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ケニアの就職事情

『ケニアを知るための55章』より

ケニアには正確な失業率のデータがない。たとえば日本では2011年1月時点の完全失業率は4.9%であり、ひとりの求人者に対して何件の求人かおるかを示す、有効求人倍率は0.61倍となっている。不況下の就職難が社会問題化している日本でこのレベルである。一方ケニアを見ると、正確な統計数字は公表されていないが、失業率は36%から40%に達するのでないかと指摘されている。労働可能人口の3人に1人以上が仕事を見つけられない状態が恒常的に続いているのである。

にもかかわらず、中等・高等教育の充実は、毎年、膨大な数の失業者予備軍を狭くて小さい労働市場に送り込んでいる。とくに二期目のキバキ政権が目玉政策とした中等教育の無料化(実際は、学費の何割かを政府が肩代わりするもので、無料化ではなぃ)によって、百数十万人という大量の中等学校生徒が誕生した。そのなかから毎年、30万人近い卒業生を社会に送り出している。また1970年代までは、ナイロビ大学が唯一の最高学府だった状況が続いていたが、モイ政権になって、各地の師範学校、技術専門学校、農学校などを国立大学に格上げした。その後のキバキ政権下では雨後のタケノコのように私立大学が誕生してその数は2011年には94一校にも達した。そこで学ぶ学生数は15万人以上である。そこからも毎年数万人が就職戦線に参入するのである。

かつてケニアの大学生は、明治時代の帝国大学生のように、社会のなかの超エリートとして見なされ、就職活動で苦労することはなかった。しかし、今日、大きく状況は変わった。「大学は出たものの」という失業学士が数多く出現している。わたしが調査している西ケニアの山村地域でも、獣医師の資格を持っているナイロビ大学の卒業生が、地元の小学校の臨時雇い教師(臨時雇いの場合、給料は地元の保護者が出すので、杢雇いの10分の一ほどしかなく、それすらも遅延しがちだ)をしたり、同じくナイロビ大学で人類学を専攻した学士が、定職がなく、毎日ぶらぶらしていたりする。

とは言っても、大学卒業生には、まだ中間層になりあがるチャンスが残されている。さまざまなツテやコネを活用して、安定して高収入が約束されている職につく可能性があるからだ。ケニア経済は21世紀にはいって、成長軌道にのっている。このおこぼれにあずかって、自家用車を持ち広大な一戸建て住宅での生活を享受する卒業生も少なくない。

このように大学卒業者は、一応、就職エリートなのだが、彼らがあこがれる分野は、時代を反映して大きく変化している。1960年代、独立まもないケニアでは、大学生は超エリートだったが、彼らがもっとも望んだのは、新生ケニアの国造りへの参加だった。具体的には、官僚や公社公団の幹部職員にこぞって応募した。たしかにこの時代は、こうした「国家セクター」は、給与もそれ以外の医療、住宅などの保障ももっとも整備され安定していた。しかし1970年代になると、学生たちの関心は、国家機関から外資系の大企業へとうつる。国家公務員の給料は、外資系の管理職に比べると著しく低く抑えられ、また昇進にも時間がかかることが嫌がられたのである。

次の1980年代、彼らが惹きつけられたのは、国連やEUなどの国際機関の専門職・管理職員だ。外資系の企業の多くは、1980年代のケニア経済の停滞と破たんを前に雇用を控え、なかには規模を縮小するものも出てきた。こうしたなかで、ケニアにIMFと世界銀行からの「構造調整」が押しつけられ、多くの国際機関が拠点を置き、資格を有する高学歴者を雇用し始めた。そし21世紀を迎えた今日、ケニアの大学生にもっとも人気のある就職先は、国内外のNGOである。とりわけ2002年、独裁的で強権的だったKANU政権が選挙で敗退すると、それまでの規制や弾圧が緩和され、夥しい数のNGOが活動を開始する。そこではコーディネーターや管理担当の人材が求められる。しかも、海外のNGOの場合、現地採用のケニア人職員と極端な給料格差をつけることはしないので、相当高額の収入を得ることができる。あるとき、ナイロビのカフェでわたしと友人のナイロビ大学の先生がお茶を飲んでいると、彼の学科を前年に卒業した学生が、ラップトップパソコンと電子手帳を手に颯爽と通りかかった。友人の教員が近況を聞くと、西欧系の開発援助NGOに就職した彼は、官庁街に隣接するオフィスで秘書を雇って仕事をしているということだった。彼の給料は、すでに友人のナイロビ大学教員より上だった。

こうした一部の就職エリートは、ケニア全体の労働市場ではごく一部の特権的階層にすぎない。圧倒的多数の失業(予備軍)には無縁の世界である。失業率が4割近い状況では小学校卒業や中等学校中退組が職を得るチャンスはきわめてむつかしい。もちろんなかには、家族、親族のなかに有力者がいて、特別な「好意」で「裏口」から職をゲットするラッキーボーイもいるが、貧しい庶民の多くはそうしたコネを持だない。では、彼らはどのようにして、就職するのだろうか。それとも、職探しをあきらめて、都市で浮浪するのだろうか。

答えは、「セルフヘルプ」にある。彼らは、会社員や公務員、NGO職員といった「正業」ではなく、国家の雇用統計にのらないような行商や職人などの「雑業」を自ら創りそこで金を稼ぐのである。こうした「雑業」は、「インフォーマル(非公式)セクター」とも呼ばれるが、ケニアのような社会では、インフォーマルな領域こそが、人びとの現実の暮らしを支えている。

1980年代以降今日に至るまで、農村から都市に流れてきた若者にとって、もっとも一般的な仕事は、建築現場の旦雇い労働だった。ナイロビでは各地で高層ビルや中間層向け住宅が建設されており、若者たちは、前日に日雇い仲間の友人から情報を仕入れて、朝一番で建築現場に出かけ、現場監督に懇願する。こうした労働は、一週間単位のことが多く、一日分の日当を現場監督に差し出すことで職を得ることもある。建築現場で経験をつむと、見よう見まねで、大工や石工のまねごとができるようになる。そうすると、自分で工具を調達し、今度は、単純労働者ではなく職人として、自分を売りこむのである。職人になると日当が倍近くになるので、ナイロビの失業青年にとって、職人になることは人生の成功を意味している。

工事現場以外の「雑業」で注目されたのは、「ジュアーカリ」と呼ばれる、路上の職人たちである(第26章参照)。ジュアーカリとは、「きつい日差し」を意味するスワヒリ語だが、道路端や広場など屋根のない作業場で、車を修理したり、家具を製作したりする職人の高い技術と勤勉さは、1990年代にはいって政府や海外の援助機関が注目して、組合の結成や資本の融資などがおこなわれるようになった。

21世紀になると、この「雑業」は農村部でも見られるようになった。都市でどうしても食いつなぐことができなくなった「出稼ぎ青年」たちが、都市生活を断念して故郷に戻り、そこで、建築職人、修理工、行商、日干しレンガづくりなどの仕事を自ら創りだして暮らしている。現代ケニア社会は、いま全体として「雑業」の時代を迎えているのである。
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