『世界からバナバがなくなるまえに』より
一八四六年七月、長い冬が終わったあと、アイルランドの畑は一面ジャガイモの芽で覆われ、ゴルフコースのごとく青々としていた。ところが、たった四八時間で状況はまったく変わってしまう。アイルランドの端から端へと、ジャガイモが死んでいったのだ。コーク近郊で、とある旅行者が、畑のなかで歌っている一人の男を見かけた。旅行者が男に何をしているのかと尋ねると、彼は「畑のジャガイモがみな、黒ずんで水を染み出して死んでしまった。生活するすべがなくなってしまった。歌う他に何ができるというのかね?」と答えた。その近くでは一人の女が、かがみ込んでつめを立てて畑の土を掘り起こしていた。彼女のそばには、汗をかいた小さなジャガイモが二、三個置かれていた。子どものために調理するつもりらしかった。コムギもなければ、ニンジンもない。乳牛は売ってしまった。同じことがアイルランド中で起こり、何百万ものアイルランド人が自暴自棄に陥った。こうして、近代史のなかでも最悪の災厄の一つが始まったのである。
アイルランドのジャガイモ飢饉のおぞましさは、私たちの想像を絶する。まず子どもが死に、次に高齢者が死んだ。それから誰もが死んでいった。ましな場所を求めて移動している途中、夜間溝で寝ているあいだに死んだ者もいた。畑で死んだ者もいた。全滅した村もあった。こうして、飢饉が終わるまでに一〇〇万人以上が死んだ。アイルランドで六○万人である。船でアイルランドを出国した人たちもいるが、彼らも同様に死に直面した。被害の規模は圧倒的だった。しかし、私たちの生活に関連してもっとも驚くべきことは、たった今、アイルランドのジャガイモ飢饉が起こったとき以上に多くの作物が、害虫や病原体による被害を受ける危険性があることだ。ジャガイモ飢饉は、過ぎ去った時代における最後の疫病なのではなく、最初の真に現代的な疫病だったと見なせる。そのジャガイモ飢饉がアイルランドという一つの地域に限定された災害であったとするなら、各国の経済がはるかに緊密に結びついたグローバル化した現代に生きる私たちは、まさしく世界大の危機に直面していると言えよう。
ジャガイモ飢饉は、ジャガイモ疫病と呼ばれる病気によって引き起こされた(当時は「poteto murrain」と呼ばれていた)。ジャガイモ疫病は、一八四三年にニューヨーク州で最初に記録されている。この疫病が到来すると、ジャガイモは死んだ。ジ々ガイモ疫病は、年内にペンシルベニア州に広がり、さらに多くのジャガイモが死んだ。ペンシルベニア州やニューヨーク州の農民の視点からすると、呪いのごとく空から降ってきたようなものだった。次の春には、北に向かってバーモント州まで拡大していた。一八四五年の春には、カナダのニューファンドランドに達し、その年の後半にはベルギーに上陸していた。ひとたびベルギーでジャガイモ疫病が発生すると、拡大の速度が上がり、その進行は、年単位ではなく月単位で、さらには週単位で測られるようになる。かくしてジャガイモ疫病は、七月にはフランスに、八月にはイングランドに達した。
アメリカでは、ジャガイモは平均的な食事構成の比較的小さな部分を占めるにすぎない。したがって、その損失は個々の農民にとっては痛手でも、全体として見れば大惨事ではなかった。だが、ヨーロッパ、とりわけ北ヨーロッパでは事情が違った。オランダ、ベルギー、ポーランド、プロシアでは、人口の一〇パーセントから二〇パーセントは、ジャガイモ以外に充実した食物を口にすることがほとんどなかった。だから、これらの地域へのジャガイモ疫病の到来は、多くの家庭に脅威を与えた。疫病によるジャガイモの被害が甚大であったため、新聞はほとんどそればかりを記事にした。一八四五年には、フランドル地方で栽培されていたジャガイモの九二パーセントが失われたのを始めとして、ベルギーでは八七パーセント、オランダでは七〇パーセントが失われた。ジャガイモヘの依存度がアイルランドよりはるかに低かったこれらの国々でも、結果は悲惨だった。オランダでは、比較的裕福な人々でも、一八四五年の秋には「野草で食いつないでいる」と言われた。しかもそれは、長い冬がやって来る前のことであった。かくして飢饉は、北ヨーロッパの農村地帯のあらゆる町、あらゆる家庭に潜んでいたのだ。とはいえ、真に悲惨な状況にあったのは、小さな島に人々が密集して暮らしていたアイルランドであった。
