未唯への手紙
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主権を超えて? --国民国家とEUとの関係
『ヨーロッパ統合史』より ヨーロッパ統合とは何だったのか
本書は、国家主権とヨーロッパ統合の関係について、理論や思想の観点から検討したわけではない。しかしながら、統合史を紐解くにつれ、にじみ出てきた点がいくつかあり、それを考察することは有益だと思われる。
主権と統合の関係については、歴史家のアラン・ミルワードが、戦後の統合が『国民国家の救済』のプロジェクトであったとし、その間のゼロサムな関係を否定した3.実際、本書でも、たとえばシューマン・プランやプレヴァン・プランの提案、単一欧州議定書やマーストリヒト条約の策定といった統合史における決定的な瞬間に、各国の利害が衝突し、時に激しい対立や交渉を経て、各国の利益が反映された局面を数多く見出すことができる。統合は、一面では、主権国家の選択の問題であったわけである。
しかしながら、この二項対立が解消されたとすればすべて説明がっくかというとそうでもない。主権と統合の間には、控えめに言っても緊張関係があり、それは統合が進めば進むほどそうなのである。
およそ統合の構想が打ち上げられ実際に統合が進むとき見て取れるのは、そのたびに伴う主権の保持の試みである。第2章で見られたように、戦間期におけるプリアンのヨーロッパ連邦構想は、その具体化の段階で出された仏外務省のレジェによる覚書で、国家主権には指一本触れさせないものと位置づけられた。第5章で検討したドゴールの空席政策は、戦後の統合史のなかでも最も危機的な国家主権の発動であったが、そこにはハルシュクインEEC委員会の急進的な統合案への反発があった。また、第8章で見たように、マーストリヒト条約の批准への最後の関門は、ドイツ憲法裁判所による判決にあったが、そこでは国民主権の論理が体系的に弁護されていた。
これらは主権と統合がぶつかり摩擦を起こすハイライトでもある。ただし、そうしたドラマの陰で進行している別の次元の過程にも本書は目を向けてきた。そうしなければ、戦後半世紀以上にわたるヨーロッパ統合のダイナミズムを捉えきれないからである。まず経済的には、統合の枠のなかで、第三国からの貿易転換を伴いながら、加盟国間の相互依存が深く進行した。国内総生産に占める域内輸出依存度は1950年を底にして上昇し、60年代末には1913年の水準をほぼ回復し、70年代に入ってからもそれは上昇し続けた4.これが、加盟国の足腰をお互いに結びつけ合っていたのは事実であり、主権の問題を考える際にも前提となる。
より重要な点として本書で強調してきたのは、行政および法的な統合である。上記のドゴールの空席危機の際に、EEC政策実施メカニズムであるコミトロジーには代表を残したことはすでに述べたが、これは主権の発動に際してEECの行政機能の中核に壊しきれない部分が出来つつあったことを示唆している。また、このコミトロジーは、農業部門の統合の結果(たとえば穀物の価格の設定に)必要となったものであるが、それは第5章が明らかにしているように、世界的なGATTディロン・ラウンドの場で、EECが対外的に自立していく過程と並行していた。そして、このコミトロジーをはじめ、政策過程のさまざまな段階で、EC加盟国の行政官・外交官が濃密に交流し、その交流が特定政策部門を越えて拡大していくのが、1970年代であった。同時に進行していたEC法の各国法への優位や加盟国市民への「直接効」の確立も、あるいは、のちに市場統合の際に重要視される相互承認の原則も、行政官の交流同様に、目に見えにくい過程であった。がしかし、このいわば「静かなる革命」こそが、80年代以降の統合ダイナミズムを支えた土台を形成していたのだ。第6章が追跡したこの過程も、EUにおける主権の変容を考える際の大切な材料を提供していよう5。
