皇帝の継承者が自身であるように印象づけたいと考えた。しかし、ヴィルヘルムの遺族は、ドイツが君主国でなければドールンに埋葬するようにという遺言の指示に忠実に従い、それを断る。ただ、ナチスを無視もできないので、その関係者も葬儀に招くかたちで妥協が図られ、六月九日に葬儀が行われた。
ドイツから九二歳のマッケンゼンが駆けつけたが、途中、イギリス軍の空爆で到着は遅れた。マッケンゼンはヴィルヘルムに最後まで忠実であった。国民的な人気があった彼は、ワイマール共和国の時代に、望めばヒンデンブルクのようにドイツの指導者の一人になれた可能性がある。そうなればヴィルヘルムの復位も多少は現実味を帯びたかもしれない。しかし、マッケンゼンは政治に関心がなかった。葬儀の二度目の儀式の終わりには、ヴィルヘルムが愛したポツダムの土が棺の上に撒かれた。それからマッケンゼンは棺に寄り添い、しばし祈りを捧げた。
葬儀の日は、すばらしく晴れ上がった六月の一日だったという。二七年前の六月のサライェヴォの暗殺の日がそうであったように。
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