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未唯への手紙

未唯への手紙

1913年のヒトラー

2015年02月12日 | 4.歴史
『1913』より

アドルフ・ヒトラーは四月二〇日に二四歳となる。彼は、労働者地区ブリギッテナウにあるウィーンのメルデマン通り二七番地の男性宿舎で暮らしており、休憩室で水彩画を描いている。自室だと狭すぎるのだ。五百人もの宿泊者がそれぞれ小さな個室とベッドと衣装掛けと鏡をもっている。ヒトラーはその鏡の前で、毎朝口ひげの手入れをしている。一晩五〇ヘラーだ。ヒトラーのように長期滞在するものは、土曜日ごとに新しいシーツを受け取る。ほとんどの居住者は、日中には仕事を求めて、あるいは退屈しのぎに街のなかをうろつき回り、晩方になるとどっと戻ってくる。昼のあいだ、建物に残る者はごくわずかしかいない。アドルフ・ヒトラーはそういった者たちの一人だ。毎日毎日、彼は「書斎」と呼ばれる部屋の窓の張り出したところに腰掛けて時間を過ごす。そこにはその日の新聞がいくつか掛けてある。そして、ウィーンの名所のスケッチや水彩画を描く。彼はそこで、着古してよれよれになったスーツを身につけて弱々しく腰掛けている。この宿舎の居住者なら誰でも、ヒトラーが芸術アカデミーを放校になったという不名誉な話を知っている。黒くて重い髪の毛が何度も顔に落ちかかってくるので、彼はせっかちに頭を動かしてその髪の毛を後ろにやるのだった。午前中は鉛筆で下書きをし、午後になるとそれに絵の具が加わる。夕方、彼はその紙片を誰か宿舎の居住者のところにもってゆき、それを街で売ってくれと頼む。そういった絵はだいたい第一区のホーフツァイレの美術商キューラーのところか、あるいはシェーンブルン通り八六番地の古道具屋シュリーファーのところで売り払う。彼が描くのはたいていカールス教会だが、ナッシュマルクトのモティーフを取り上げることもある。あるモティーフの受けがいい場合、同じものを三度描くこともある。一枚で三クローネから五クローネになる。だがヒトラーはその金をきちんととっておき、宿舎のほかの居住者のようにすぐ飲んでしまうということはない。彼は節約した暮らしぶりで、ほとんど禁欲的といってもよいほどだ。書斎のとなりにはニーダーエスターライヒ乳業の支店があり、ヒトラーはそこでビン入りのおいしい牛乳やイフラヴァ風黒パンを手に入れてくる。ゆっくりと休養したいときには、彼はシェーンブルンのシュロス公園に行ったり、チェスをしたりする。たいてい彼は、一日じゅう絵の具をもってすわっている。

しかし、いったん部屋の中で政治の話になると、彼のなかで突然衝動が走る。彼はいつのまにか絵筆をほうりだし、両目を爛々と輝かせる。そして、全般的なところでは世界の情勢が、また個別のことではウィーンの情勢が、いかにどうしようもない状況になっているかということを燃え立つような弁舌で語るのだった。このままということはありえない、と彼は叫んだ。ウィーンにはプラハよりも多くのチェコ人が、イェルサレムよりも多くのユダヤ人が、ザグレブよりも多くのクロアチア人が住んでいる、それはありえないことだ。彼は黒い髪の毛の房を後ろにふりはらう。そして唐突に演説をやめると、腰を下ろしてまた水彩画を描きはじめた。

ようやく春になった。高等学校の教諭フリードリヒ・ブラウンと彼の妻フランツィスカは誇らしげな気持ちでベビーカーを押しながら、ミュンヘンのホーフガルテンを歩いていた。彼らは十二月に小さなエーファの両親となったのだ。二四歳のアドルフ・ヒトラーが五月二五日日曜日にミュンヘンに到着したとき、エーファ・ブラウンは六ヵ月だった。

ヒトラーと彼の友人ルドルフ・ホイスラーは、五月二五日の早朝、電車に乗って、オーストリアから逃げるように出て行く。ヒトラーはこの友人とウィーンの男性宿舎で一緒に暮らしていた。彼らがそのような行動をとった理由はおそらく、近い内に兵役につくことになるのでそれから逃れるためだろう。だが、軍部はちょうどそのとき、ほかのことで頭がいっぱいだった。そのことは、彼らにはまだ思いもよらないことだった。