加えて第7~9章で述べた、単一欧州議定書における特定多数決の導入や、マーストリヒト条約の経済通貨同盟規定、そしてその1999年以降の実施が、当然に主権とのかかわりで重要となってこよう。前者は、各国の拒否権を否定し、後者はポダン以来主権の不可欠な一要素に数えられた貨幣鋳造権を加盟国政府から奪ったからである。今や年に1300億ユーロ以上に膨れ上がったEUの予算規模とともに、言うまでもなくこれらは、EUを他の国際機関から分別し、主権へのシリアスな含意をもつ存在として浮かび上がらせている。
さらに述べるとすると、人権の判定についてであろう。というのも、人身保護は、近代国民国家の憲法体制のもとではそれぞれの主権国家が保障する建前になっているが、人権をめぐる判定権の独占は、ことEUとCEに関する限り明瞭に制度的に否定されているためである。これについては、1950年にCE傘下の欧州人権条約が締結され(人権裁判所が59年に設立され)てから、各国裁判所との間で判定主体が長らく多元化していた。加えて、第8~9章で見たとおり、90年代以降、マーストリヒト条約における欧州市民権、アムステルダム条約の人権規定、ニース政府間会議におけるEU基本権憲章採択などによって、EU自身が人権に関する領域で権能を拡大してきており、判定主体はさらに多元化したといえる。最後に、アムステルダム条約の人権規定は、一加盟国の判定を他の加盟国の合意で覆し、EUメンバーシップの停止を可能にしている。第9章で取り上げたオーストリアにおけるハイダー自由党の政権参加をめぐるケースでは、他の加盟国による国別の(同条約に拠らない)制裁の形を取ることでEU枠での制裁を避けたものの、そうした可能性がたんなる条文上のものではないことが示唆されたと言えよう。こうして、主権と人権に関する関係も、古典的図式から離れてきている。
このように主権への深い含意をもつEUではあるが、EUの正統性にとっての根本的な弱点は、デモクラシー(とその国民主権との結合)にある。第8章では「民主主義の赤字」の問題として取り上げたが、ここでは主権との関連で整理してみよう。民主主義の最も鋭利な表現形態の一つとして国民投票というメカニズムがあるが、この結果は主権者である国民の「声」として否定しがたい正統性をもつことになる。統合史を振り返るとき、統合が条約改正の形で進展するにつれ、批准の際に国民投票に訴え、なかには否決という結果をもたらすケースがあった。マーストリヒト条約時のデンマーク、ニース条約時のアイルランド、そして欧州憲法条約時のフランス・オランダがそれである。特に、最後の仏蘭国民投票の結果は、2005年以降のヨーロッパ統合に久しぶりの危機をもたらしたことも第9章で見たとおりである。
この条約批准や国民投票の歴史は、国民投票という正統性創出メカニズムと国民主権をEUが乗り越えられていないことを示している。けれども他方で、統合は事実として進行し、それを加盟国が認めつづけてもいる。アイルランドのケースでは、ニース条約に手を着けず、そのまま再投票をはかり批准にいたっている。デンマークの場合、マーストリヒト条約の一部を適用しないことで再投票にかけ、これも批准を見た。またより重要なことに、条約改正や加盟国拡大のたびに、議会や国民投票を通じて、そのつど権限やメンバーシップを拡張してきたECやEUを、加盟国は是認してきている。それは、たとえば1980年代以降だと、87年(単一議定書)、93年(マーストリヒト条約)、94-95年(北欧と埃への拡大)、99年(アムステルダム条約)、2004年(東方拡大)と、数年おきにECやEUはその存在をまるごと再確認されているような状況でもある。したがって、憲法(条約)はなくとも、半世紀にわたって相当に堅固な統治枠組みにれも英仏語でぱconstitution')が積み上がってきていると言えよう。いわば、「憲法なき憲法体制」が出来上がっているのである。
これは、国家にもなりきらず、しかし単なる国際機関でもないEUが、やや宙ぶらりんの中間状態を常態化させてきていると見ることもできよう。こうして、主権の理論と実態の双方に、興味深い問いかけを投げ続けているのがEUなのである6。
