『逆説の日本史』より
そこで長州藩の遊撃隊を始めとする「ミニエー銃隊」に待ち伏せされ、大損害を受けて敗走したのである。
そして、この時から日本の戦争は一変した。いや、長州が変えた。
その主役はミニエー銃だった。
幕府はゲベール銃しかなく、性能の差は歴然としていた。では具体的にどう変わったのか?
ゲベール銃とミニエー銃の最大の違いは、ミニエー銃の銃身はライフリングが刻まれていることだ。前にも説明したように、本来の「ライフル」とはこのライフリングを指す。そして、これがあると無いとでは大違いで、ライフリングの施されている銃(施条銃)は、それの無いゲペール銃のような滑腔銃とは射程も破壊力もまるで違う。ライフリングが弾丸をジャイロ回転させるため、遠くまで飛び弾道もブレなくなる。すなわち命中精度も向上する。
弾丸もゲペール銃は火縄銃と同じ球型だが、ミニエー銃は現代と同じ先の尖った円筒型(椎の実弾)である。この画期的な銃器と弾丸を開発したのが、フランス陸軍のクロードーミニエー大尉であった。
では、ミニエー銃は具体的には日本の戦争の何を変えたのか?
ある意味で「銃の黒船」であったかもしれない。幕府兵のゲべール銃は長州兵に届かないのに、長州兵のミニエー銃は楽々届いてしまう。結局、幕府軍は敵に打撃を与える前に大損害を被るという図式である。
一説によればゲペール銃の射程はせいぜい百メートルなのに、ミニエー銃は三百メートルもあったという。
しかも、それだけ飛ぶのに破壊力もミニエー銃の方が上なのである。そして、ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)は当たると、戦国時代以来のヨロイを貫通した。ということは、実は昔風の具足・寵手などの類いは身につけない方がいいということなのである。
何故か?
刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である。貫通銃創もあり、盲管銃創もあって、時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある。常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早いというのだ。具足は着けない方がよい。急所でなくても足を射たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす。「常識が変わる」というのは、こういうことを言うのだろう。
また銃撃戦では、敵に自分の位置を確定されないよう素早く動き回る必要がある。
ということは和装もよくない。槍や袖が引っかかるから、西洋式の軍服がいいということになった。
後に勝海舟の回想にある「(われわれは)官軍がカミクズヒロイのような格好をして来たのでやられた」との言葉は、まさにこれを指している。
つまり、この四境戦争以後、古風なョロイカブトに身を固めている人間は「時代遅れの非常識人」だということになる。
もっとも今と違ってマスコミ、たとえばテレビニュースなどで戦況が報じられるわけではないから、この新常識が広まるには少し時間がかかった。
たとえば新撰組副長の土方歳三は、この後に行なわれた一大決戦の鳥羽・伏見の戦いには他の隊士と同じく和装で軽い具足をつけて出陣したようだ。しかし、薩長の手並を知った後は、あの有名な写真のように西洋式の軍服に変えている。
本来、ヨロイカブトと言えばプロテクターである。銃撃戦が盛んになればなるほど、すべての兵士がプロテクターを愛用するようにならなければおかしい。ところが実際には、すべての兵士がこれを捨てる方向に進んだ。ミニエー銃というのがいかに恐るべき新兵器であるか、日本の軍備がいかに時代遅れのものになってしまったか、この芸州口の戦闘は天下にそれを示したのである。
それにしても、ミニエー銃の引立役となったのが、戦国最強とうたわれた武田家の軍装を継いだ「赤備」というョロイカブトであったことは、何とも皮肉なことであった。
芸州口では、敗走する井伊勢に引きずられるように榊原勢まで総崩れとなったため、「あれが天下の徳川四天王か、落ちたものだ」と物笑いの種になった。
大島口に続いて、芸州口の戦闘も幕府軍の敗北に終わったわけだ。
残る二か口のうち、石州口は緒戦から長州の圧勝だった。
石州口の長州軍司令官は大村益次郎だ。そもそも長州軍の「ミニエー化」を成し遂げたのが大村なのである。しかも、大村は軍政家としてだけでなく軍略家としても優秀だった。
そこで長州藩の遊撃隊を始めとする「ミニエー銃隊」に待ち伏せされ、大損害を受けて敗走したのである。
そして、この時から日本の戦争は一変した。いや、長州が変えた。
その主役はミニエー銃だった。
幕府はゲベール銃しかなく、性能の差は歴然としていた。では具体的にどう変わったのか?
