未唯への手紙
未唯への手紙
ナチ・ドイツの失業対策のからくり
『ヒトラーとナチ・ドイツ』より なぜ人びとは、ナチ時代は「うまくいっていた」と答えたのか? 雇用の安定をめざす
こうして失業対策は、新政府の目玉政策となった。
具体的には、三三年六月一日の第一次失業減少法(「ラインハルト計画」と呼ばれる)を皮切りに矢継ぎ早に制定された、いくつもの法律に基づいて実行された。
その中心には、直接的雇用創出と間接的雇用創出という二つのタイプの施策がセットとして組み込まれた。
直接的雇用創出とは、公共事業によって労働者の働く場をつくりだすものだ。道路、アウトバーンと呼ばれた高速自動車道、運河、橋梁などの土木建築を政府が発注し、国鉄や郵便のような公営企業が労働者・職員の新規採用を行った。
間接的雇用創出とは、自動車税減免など種々の減税措置、とくに企業減税による企業活動の振興を通して、あるいは国庫助成による住宅建設(持ち家支援政策)などの促進を通して景気の浮揚をはかり、雇用の機会を創出しようとするものだ。
両者の雇用政策の原型はパーペン、シュライヒャーのもとですでに築かれていたものだった。ヒトラーの政策の特徴は、それらを、土木建築分野を中心に多様な分野に広げ、規模をそれらとは比較にならないほど拡大した点にあった。
では、ヒトラー政府のオリジナリティと呼べるものは、どこにあったのだろうか。
三つの点を指摘しておこう。
第一は、労働市場における若年労働力の供給を減らすために、さまざまな形の勤労奉仕制度を導入したことだ。具体的には、一八歳になった若者に半年から一年間、土地干拓や道路建設、農村での補助労働や年季奉公など公益事業に関する奉仕活動を行わせた。当初は自由意志によるとされたが、やがて義務化された。
勤労奉仕に携われば衣食住の心配はなくなり小遣い銭ももらえたが、宿営での集団生活では軍隊のように厳しい規律に従わなければならない。軍服同様の制服に鈎十字の腕章をつけて、軍用シャベルを肩に担ぎながら整然と隊列行進する若者の姿が、あちこちで見受けられるようになった。
この制度を通して労働市場から遠ざかった若者は、年平均でおよそ四〇万人。勤労奉仕への参加が義務づけられた三五年六月以降、活動内容が奉仕から軍事教練へと変化した。
第二は、労働市場における女子労働力の供給を減らす措置がとられたことだ。具体的には、女子就労者を家庭に戻し、女子失業者の就労意欲を削ぐために、結婚奨励貸付金制度が導入された。これは結婚を機に家庭に戻り、二度と就労しないことを条件に上限一〇〇〇マルクの貸付金を交付し、出産すれば子の数(一人につき四分の一返済免除、四人産めば全額免除)に応じて返済額が減免される制度だ。失業者の削減と出生率の向上という二つの目的をもつ政策だと言えるだろう。
女子が離職した後は男子の失業者が埋め、女子の失業者は結婚とともに登録失業者名簿から抹消される。失業者に占める女性の割合は全国平均で二〇パーセント、ベルリンでは二九パーセントに達したから、この制度の効果はてきめんに表れた。三四年には夫婦の共働きを禁ずる法律が制定され、結婚とともに新婦は退職を余儀なくされた。
ドイツでの女性の社会進出は、第一次世界大戦で多くの男子労働力が失われたこともあって、両性の平等を謳うヴァイマル憲法のもとで一気に進んだ。だがヒトラーは、この趨勢に歯止めをかけ、女性の活躍の場を家庭と出産・育児に限ろうとしたのだ。
第三は、失業対策を軍事目的に結びつけたことである。ヒトラーは当初から失業対策は国民が「再び国防態勢」につけるよう実行されるべきだと言明していた。だがヴェルサイユ条約の規制を受ける軍事部門で雇用創出をはかれば、外国の批判を招くことは必至だ。そのため当面は非軍事部門に限られたが、やがて関連の軍事インフラ整備でも雇用の創出がはかられた。
三五年三月、ヴェルサイユ条約に反して一般徴兵制度が再導入された。徴兵制度は失業者数の減少に大いに寄与した。入営はこの年の秋から一九一四年生まれの男子を対象に始まったが、それ以降、毎年一〇〇万人以上の若者が労働市場から姿を消した。
こうしたなりふり構わずの失業対策は、たしかに統計上の成果をあげた。
失業対策に着手するにあたり、ヒトラーはこれを「失業への総攻撃」と呼んで宣戦布告になぞらえた。政府と党の指導のもとに、職のある者もない者も、すべての国民が一致団結して敵=失業の撲滅に向けて粉骨砕身努力することを求めた。勤労奉仕の現場がいかに過酷で、生産性が上がらなくても、それは問題にならなかった。失業者の数を減らすこと--それが先決だった。
ゲッペルスの啓蒙宣伝省は、六〇〇万人という絶望的な数が総統と国民の懸命な努力によって次第に減少していく様子を、ラジオのニュース番組や新聞報道を通じて逐一詳しく伝え、人びとの強い関心を惹きつけた。こうして失業問題の解消は、ヒトラーのもとで一丸となったドイツ国民の一大事業の成就として喧伝され、「労働をめぐる戦い」に勝利したヒトラーの偉業が大々的に讃えられたのだ。