本書は、国家主権とヨーロッパ統合の関係について、理論や思想の観点から検討したわけではない。しかしながら、統合史を紐解くにつれ、にじみ出てきた点がいくつかあり、それを考察することは有益だと思われる。
主権と統合の関係については、歴史家のアラン・ミルワードが、戦後の統合が『国民国家の救済』のプロジェクトであったとし、その間のゼロサムな関係を否定した3.実際、本書でも、たとえばシューマン・プランやプレヴァン・プランの提案、単一欧州議定書やマーストリヒト条約の策定といった統合史における決定的な瞬間に、各国の利害が衝突し、時に激しい対立や交渉を経て、各国の利益が反映された局面を数多く見出すことができる。統合は、一面では、主権国家の選択の問題であったわけである。
しかしながら、この二項対立が解消されたとすればすべて説明がっくかというとそうでもない。主権と統合の間には、控えめに言っても緊張関係があり、それは統合が進めば進むほどそうなのである。
およそ統合の構想が打ち上げられ実際に統合が進むとき見て取れるのは、そのたびに伴う主権の保持の試みである。第2章で見られたように、戦間期におけるプリアンのヨーロッパ連邦構想は、その具体化の段階で出された仏外務省のレジェによる覚書で、国家主権には指一本触れさせないものと位置づけられた。第5章で検討したドゴールの空席政策は、戦後の統合史のなかでも最も危機的な国家主権の発動であったが、そこにはハルシュクインEEC委員会の急進的な統合案への反発があった。また、第8章で見たように、マーストリヒト条約の批准への最後の関門は、ドイツ憲法裁判所による判決にあったが、そこでは国民主権の論理が体系的に弁護されていた。
これらは主権と統合がぶつかり摩擦を起こすハイライトでもある。ただし、そうしたドラマの陰で進行している別の次元の過程にも本書は目を向けてきた。そうしなければ、戦後半世紀以上にわたるヨーロッパ統合のダイナミズムを捉えきれないからである。まず経済的には、統合の枠のなかで、第三国からの貿易転換を伴いながら、加盟国間の相互依存が深く進行した。国内総生産に占める域内輸出依存度は1950年を底にして上昇し、60年代末には1913年の水準をほぼ回復し、70年代に入ってからもそれは上昇し続けた4.これが、加盟国の足腰をお互いに結びつけ合っていたのは事実であり、主権の問題を考える際にも前提となる。
より重要な点として本書で強調してきたのは、行政および法的な統合である。上記のドゴールの空席危機の際に、EEC政策実施メカニズムであるコミトロジーには代表を残したことはすでに述べたが、これは主権の発動に際してEECの行政機能の中核に壊しきれない部分が出来つつあったことを示唆している。また、このコミトロジーは、農業部門の統合の結果(たとえば穀物の価格の設定に)必要となったものであるが、それは第5章が明らかにしているように、世界的なGATTディロン・ラウンドの場で、EECが対外的に自立していく過程と並行していた。そして、このコミトロジーをはじめ、政策過程のさまざまな段階で、EC加盟国の行政官・外交官が濃密に交流し、その交流が特定政策部門を越えて拡大していくのが、1970年代であった。同時に進行していたEC法の各国法への優位や加盟国市民への「直接効」の確立も、あるいは、のちに市場統合の際に重要視される相互承認の原則も、行政官の交流同様に、目に見えにくい過程であった。がしかし、このいわば「静かなる革命」こそが、80年代以降の統合ダイナミズムを支えた土台を形成していたのだ。第6章が追跡したこの過程も、EUにおける主権の変容を考える際の大切な材料を提供していよう5。
加えて第7~9章で述べた、単一欧州議定書における特定多数決の導入や、マーストリヒト条約の経済通貨同盟規定、そしてその1999年以降の実施が、当然に主権とのかかわりで重要となってこよう。前者は、各国の拒否権を否定し、後者はポダン以来主権の不可欠な一要素に数えられた貨幣鋳造権を加盟国政府から奪ったからである。今や年に1300億ユーロ以上に膨れ上がったEUの予算規模とともに、言うまでもなくこれらは、EUを他の国際機関から分別し、主権へのシリアスな含意をもつ存在として浮かび上がらせている。