一八四五年、アイルランドは、ジャガイモヘの依存度が、ョーロッパの国々のなかでももっとも高かった。というより、地球上のいかなる地域の人々より、つまりアンデス地方の住民と比べてさえ高かった。
アイルランド人のジャガイモヘの依存は古くはなく、部分的には偶然の結果、つまり原産地のアメリカから新たにもたらされたという歴史的事実によるものであった。ジャガイモヘの依存は、それ以外の作物がうまく育たない寒冷湿潤な島国で農業を営まねばならないという厳しい現実にも帰せられる。しかし、ジャガイモがアイルランドの農業を支配するようになった最大の要因は、おそらく土地所有システムにある。一九世紀のアイルランドでは、プロテスタントの英国系封建領主が広大な土地を所有し、仲介人がその土地を農民に賃貸ししていた。農民は、余剰作物によって領主に地代を払っていた。だが、「余剰」という言い方は正しくない。農民は領主に、所定の量の作物を収めたと言うべきだろう。これらの作物は、発展しつつあったダブリン、ベルク、コークなどのアイルランドの諸都市や、イングランドの都市の住民に販売された。農民は、その残りを消費していたのである。この土地システムに鑑みると、アイルランドの平均的な家庭の成功の度合いは、領主の取り分を差し引いたあとに残る、自分の生活に回せる作物の量で測ることができる。そして、単位面積あたり最大の食物を確保できる作物はジャガイモであった。。
アイルランド人のジャガイモヘの依存は、世代ごとに増していった。悪循環に陥っていたのだ。ジャガイモ、具体的に言うとランパーと呼ばれる品種のジャガイモは、とりわけミルクとともに食べると、ジャガイモが到来するまでは不可能であった、あらゆる栄養素の摂取を可能にした。ジャガイモを栽培するようになると、乳児死亡率は低下し、平均寿命は延びた。ジャガイモが主要作物になったヨーロッパの他の国々と同様、アイルランドの人口は急増した。しかし人口が増加すると、土地はさらに細分化されねばならず、その結果、人々は余計にジャガイモに依存するようになった。ますます狭隘化する土地で家族を養っていける作物は、ジャガイモをおいて他にはなかったからだ。一九世紀初期には、貧しい借地人は通常、一エーカー程度の土地しか持っていなかった。その面積で一家を養える作物はジャガイモだけであり、食糧が減ってでも、あえてそれ以外の作物を植えようとする人はいなかった。こうしてアイルランド人は、ジャガイモを食べざるを得ない状況に置かれ、大量に消費するようになったのだ。一八四五年まで、アイルランド西部で平均的な広さの土地を耕していた農民の成人はたいてい、一日に五〇個から八〇個のジャガイモを消費していた。衣類や靴を持たない人も大勢いた。彼らは芝土の家に住んでいた。一文無しではあったが、ジャガイモのおかげで生きていけたのである。一九世紀初期のアイルランド人にとって、ジャガイモが食べられたことは幸運だった。
一八四五年時点におけるアイルランド人の状況を振り返るにあたり、私たちは彼らが後進的な人々であったと考えやすい。だが、それはまったく逆である。彼らの文化は、農業に対する最新のアプローチに支えられていた。つまりたった二つの作物品種が、大規模に栽培され、肥料を与えられ、他の食物を圧倒する量で消費されていたのだ。当時のアイルランドは、ジャガイモヘの過度の依存という形態で、私たちの未来を予示する。一八四五年の年頭の時点では、それはまだ明るい未来だった。ジャガイモ疫病は、その原因が何であれ、まだ、三〇キロメートル離れたイングランドからアイリッシュ海を越えて渡ってきてはいなかった。だからランパーは、アイルランドの無数の畑で順調に育っていた。そして例年どおり、豊かな栄養をもたらしてくれるはずであった。
