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新自由主義的経済路線の採用 バルト三国

『ヨーロッパの政治経済・入門』より

バルト三国は以下のような理由で、旧ソ連からの独立にともない経済構造の転換を余儀なくされた。

 (1)この諸国の製造業は、社会主義期には旧ソ連の国内における分業体制に組み込まれていたことで、主として旧ソ連内の他の共和国向けに製品を「輸出」する体制を整えていたが、旧ソ連の解体にともないこの分業体制が解体し、そのため製造業の「輸出市場」も失われた。

 (2)あわせて旧ソ連との関係が途絶えたことで、従来は旧ソ連の他の共和国から安い価格で入手できた石油や工業用の原材料を、「国際価格」で購入せざるをえなくなった。

 (3)旧ソ連から独立して新しい国家を形成したことにともない、自国独自の通貨を新たに導入しなければならなくなったことで、通貨の信頼性を確保するために、経済を早期に安定させることが不可欠となった。

ここからバルト三国では、独立の直後から緊縮財政や通貨流通の抑制、あるいは企業への補助金廃止などの施策を通して、インフレを抑制し経済を安定化させる方針がとられることとなった。だがその結果として、社会主義期に存在していた製造業中心の産業基盤を維持することができなくなったのみならず、1990年代の前半には大幅な経済の落ち込みを経験した。他方でバルト三国においては、苦痛を伴う経済改革が新しい国のためには不可欠であるという認識が広まっていたことから、次に述べるポーランドとは異なり、経済面での苦境が政治的な対立や反発をもたらすということは、少なくとも体制転換の当初はほとんどなかった。また1990年代の後半以降は、エストニアは皿産業への重点的支援と金融・サービス部門の自由化による外資の導入により、ラトヅィアとリトアニアは一次産品およびその加工品の西側への輸出、ならびにロシアとEU諸国の間の中継貿易により、それぞれ経済状況を好転させることに成功し、その結果として各国とも、一時期は年率で10%を超える経済成長を達成することとなる。

ただバルト三国の中でも、エストニア・ラトヴィアとリトアニアの間では、制度や政策に違いが存在する。まずエストニアとラトヴィアにおいては、労働組合の影響力が弱いこともあり、主要な政党はリペラル系ないし保守系の路線を支持していることで、経済政策では新自由主義的な政策がとられてきた。その一方で、両国の主要政党は福祉を軽視してきたわけではなく、むしろ年金や医療、あるいは育児支援などにおいて、すべての人を対象とする基礎的な保障と所得のある人に対する所得補償とを組み合わせた、広い層を対象とする北欧的な制度を導入していることで、単純な自由主義とは一線を画している。

ただこのことは、両国において広く国民に福祉を提供するしくみが存在することを意味するわけではない。ここでポイントとなるのが、両国における[口シア語系住民]の存在である。両国では体制転換の初期において、緊縮的な経済改革への不満を抑えるために、ロシア語系住民を「スケープゴート」として利用したことが指摘されている(Vanhuysse 2009)。具体的には、ロシア語系住民の政治的影響力を抑えるために、その市民権の獲得や参政権に制限を加える、あるいはロシアとの結び付きが深い企業を整理・淘汰するなどの施策をとる一方で、エストニア人やラトヴィア人の雇用が見込める企業や産業には支援を与えるなどして、ロシア語系住民により大きな負担がかかるような政策が行われたとされる。このような政策の結果として現在では、両国では所得の低い層でのロシア語系住民の比率が高くなっているが、このことと両国における福祉の枠組みが「低いレペルの基礎保障と所得に応じた支給」との組み合わせとなっていることとを考えあわせると、両国では福祉の枠組みが低所得者が多いロシア語系住民への福祉の供給を制限する一方で、ある程度の所得がある両国の「自民族」には、不十分ながらそれなりの福祉利益を与える作用を果たしていることがわかる。そしてこのしくみのために、両国では福祉が所得再配分の機能を十分には果たしておらず、そこから表7-4にもあるように、国内の格差や貧困は中東欧の中でも程度の高い状態にある。また同時に、政党間対立が民族問題とも連関していることで、ロシア語系住民の支持を得ている政党は、両国では政権に参加しにくくなっていることも指摘されている(小森、2011)。

他方でリトアニアに関しては、労働組合が弱いこともあり、新自由主義的な経済路線にあわせるかたちで、福祉の面でも次に説明するポーランドとともに、福祉を必要とする貧困層などを対象に限定的に福祉を提供するという枠組みにれを「残余型」もしくは「リベラル型」福祉と呼ぶこともある)が存在している。ただしリトアニアでは、かっての共産党の流れを汲む社会民主党が政党政治の中である程度の影響力を有している点で、先の2カ国とは異なっている。

リトアニアにおいて、社会民主主義的な政党が存在するのに福祉が十分に整備されない理由について、一部にはその理由をエストニア・ラトヴィアとリトアニア・ポーランドとの宗教の違い(エストニアとラトヴィアはプロテスタントが主流だが、リトアニアとポーランドはカトリックが多数派となっている)に求める見方もある。だが政治経済的な視点からは、リトアニアの左派は旧ソ連時代に要職に就いていた人物を現在の公職から追放しないことを条件として、経済政策では自由主義的な路線をとることに合意していたことや、エストニアとラトヅィアではロシア語系住民の問題が政策とも関連していたのに対して、リトアニアではそのような民族軸の作用が弱かったことなどに注目するのが、適切であろう。
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コメント
 
 
 
リトアニアにはいつ行ける? (μ)
2012-05-01 22:20:25
2005年愛知万博でリトアニア館に24回、行った。ビデオ放映が気に入った。
図書館の場所も通訳さんから聞いている。
行きたい。心がリリースできる気がします。
 
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