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未唯への手紙

未唯への手紙

職業哲学を嫌った哲学者 ヴィトゲンシュタイン

2017年05月20日 | 2.数学
『超訳 ヴィトゲンシュタインの言葉』より はじめに--職業哲学を嫌った哲学者

24歳の秋からはノルウェイのフィヨルド沿いにあるショルデン村の小屋に引き籠って孤独の中で論文原稿を書き始めたが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、25歳の8月にオーストリア軍の砲兵となった。ヘルニアの手術で兵役が免除されていたにもかかわらず、強い義務感から志願したのだった。そしてロシア軍と戦った。

彼は明らかに自分が死ぬことを意識していた。戦線に立った1914年の日記にこう書いている。

 「私が死ぬのは一時間後かもしれない。…では、この瞬間のひとつひとつを克服するためにはどのように生きるべきなのか。人生がおのずから終わるそのときまで善と美において生きるにはどうすべきなのか」 (クリスティアンヌ・ショヴィレ『ウィトゲンシュタイン その生涯と思索』)

ヴィトゲンシュタインは勇敢な兵士として働き、勲章をいくつか受けている。前線の戦いで乱れそうになる彼の心をささえたのはトルストイが書いた『要約福音書』と持ち歩いていた原稿の加筆だった。功績によって少尉にまで昇格したが、1918年の11月にイタリア軍の捕虜となった。

兵士であった五年間も含めて六年越しで書かれた原稿は1922年に独英対訳の単行本としてイギリスで出版された。これが有名な『論理哲学論考』であり、ヴィトゲンシュタインの生前に刊行されたただ一冊の哲学書である。この薄い一冊が当時の哲学界に衝撃を与えた。従来のほぼすべての哲学を真っ向から否定した書物だと思われたからである。

とはいっても、従来の哲学書のここかしこがまちがっていると指摘したのではない。人間の論理的な思考と表現に用いる文章(命題)というものがいったい世界のどこまでを伝えうるものなのか、どこまでしか伝えられないものなのかを論理の点から考察したのである。

ふつうの人々から見れば、『論理哲学論考』は数式の入った難しい論理学の書物にしか見えない。しかし、ヴィトゲンシュタインはこれを倫理と美学についての哲学書として書いた。そのことは序文にもはっきりと記されている。

 「この本は哲学の問題を扱い、これらの問題に問いを立てることが…言語の論理の誤解に基づくことを示す。この本の全意義を次のような言葉にできるだろう。

 〝もともと言い表せることは明晰に言い表せる。そして語りえないことについては人は沈黙する〟」

つまり、これまでの哲学は難解な問題を扱っていたのではなく、言葉の使い方を誤っていたために、それら問題が難解なものになってしまっていた、というのである。

哲学が取り組みながらも解明できない問題は難しいのではなく、そもそも言語で言い表せないものを言語で表現しようとするからなのだ。言葉で言い表せないものはただ示すしかない。あるいは口をつぐみ、音楽や絵だので別に表現するしかないというわけである。

ヴィトゲンシュタインはこの本を書いたことで哲学の問題はすっかりかたづいたと思った。戦争が彼をすっかり変えていた。宗教的になっていて、哲学についてはもう何もすることがないのだから、神父か教師になりたいと思っていた。

純粋になりたいという深い熱望が以前からあり、彼は父から受け継いだ厖大な財産のいっさいを残った兄と姉たちに譲渡した。

実際、ヴィトゲンシュタインは自分の望みを果たした。教員養成学校をへて1920年の夏に修道院で庭師として働き、その後に小学校の臨時教員となった。卜ルストイの書物の影響で農村の人々に幻想を持っていたのだが、現実の農民はもっと野卑で残忍なものだった。

別の小学校や中学校でも教え、37歳のときに教師を辞任して、また別の修道院で庭師助手となり、姉の邸宅の建築監督をしたり、少女の頭部の彫像をつくったりした。

ケンブリッジに戻ったのは40歳のときだった。すぐに博士号を取得し、トリニティカレッジで今度は日常語についての哲学的探究をテーマに教え始めた。学生の中にはアラン・チューリングがいた。彼は後年コンピュータを発明する。

ヴィトゲンシュタインが哲学教授となったときは50歳だった。当時、反ユダヤ主義のナチスがドイツとオーストリアを支配したため、ユダヤの血の混じる彼はイギリス国籍を取得せざるをえなくなった。

 「講義は下準備もノートの類もなしに行なわれた。…講義中に生まれるものは、大部分が蓄積された知識ではなく、その場でわれわれを前にして生み出される新しい考えであった」 (ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思ぃ出』)

大学で教えていながら、ヴィトゲンシュタインは職業哲学者であることやアカデミックな雰囲気をひどく嫌っていた。授業が終わるとすぐに映画館へと向かい、必ず最前列の席で視界をスクリーンだけで占めながら大衆向けのアメリカ映画を観た。そうしないと、ふさいでいた気が晴れないのだった。彼にとって、哲学の授業をすることはある意味で「生き地獄」だったのだ。

大学の宿舎に住み、飾りがまったくない部屋にはベッド、椅子、テーブルしかなかった。電気スタンドもなかった。手提げ金庫があったが、中身は書きかけの原稿やメモだった。服装は清潔で質素だった。ウールの上着かジャンパー、いつも灰色のフランネルのズボン、ネルのシャツしか着なかった。夕食も堅いパンとバターとココアだけと質素だった。

58歳で大学教授を辞職。前立腺ガンのため62歳で死去した。独身だった。病院で死を迎えることを恐れていたのでケンブリッジの知り合いの医師の家で最期の日々を過ごした。

病状が悪化したヴィトゲンシュタインは「みなさんに伝えてください、私はすばらしい人生を送ったと」と述べてから瞑目した。

自分の影響についてヴィトゲンシュタインはこう書いている。

 「私があたえることのできそうな影響はといえば、なによりもまず、私に刺激されて、じつにたくさんのガラクタが書かれ、もしかしたらそのガラクタが刺激となって、いいものが生まれることかもしれない。いつも私に許されている希望は、このうえなく間接的な影響をあたえることだけなのだろう」 (ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳)

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