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南北戦争はどうして凄惨な殺し合いになったのか

『世界<経済>全史』より ユーラシア規模に拡張していく商業

南北戦争については、教科書などでは「奴隷解放の戦争」という北部の戦争プロパガンダがそのまま記されています。

が、実際には、世界で最も高い保護関税を課す北部主導の合衆国から、綿花の生産でイギリス経済と密接な関係を保ち、自由貿易を主張する南部の一一州が「アメリカ連合国」を結成し、独立をめざした戦争だったのです。

しかし、南部が綿花輸出で稼いだ金を財源にできなくなることを恐れた北部は、武力により強引に南部を合衆国に引き留めたのです。

それが、両軍合わせて約六二万人の死者を出した悲惨な内戦の「南北戦争」(一八六一~六五)になりました。

第二次世界大戦のアメリカ兵の死者が約三二万人ですから、それと比べると内戦の規模の大きさが理解できます。

南北戦争は言ってみれば、国という意識が希薄な「他人」同士の凄惨な戦いだったのです。寄せ集めの国でなければ、ありえないことです。

戦争中の一八六二年に、リンカーンは西部の諸州を味方につけるために「ホームステツ-ド法」(自作農創設法)を出しました。五年の間、西部の開拓に従事した二一歳以上の男性戸主に、登記費用のみの負担で約二〇万坪(約65ヘクタール)の西部の国有地を分譲するという人気取りの法律でした。

しかし、この法律は、ヨーロッパの貧しい人々に大歓迎されました。

渡航費用を何とか調達してアメリカに渡り、数年間辛抱すれば大地主になれるという「アメリカン・ドリーム」が広がり、南北戦争後に大挙してヨーロッパから移民が押しかけることになります。そのためたったの二五年間で、西部の未開拓地(フロンティア)は姿を消していきました。

ヨーロッパの大不況の時代に、アメリカの西部がヨーロッパの失業者たちの「受け皿」になったのです。

アメリカ経済は南北戦争後に、大量移民の流入、西部の開拓、大陸横断鉄道の建設で高度経済成長をとげ、世界一の工業国に急成長しました。
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