こうして失業対策は、新政府の目玉政策となった。
具体的には、三三年六月一日の第一次失業減少法(「ラインハルト計画」と呼ばれる)を皮切りに矢継ぎ早に制定された、いくつもの法律に基づいて実行された。
その中心には、直接的雇用創出と間接的雇用創出という二つのタイプの施策がセットとして組み込まれた。
直接的雇用創出とは、公共事業によって労働者の働く場をつくりだすものだ。道路、アウトバーンと呼ばれた高速自動車道、運河、橋梁などの土木建築を政府が発注し、国鉄や郵便のような公営企業が労働者・職員の新規採用を行った。
間接的雇用創出とは、自動車税減免など種々の減税措置、とくに企業減税による企業活動の振興を通して、あるいは国庫助成による住宅建設(持ち家支援政策)などの促進を通して景気の浮揚をはかり、雇用の機会を創出しようとするものだ。
両者の雇用政策の原型はパーペン、シュライヒャーのもとですでに築かれていたものだった。ヒトラーの政策の特徴は、それらを、土木建築分野を中心に多様な分野に広げ、規模をそれらとは比較にならないほど拡大した点にあった。
では、ヒトラー政府のオリジナリティと呼べるものは、どこにあったのだろうか。
三つの点を指摘しておこう。
第一は、労働市場における若年労働力の供給を減らすために、さまざまな形の勤労奉仕制度を導入したことだ。具体的には、一八歳になった若者に半年から一年間、土地干拓や道路建設、農村での補助労働や年季奉公など公益事業に関する奉仕活動を行わせた。当初は自由意志によるとされたが、やがて義務化された。
勤労奉仕に携われば衣食住の心配はなくなり小遣い銭ももらえたが、宿営での集団生活では軍隊のように厳しい規律に従わなければならない。軍服同様の制服に鈎十字の腕章をつけて、軍用シャベルを肩に担ぎながら整然と隊列行進する若者の姿が、あちこちで見受けられるようになった。
この制度を通して労働市場から遠ざかった若者は、年平均でおよそ四〇万人。勤労奉仕への参加が義務づけられた三五年六月以降、活動内容が奉仕から軍事教練へと変化した。
第二は、労働市場における女子労働力の供給を減らす措置がとられたことだ。具体的には、女子就労者を家庭に戻し、女子失業者の就労意欲を削ぐために、結婚奨励貸付金制度が導入された。これは結婚を機に家庭に戻り、二度と就労しないことを条件に上限一〇〇〇マルクの貸付金を交付し、出産すれば子の数(一人につき四分の一返済免除、四人産めば全額免除)に応じて返済額が減免される制度だ。失業者の削減と出生率の向上という二つの目的をもつ政策だと言えるだろう。
女子が離職した後は男子の失業者が埋め、女子の失業者は結婚とともに登録失業者名簿から抹消される。失業者に占める女性の割合は全国平均で二〇パーセント、ベルリンでは二九パーセントに達したから、この制度の効果はてきめんに表れた。三四年には夫婦の共働きを禁ずる法律が制定され、結婚とともに新婦は退職を余儀なくされた。
ドイツでの女性の社会進出は、第一次世界大戦で多くの男子労働力が失われたこともあって、両性の平等を謳うヴァイマル憲法のもとで一気に進んだ。だがヒトラーは、この趨勢に歯止めをかけ、女性の活躍の場を家庭と出産・育児に限ろうとしたのだ。
第三は、失業対策を軍事目的に結びつけたことである。ヒトラーは当初から失業対策は国民が「再び国防態勢」につけるよう実行されるべきだと言明していた。だがヴェルサイユ条約の規制を受ける軍事部門で雇用創出をはかれば、外国の批判を招くことは必至だ。そのため当面は非軍事部門に限られたが、やがて関連の軍事インフラ整備でも雇用の創出がはかられた。
三五年三月、ヴェルサイユ条約に反して一般徴兵制度が再導入された。徴兵制度は失業者数の減少に大いに寄与した。入営はこの年の秋から一九一四年生まれの男子を対象に始まったが、それ以降、毎年一〇〇万人以上の若者が労働市場から姿を消した。
こうしたなりふり構わずの失業対策は、たしかに統計上の成果をあげた。
失業対策に着手するにあたり、ヒトラーはこれを「失業への総攻撃」と呼んで宣戦布告になぞらえた。政府と党の指導のもとに、職のある者もない者も、すべての国民が一致団結して敵=失業の撲滅に向けて粉骨砕身努力することを求めた。勤労奉仕の現場がいかに過酷で、生産性が上がらなくても、それは問題にならなかった。失業者の数を減らすこと--それが先決だった。
ゲッペルスの啓蒙宣伝省は、六〇〇万人という絶望的な数が総統と国民の懸命な努力によって次第に減少していく様子を、ラジオのニュース番組や新聞報道を通じて逐一詳しく伝え、人びとの強い関心を惹きつけた。こうして失業問題の解消は、ヒトラーのもとで一丸となったドイツ国民の一大事業の成就として喧伝され、「労働をめぐる戦い」に勝利したヒトラーの偉業が大々的に讃えられたのだ。
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