一八四六年七月、長い冬が終わったあと、アイルランドの畑は一面ジャガイモの芽で覆われ、ゴルフコースのごとく青々としていた。ところが、たった四八時間で状況はまったく変わってしまう。アイルランドの端から端へと、ジャガイモが死んでいったのだ。コーク近郊で、とある旅行者が、畑のなかで歌っている一人の男を見かけた。旅行者が男に何をしているのかと尋ねると、彼は「畑のジャガイモがみな、黒ずんで水を染み出して死んでしまった。生活するすべがなくなってしまった。歌う他に何ができるというのかね?」と答えた。その近くでは一人の女が、かがみ込んでつめを立てて畑の土を掘り起こしていた。彼女のそばには、汗をかいた小さなジャガイモが二、三個置かれていた。子どものために調理するつもりらしかった。コムギもなければ、ニンジンもない。乳牛は売ってしまった。同じことがアイルランド中で起こり、何百万ものアイルランド人が自暴自棄に陥った。こうして、近代史のなかでも最悪の災厄の一つが始まったのである。
アイルランドのジャガイモ飢饉のおぞましさは、私たちの想像を絶する。まず子どもが死に、次に高齢者が死んだ。それから誰もが死んでいった。ましな場所を求めて移動している途中、夜間溝で寝ているあいだに死んだ者もいた。畑で死んだ者もいた。全滅した村もあった。こうして、飢饉が終わるまでに一〇〇万人以上が死んだ。アイルランドで六○万人である。船でアイルランドを出国した人たちもいるが、彼らも同様に死に直面した。被害の規模は圧倒的だった。しかし、私たちの生活に関連してもっとも驚くべきことは、たった今、アイルランドのジャガイモ飢饉が起こったとき以上に多くの作物が、害虫や病原体による被害を受ける危険性があることだ。ジャガイモ飢饉は、過ぎ去った時代における最後の疫病なのではなく、最初の真に現代的な疫病だったと見なせる。そのジャガイモ飢饉がアイルランドという一つの地域に限定された災害であったとするなら、各国の経済がはるかに緊密に結びついたグローバル化した現代に生きる私たちは、まさしく世界大の危機に直面していると言えよう。
ジャガイモ飢饉は、ジャガイモ疫病と呼ばれる病気によって引き起こされた(当時は「poteto murrain」と呼ばれていた)。ジャガイモ疫病は、一八四三年にニューヨーク州で最初に記録されている。この疫病が到来すると、ジャガイモは死んだ。ジ々ガイモ疫病は、年内にペンシルベニア州に広がり、さらに多くのジャガイモが死んだ。ペンシルベニア州やニューヨーク州の農民の視点からすると、呪いのごとく空から降ってきたようなものだった。次の春には、北に向かってバーモント州まで拡大していた。一八四五年の春には、カナダのニューファンドランドに達し、その年の後半にはベルギーに上陸していた。ひとたびベルギーでジャガイモ疫病が発生すると、拡大の速度が上がり、その進行は、年単位ではなく月単位で、さらには週単位で測られるようになる。かくしてジャガイモ疫病は、七月にはフランスに、八月にはイングランドに達した。
アメリカでは、ジャガイモは平均的な食事構成の比較的小さな部分を占めるにすぎない。したがって、その損失は個々の農民にとっては痛手でも、全体として見れば大惨事ではなかった。だが、ヨーロッパ、とりわけ北ヨーロッパでは事情が違った。オランダ、ベルギー、ポーランド、プロシアでは、人口の一〇パーセントから二〇パーセントは、ジャガイモ以外に充実した食物を口にすることがほとんどなかった。だから、これらの地域へのジャガイモ疫病の到来は、多くの家庭に脅威を与えた。疫病によるジャガイモの被害が甚大であったため、新聞はほとんどそればかりを記事にした。一八四五年には、フランドル地方で栽培されていたジャガイモの九二パーセントが失われたのを始めとして、ベルギーでは八七パーセント、オランダでは七〇パーセントが失われた。ジャガイモヘの依存度がアイルランドよりはるかに低かったこれらの国々でも、結果は悲惨だった。オランダでは、比較的裕福な人々でも、一八四五年の秋には「野草で食いつないでいる」と言われた。しかもそれは、長い冬がやって来る前のことであった。かくして飢饉は、北ヨーロッパの農村地帯のあらゆる町、あらゆる家庭に潜んでいたのだ。とはいえ、真に悲惨な状況にあったのは、小さな島に人々が密集して暮らしていたアイルランドであった。