さらに述べるとすると、人権の判定についてであろう。というのも、人身保護は、近代国民国家の憲法体制のもとではそれぞれの主権国家が保障する建前になっているが、人権をめぐる判定権の独占は、ことEUとCEに関する限り明瞭に制度的に否定されているためである。これについては、1950年にCE傘下の欧州人権条約が締結され(人権裁判所が59年に設立され)てから、各国裁判所との間で判定主体が長らく多元化していた。加えて、第8~9章で見たとおり、90年代以降、マーストリヒト条約における欧州市民権、アムステルダム条約の人権規定、ニース政府間会議におけるEU基本権憲章採択などによって、EU自身が人権に関する領域で権能を拡大してきており、判定主体はさらに多元化したといえる。最後に、アムステルダム条約の人権規定は、一加盟国の判定を他の加盟国の合意で覆し、EUメンバーシップの停止を可能にしている。第9章で取り上げたオーストリアにおけるハイダー自由党の政権参加をめぐるケースでは、他の加盟国による国別の(同条約に拠らない)制裁の形を取ることでEU枠での制裁を避けたものの、そうした可能性がたんなる条文上のものではないことが示唆されたと言えよう。こうして、主権と人権に関する関係も、古典的図式から離れてきている。
このように主権への深い含意をもつEUではあるが、EUの正統性にとっての根本的な弱点は、デモクラシー(とその国民主権との結合)にある。第8章では「民主主義の赤字」の問題として取り上げたが、ここでは主権との関連で整理してみよう。民主主義の最も鋭利な表現形態の一つとして国民投票というメカニズムがあるが、この結果は主権者である国民の「声」として否定しがたい正統性をもつことになる。統合史を振り返るとき、統合が条約改正の形で進展するにつれ、批准の際に国民投票に訴え、なかには否決という結果をもたらすケースがあった。マーストリヒト条約時のデンマーク、ニース条約時のアイルランド、そして欧州憲法条約時のフランス・オランダがそれである。特に、最後の仏蘭国民投票の結果は、2005年以降のヨーロッパ統合に久しぶりの危機をもたらしたことも第9章で見たとおりである。
この条約批准や国民投票の歴史は、国民投票という正統性創出メカニズムと国民主権をEUが乗り越えられていないことを示している。けれども他方で、統合は事実として進行し、それを加盟国が認めつづけてもいる。アイルランドのケースでは、ニース条約に手を着けず、そのまま再投票をはかり批准にいたっている。デンマークの場合、マーストリヒト条約の一部を適用しないことで再投票にかけ、これも批准を見た。またより重要なことに、条約改正や加盟国拡大のたびに、議会や国民投票を通じて、そのつど権限やメンバーシップを拡張してきたECやEUを、加盟国は是認してきている。それは、たとえば1980年代以降だと、87年(単一議定書)、93年(マーストリヒト条約)、94-95年(北欧と埃への拡大)、99年(アムステルダム条約)、2004年(東方拡大)と、数年おきにECやEUはその存在をまるごと再確認されているような状況でもある。したがって、憲法(条約)はなくとも、半世紀にわたって相当に堅固な統治枠組みにれも英仏語でぱconstitution')が積み上がってきていると言えよう。いわば、「憲法なき憲法体制」が出来上がっているのである。
これは、国家にもなりきらず、しかし単なる国際機関でもないEUが、やや宙ぶらりんの中間状態を常態化させてきていると見ることもできよう。こうして、主権の理論と実態の双方に、興味深い問いかけを投げ続けているのがEUなのである6。
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