ゲベール銃とミニエー銃の最大の違いは、ミニエー銃の銃身はライフリングが刻まれていることだ。前にも説明したように、本来の「ライフル」とはこのライフリングを指す。そして、これがあると無いとでは大違いで、ライフリングの施されている銃(施条銃)は、それの無いゲペール銃のような滑腔銃とは射程も破壊力もまるで違う。ライフリングが弾丸をジャイロ回転させるため、遠くまで飛び弾道もブレなくなる。すなわち命中精度も向上する。
弾丸もゲペール銃は火縄銃と同じ球型だが、ミニエー銃は現代と同じ先の尖った円筒型(椎の実弾)である。この画期的な銃器と弾丸を開発したのが、フランス陸軍のクロードーミニエー大尉であった。
では、ミニエー銃は具体的には日本の戦争の何を変えたのか?
ある意味で「銃の黒船」であったかもしれない。幕府兵のゲべール銃は長州兵に届かないのに、長州兵のミニエー銃は楽々届いてしまう。結局、幕府軍は敵に打撃を与える前に大損害を被るという図式である。
一説によればゲペール銃の射程はせいぜい百メートルなのに、ミニエー銃は三百メートルもあったという。
しかも、それだけ飛ぶのに破壊力もミニエー銃の方が上なのである。そして、ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)は当たると、戦国時代以来のヨロイを貫通した。ということは、実は昔風の具足・寵手などの類いは身につけない方がいいということなのである。
何故か?
刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である。貫通銃創もあり、盲管銃創もあって、時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある。常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早いというのだ。具足は着けない方がよい。急所でなくても足を射たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす。「常識が変わる」というのは、こういうことを言うのだろう。
また銃撃戦では、敵に自分の位置を確定されないよう素早く動き回る必要がある。
ということは和装もよくない。槍や袖が引っかかるから、西洋式の軍服がいいということになった。
後に勝海舟の回想にある「(われわれは)官軍がカミクズヒロイのような格好をして来たのでやられた」との言葉は、まさにこれを指している。
つまり、この四境戦争以後、古風なョロイカブトに身を固めている人間は「時代遅れの非常識人」だということになる。
もっとも今と違ってマスコミ、たとえばテレビニュースなどで戦況が報じられるわけではないから、この新常識が広まるには少し時間がかかった。
たとえば新撰組副長の土方歳三は、この後に行なわれた一大決戦の鳥羽・伏見の戦いには他の隊士と同じく和装で軽い具足をつけて出陣したようだ。しかし、薩長の手並を知った後は、あの有名な写真のように西洋式の軍服に変えている。
本来、ヨロイカブトと言えばプロテクターである。銃撃戦が盛んになればなるほど、すべての兵士がプロテクターを愛用するようにならなければおかしい。ところが実際には、すべての兵士がこれを捨てる方向に進んだ。ミニエー銃というのがいかに恐るべき新兵器であるか、日本の軍備がいかに時代遅れのものになってしまったか、この芸州口の戦闘は天下にそれを示したのである。
それにしても、ミニエー銃の引立役となったのが、戦国最強とうたわれた武田家の軍装を継いだ「赤備」というョロイカブトであったことは、何とも皮肉なことであった。
芸州口では、敗走する井伊勢に引きずられるように榊原勢まで総崩れとなったため、「あれが天下の徳川四天王か、落ちたものだ」と物笑いの種になった。
大島口に続いて、芸州口の戦闘も幕府軍の敗北に終わったわけだ。
残る二か口のうち、石州口は緒戦から長州の圧勝だった。
石州口の長州軍司令官は大村益次郎だ。そもそも長州軍の「ミニエー化」を成し遂げたのが大村なのである。しかも、大村は軍政家としてだけでなく軍略家としても優秀だった。
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