一八四五年、アイルランドは、ジャガイモヘの依存度が、ョーロッパの国々のなかでももっとも高かった。というより、地球上のいかなる地域の人々より、つまりアンデス地方の住民と比べてさえ高かった。
アイルランド人のジャガイモヘの依存は古くはなく、部分的には偶然の結果、つまり原産地のアメリカから新たにもたらされたという歴史的事実によるものであった。ジャガイモヘの依存は、それ以外の作物がうまく育たない寒冷湿潤な島国で農業を営まねばならないという厳しい現実にも帰せられる。しかし、ジャガイモがアイルランドの農業を支配するようになった最大の要因は、おそらく土地所有システムにある。一九世紀のアイルランドでは、プロテスタントの英国系封建領主が広大な土地を所有し、仲介人がその土地を農民に賃貸ししていた。農民は、余剰作物によって領主に地代を払っていた。だが、「余剰」という言い方は正しくない。農民は領主に、所定の量の作物を収めたと言うべきだろう。これらの作物は、発展しつつあったダブリン、ベルク、コークなどのアイルランドの諸都市や、イングランドの都市の住民に販売された。農民は、その残りを消費していたのである。この土地システムに鑑みると、アイルランドの平均的な家庭の成功の度合いは、領主の取り分を差し引いたあとに残る、自分の生活に回せる作物の量で測ることができる。そして、単位面積あたり最大の食物を確保できる作物はジャガイモであった。。
アイルランド人のジャガイモヘの依存は、世代ごとに増していった。悪循環に陥っていたのだ。ジャガイモ、具体的に言うとランパーと呼ばれる品種のジャガイモは、とりわけミルクとともに食べると、ジャガイモが到来するまでは不可能であった、あらゆる栄養素の摂取を可能にした。ジャガイモを栽培するようになると、乳児死亡率は低下し、平均寿命は延びた。ジャガイモが主要作物になったヨーロッパの他の国々と同様、アイルランドの人口は急増した。しかし人口が増加すると、土地はさらに細分化されねばならず、その結果、人々は余計にジャガイモに依存するようになった。ますます狭隘化する土地で家族を養っていける作物は、ジャガイモをおいて他にはなかったからだ。一九世紀初期には、貧しい借地人は通常、一エーカー程度の土地しか持っていなかった。その面積で一家を養える作物はジャガイモだけであり、食糧が減ってでも、あえてそれ以外の作物を植えようとする人はいなかった。こうしてアイルランド人は、ジャガイモを食べざるを得ない状況に置かれ、大量に消費するようになったのだ。一八四五年まで、アイルランド西部で平均的な広さの土地を耕していた農民の成人はたいてい、一日に五〇個から八〇個のジャガイモを消費していた。衣類や靴を持たない人も大勢いた。彼らは芝土の家に住んでいた。一文無しではあったが、ジャガイモのおかげで生きていけたのである。一九世紀初期のアイルランド人にとって、ジャガイモが食べられたことは幸運だった。
一八四五年時点におけるアイルランド人の状況を振り返るにあたり、私たちは彼らが後進的な人々であったと考えやすい。だが、それはまったく逆である。彼らの文化は、農業に対する最新のアプローチに支えられていた。つまりたった二つの作物品種が、大規模に栽培され、肥料を与えられ、他の食物を圧倒する量で消費されていたのだ。当時のアイルランドは、ジャガイモヘの過度の依存という形態で、私たちの未来を予示する。一八四五年の年頭の時点では、それはまだ明るい未来だった。ジャガイモ疫病は、その原因が何であれ、まだ、三〇キロメートル離れたイングランドからアイリッシュ海を越えて渡ってきてはいなかった。だからランパーは、アイルランドの無数の畑で順調に育っていた。そして例年どおり、豊かな栄養をもたらしてくれるはずであった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます