『現代地政学』より 地政学をナショナル・アイデンティティに埋め込む
このミャンマーに関する短い事例研究は、民族的多楡|生と抵抗に直面したとき、軍事国家が、民族的結合の意識を作り出すためにどのように軍事力を利用するかを研究した、地理学者カール・グランディ=ワーとカリン・ディーンの優れた論文の要約である。同国は1989年に現政権が国名をミャンマーと変えるまでは、ビルマとして知られていた。どちらの国名も、同国の歴史の中に存在していた。国名の変更は国際的にも認知されていたが、同国の民主化運動は、それをこの事例研究で討論する軍事化戦略の一部と見なし、拒否した。ミャンマーは、1948年に英国の植民地支配から独立し、それ以来、国民的プロジェクトは、その地理的広がりを網羅する中央集権型国家建設のための一連の軍事国家的行動であった。1962年3月の軍事クーデターが樹立した政権は、支配を永続化し民主主義を否定するものだった。支配的な軍事政権による国家建設は、「外部」「内部」を問わず敵と戦うことを伴うものであった。タトマダウと呼ばれるビルマ軍は、明確な「国民」の意識を作り出す企ての中で、重要な組織であり続けてきた。しかしながらこの国民的プロジェクトは、軍事クーデターの前でさえ国境地帯における少数民族や共産主義者による暴動に絶えずさらされてきた。端的に言えば、1960年代以来今日に至るまで、ビルマ軍は、一致団結した国民国家を創設し、国の分裂を防止するため、同国家の領土内で唯一の法と秩序の機関の役割を演じてきた。そして、その政治目的は、「連邦」の保持であった。言い換えれば、軍事国家は、多楡吐と競合するアイデンティティとを踏まえたうえで、国民国家の意識を創造しようとしてきたのである。
クーデター以来、ネ・ウィン将軍と「革命評議会」は、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を創設し、その人権・市民権侵害で国際社会から非難を浴びた軍国主義的・孤立主義的な「ビルマ社会主義への道」を作り出した。政府の計画の中心は「国民」意識の創出にあった。その一歩はビルマをいわゆる7つの「少数民族州」に囲まれたフつの地域からなる国として定めた政治地図であった。しかしながら、政府により押し付けられた地図は、「少数民族州」の「民族的」政党が、どのように適切な連邦代議制度を決定したかを反映していなかった。軍事力を通じて、国民国家を創設するBSPPの企ては困難に見舞われた。 1970年代から1980年代にかけて、軍事政権とタトマダウはビルマ共産党(CPB)や、国民国家の統一という政府のビジョンに挑む少数民族武装勢力と紛争状態にあった。
1988年の残虐な民主化支持運動への抑圧に続き、国家法秩序回復評議会(SLORC)が結成され、「国民統一」という継続したゴールに向けてさらなる軍事化がなされた。SLORCは法秩序回復評議会(LORCs)を通じ、州、区域、地区、居住区、村当局などを含むさまざまな統治レペルで政治的支配を確立しようとした。統一された国民国家創設のため、LORCsは、すべての7つの行政区(ビルマ語でタイン)と以前BSPPによって創設されたアつの指定民族州(ビルマ語でピ・ネー)を網羅するよう計画されていた。実際には、ピ・ネー内のLORCsの権力範囲は、権力と支配を確立する軍事政権の勢力範囲外にある民族政党と地方軍のせいで不完全であった。言い換えれば、国家以外の地政的アクターは、民族統合国家をっくる軍事政権の企てを妨げるため、地方・地域レベルで作用していたのである。
1988年のあと、合意と停戦を通して民族グループを和解させる試みが、中央政府によってなされた。しかしながら、このような試みは注意深くかつ批判的に判断されねばならない。グランディ・ワーとディーンは、合意は、中央政府にとって領土全体への影響を拡大する別の方法でしかないと主張する。注目すべきは、これらの合意の目的は、特に石油、天然ガス、チーク材や宝石などの不可欠な天然資源の活用をより容易にすることだと、同論文が指摘していることである。これらのゴールを考慮に入れれば、停戦期の確立後も1988年から2008年まで、民主化支持暴動への抑圧、特に国民民主連盟とアウン・サン・スーチーヘの軍事政権による長い抑圧が継続的に続いたことは、驚くに値しないかもしれない。抑圧期には、「特に西部(イスラム系ロヒンギャの居住地区)や東部国境地帯における武装抵抗勢力の孤立地域」が標的とされ続けて来た。これは「カレンニー民族進歩党(KNPP)、カレン民族同盟(KNU)、シャン州軍(SSA)残党、特に南シャン州軍(SSかS)のような非停戦グループを狙った」ものである。これらの少数民族グループの存在は、国民国家の統一意識への挑戦であり、この理由により、彼らは軍事政権とその国民的プロジェクトから狙われてきたのである。
軍事化された国民的プロジェクトの結果、タトマダウは、兵力、軍事行動展開の地理的範囲ともに順調に増加してきた。 1990年以来、同軍は兵力40万人と倍増し、世界で20番目に大きな軍隊となったと言われる。増加した兵力は、軍事政権が軍事力か停戦協定によってプレゼンスを確立した国の随所に駐留している。悲しいことに、軍事力の成長は公共サービス、特に保健衛生と教育の低下、日常的な物資の欠乏、闇市の拡大や汚職の拡大をもたらした経済政策の失敗を生んでいる。軍事政権は軍事化のプロセスを進める一方で、個人の日常の福利、安全保障を担う責任を放棄し、政治的、経済的、社会的分野における軍事化を進めている。これらの行動は、軍部による、「国民統一」を達成するための軍中心の国家建設という地政的目標に端を発しているのである。
国民の統一という地政的創出、より正確には多楡匪のある国で一つの国民国家を作り出すというこの試みは、2005年の新首都ネピドー創設、それに続くビルマ統一を成し遂げた3人の歴史上の王たちの巨大な像の前での軍事パレードといった地政的実践を含んできた。 SLORC による軍事国民国家を創設する試みという地政的表象には、「民族的な地理的身体(geo-body)」そして「国民」のイメージを広く流布する必要があった。その主要なテーマは、「3つの国民的原因」、つまり、「統一の非崩壊性、国民団結の非崩壊性、そして国民主権の永続性」を確認することであった。しかしながらこれらは、国家建設を正当化しようと望んでの表象的虚構なのである。
ビルマ内の少数民族グループの存在と中央政府への反抗は、国民国家の統一構想が虚構であることを示している。この状況は国境の人工的、押しつけ的性質を反映し、世界中で共通して見られる。その結果は、政府が、時には外敵の創出を伴う国家建設の計画により民族統一を作り出そうとすることである。ミャンマーの例では、軍事政権は、ダイナミックな「民族再発見よのプロジェクトを成し遂げようとしてきた。その過程で、軍事国家とタトマダウは自分たちが「国を一つに保ち」[国家統一]を守ることができると信じている。民主化支持運動と、特にアウン・サン・スーチーの弾圧は、このプロジェクトの一部だったのである。
このミャンマーに関する短い事例研究は、民族的多楡|生と抵抗に直面したとき、軍事国家が、民族的結合の意識を作り出すためにどのように軍事力を利用するかを研究した、地理学者カール・グランディ=ワーとカリン・ディーンの優れた論文の要約である。同国は1989年に現政権が国名をミャンマーと変えるまでは、ビルマとして知られていた。どちらの国名も、同国の歴史の中に存在していた。国名の変更は国際的にも認知されていたが、同国の民主化運動は、それをこの事例研究で討論する軍事化戦略の一部と見なし、拒否した。ミャンマーは、1948年に英国の植民地支配から独立し、それ以来、国民的プロジェクトは、その地理的広がりを網羅する中央集権型国家建設のための一連の軍事国家的行動であった。1962年3月の軍事クーデターが樹立した政権は、支配を永続化し民主主義を否定するものだった。支配的な軍事政権による国家建設は、「外部」「内部」を問わず敵と戦うことを伴うものであった。タトマダウと呼ばれるビルマ軍は、明確な「国民」の意識を作り出す企ての中で、重要な組織であり続けてきた。しかしながらこの国民的プロジェクトは、軍事クーデターの前でさえ国境地帯における少数民族や共産主義者による暴動に絶えずさらされてきた。端的に言えば、1960年代以来今日に至るまで、ビルマ軍は、一致団結した国民国家を創設し、国の分裂を防止するため、同国家の領土内で唯一の法と秩序の機関の役割を演じてきた。そして、その政治目的は、「連邦」の保持であった。言い換えれば、軍事国家は、多楡吐と競合するアイデンティティとを踏まえたうえで、国民国家の意識を創造しようとしてきたのである。
クーデター以来、ネ・ウィン将軍と「革命評議会」は、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を創設し、その人権・市民権侵害で国際社会から非難を浴びた軍国主義的・孤立主義的な「ビルマ社会主義への道」を作り出した。政府の計画の中心は「国民」意識の創出にあった。その一歩はビルマをいわゆる7つの「少数民族州」に囲まれたフつの地域からなる国として定めた政治地図であった。しかしながら、政府により押し付けられた地図は、「少数民族州」の「民族的」政党が、どのように適切な連邦代議制度を決定したかを反映していなかった。軍事力を通じて、国民国家を創設するBSPPの企ては困難に見舞われた。 1970年代から1980年代にかけて、軍事政権とタトマダウはビルマ共産党(CPB)や、国民国家の統一という政府のビジョンに挑む少数民族武装勢力と紛争状態にあった。