ミュンヘンに到着した最初の日、彼らはもう部屋を探すために初夏の街路を歩き回る。彼らは街の見通しのよさを楽しんでいた。二百一〇万人もの人口をかかえているウィーンとはちがって、居住者は六〇万人しかいない。すべてがのどかで、満ち足りていた。シュライスハイマー通り三四番地の仕立屋ヨゼフ・ポップのところで、彼らは突然、「小部屋空きあり」と書かれた目立たない看板を目にする。ヒトラーは扉をノックし、アンナ・ポップがドアを開ける。彼女はヒトラーに四階の左にある部屋を見せ、ヒトラーはすぐさまその部屋に決める。「アドルフ・ヒトラー、ウィーンの建築画家。」彼はこわばった書体でこのように申込書に記入している。アンナ・ポップはこの申込書を手にして、一二歳と八歳の子どもたち、ョゼフとエリーゼのところに行き、これからはもっと小さな音で遊ばないといけないよ、新しい借り手が入居することになったから、と告げる。

ヒトラーとホイスラーは、彼らのつましい住まいの賃貸料として、週三マルク払った。ヒトラーはウィーンと全く同じように暮らし続けた。大酒をあおることもなく、女性との浮いた話もない。毎日水彩画を一枚、ときには二枚描いていった。アウグスティーナー教会のかわりに、いまではフラウエン教会を描いている。それ以外はこれまでと全く同じままだった。二日後にはもうイーゼルを見つけだし、旧市街でそれを立てていた。街の風景画を二、三枚描くと、彼はミュンヘンの大きなビアホールをいくつかまわり、夜にはホーフブロイハウスで自分の描いた風景画を観光客に買ってもらおうとした。宝石細工師のパウル・ケルバーや香水商のシュネルもゼンドリンガー通りでときおり自分の絵を売っていた。なんとか一枚水彩画を売りつけることに成功すると、彼はその二、三マルクの稼ぎをブレーツェルやソーセージにかえた。というのも、一日中何も食べていないということもよくあったからだ。しかし、これだけのお金があれば、けっこうそれなりのものを手に入れることができる。一九一三年にはビール一リットルの値段は三〇ペニヒ、卵一個は七ペニヒ、パン五〇〇グラムが一六ペニヒ、牛乳一リットルがニニペニヒだった。

毎日夕方五時ちょうどにヒトラーは彼の住まいの近くにあるパン屋のハイルマンのところに行き、五ペニヒでねじりパンを一切れ買う。それから道をわたって斜め向かいにある牛乳屋のフーバーのところに行き、牛乳を半リットル買う。それが彼の夕食だった。

ウィーンでもそうだったように、美術学校を落第した画家アドルフ・ヒトラーは、このミュンヘンのアヴァンギャルド芸術とはいっさい何の関わりももっていなかった。ヒトラーが、一九一三年にミュンヘンで大評判をとっていたピカソ、エゴン・シーレ、あるいはフランツ・マルクといった「退廃芸術」の展覧会を見ていたということは知られていない。ヒトラーと同世代の成功を収めた芸術家たちは、彼のような拒絶された者にとって、生涯を通じて無関係なものでありつづけた。そして、彼は猜疑心、妬み、憎しみをもってそれらの芸術家たちを眺めていたのである。

帰宅するとヒトラーはポップ夫人の住まいをノックし、お茶を滝れるためのお湯を分けてもらおうとした。「よろしいでしょうか?」と彼はいつも口にし、何の邪心もなく自分のティーポットに目を向ける。仕立屋のポップ氏にとってこれは少々神経に障ることであり、こう言うのだった。ほら私たちのテーブルに一緒にすわって食事をしましょうか。腹ぺこといった顔じゃないですか。だが、ヒトラーはこの言葉にうろたえて、自分のティーポットを手にすると、自分の部屋に逃げ帰るのだった。一九一三年を通して、ヒトラーにはミュンヘンでただの一度も来客がなかった。昼のあいだはずっと絵を描き、夜になると三時か四時まで扇動的な政治の本や、どうやったらバイエルンの州議会の議員になれるかといった類いの入門書を読みふけって、同室のホイスラーの怒りをかっていた。仕立屋の奥さんはそういったことを一度目にして、そんな意味のない政治の本などほうっておいて、美しい水彩画をどんどんお描きになったらよいのではないですかとヒトラーに言ったことがある。するとヒトラーはこう答えた。「ポップさん、人生のなかで何か必要で何か必要でないかわかるものでしょうか。」

軍事力増強のため、オーストリア・ハンガリーの全土で、兵役逃れの者たちを探し出しはじめた。八月二二日の失踪者告示には次のようにある。「ヒートラー〔ママ〕、アドルフ、最終居住地、ウィーン、メルデマン通りの男性寮、現在の居住地未詳、捜査継続中。」

一一月七日、アドルフ・ヒトラーはミュンヘンのテアティーナ教会の水彩画を描き、ヴィクトゥアリエンマルクトでその絵をがらくた商人に売る。

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