1988年の残虐な民主化支持運動への抑圧に続き、国家法秩序回復評議会(SLORC)が結成され、「国民統一」という継続したゴールに向けてさらなる軍事化がなされた。SLORCは法秩序回復評議会(LORCs)を通じ、州、区域、地区、居住区、村当局などを含むさまざまな統治レペルで政治的支配を確立しようとした。統一された国民国家創設のため、LORCsは、すべての7つの行政区(ビルマ語でタイン)と以前BSPPによって創設されたアつの指定民族州(ビルマ語でピ・ネー)を網羅するよう計画されていた。実際には、ピ・ネー内のLORCsの権力範囲は、権力と支配を確立する軍事政権の勢力範囲外にある民族政党と地方軍のせいで不完全であった。言い換えれば、国家以外の地政的アクターは、民族統合国家をっくる軍事政権の企てを妨げるため、地方・地域レベルで作用していたのである。
1988年のあと、合意と停戦を通して民族グループを和解させる試みが、中央政府によってなされた。しかしながら、このような試みは注意深くかつ批判的に判断されねばならない。グランディ・ワーとディーンは、合意は、中央政府にとって領土全体への影響を拡大する別の方法でしかないと主張する。注目すべきは、これらの合意の目的は、特に石油、天然ガス、チーク材や宝石などの不可欠な天然資源の活用をより容易にすることだと、同論文が指摘していることである。これらのゴールを考慮に入れれば、停戦期の確立後も1988年から2008年まで、民主化支持暴動への抑圧、特に国民民主連盟とアウン・サン・スーチーヘの軍事政権による長い抑圧が継続的に続いたことは、驚くに値しないかもしれない。抑圧期には、「特に西部(イスラム系ロヒンギャの居住地区)や東部国境地帯における武装抵抗勢力の孤立地域」が標的とされ続けて来た。これは「カレンニー民族進歩党(KNPP)、カレン民族同盟(KNU)、シャン州軍(SSA)残党、特に南シャン州軍(SSかS)のような非停戦グループを狙った」ものである。これらの少数民族グループの存在は、国民国家の統一意識への挑戦であり、この理由により、彼らは軍事政権とその国民的プロジェクトから狙われてきたのである。
軍事化された国民的プロジェクトの結果、タトマダウは、兵力、軍事行動展開の地理的範囲ともに順調に増加してきた。 1990年以来、同軍は兵力40万人と倍増し、世界で20番目に大きな軍隊となったと言われる。増加した兵力は、軍事政権が軍事力か停戦協定によってプレゼンスを確立した国の随所に駐留している。悲しいことに、軍事力の成長は公共サービス、特に保健衛生と教育の低下、日常的な物資の欠乏、闇市の拡大や汚職の拡大をもたらした経済政策の失敗を生んでいる。軍事政権は軍事化のプロセスを進める一方で、個人の日常の福利、安全保障を担う責任を放棄し、政治的、経済的、社会的分野における軍事化を進めている。これらの行動は、軍部による、「国民統一」を達成するための軍中心の国家建設という地政的目標に端を発しているのである。
国民の統一という地政的創出、より正確には多楡匪のある国で一つの国民国家を作り出すというこの試みは、2005年の新首都ネピドー創設、それに続くビルマ統一を成し遂げた3人の歴史上の王たちの巨大な像の前での軍事パレードといった地政的実践を含んできた。 SLORC による軍事国民国家を創設する試みという地政的表象には、「民族的な地理的身体(geo-body)」そして「国民」のイメージを広く流布する必要があった。その主要なテーマは、「3つの国民的原因」、つまり、「統一の非崩壊性、国民団結の非崩壊性、そして国民主権の永続性」を確認することであった。しかしながらこれらは、国家建設を正当化しようと望んでの表象的虚構なのである。
ビルマ内の少数民族グループの存在と中央政府への反抗は、国民国家の統一構想が虚構であることを示している。この状況は国境の人工的、押しつけ的性質を反映し、世界中で共通して見られる。その結果は、政府が、時には外敵の創出を伴う国家建設の計画により民族統一を作り出そうとすることである。ミャンマーの例では、軍事政権は、ダイナミックな「民族再発見よのプロジェクトを成し遂げようとしてきた。その過程で、軍事国家とタトマダウは自分たちが「国を一つに保ち」[国家統一]を守ることができると信じている。民主化支持運動と、特にアウン・サン・スーチーの弾圧は、このプロジェクトの一部だったのである。
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