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未唯への手紙

未唯への手紙

ネット社会と断片化する知識

2018年12月10日 | 3.社会
『現代文化論』より ネットワーキングする文化 集合知の時代を生きる
なぜ、コピペはだめなのか
 近年、高校や大学で、インターネット上の記事をそのままコピーしてレポートを作成してしまう学生のことがよく問題になります。また、単純な「切り貼り」ではないにせよ、文章作成のデータを集めるのに図書館ではなくインターネットを活用する人は激増しています。報道の什事に関わる人が、十分な取材なしにネット情報を利用して誤報を引き起こしてしまった例もあります。
 情報収集にインターネット検索が頻繁に活用されるのは、図書館での調べものや現地取材に出かけるよりも、そのほうがずっと手軽だからです。これを好ましからぬ傾向と見る人々は、レポート作成でネット情報を利用するのを禁止すべきと考えるかもしれません。
 他方、こんなふうに考える人もいるでしょう。いったいネット検索と図書館の調べものとどこが違うのか。図書館の本や事典の情報を引用するのなら、ネットからコピーをするのと同じではないか。昔からどんな引用もなしに文章を書くことは稀だったのだから、かつて多くの人が図書館でしていたことを、いまではネットでするよ引こなっただけではないか、と。
ネットは何が図書館と違うのか
 確かにこの2つの調べもののスタイルはよく似ています。図書館の机に本を何冊も積み、あちこちの本から引用してレポートを書くのは、インターネットのあちこちからの引用を並べてレポートにすることと大差ないのかもしれません。しかし、知識のあり方として見た場合、この2つの方法には、単に「便利になった」というだけでは済まされない違いがあるのです。
 まず、図書館に入っている本は、誰でも自由に出版できるものではありません。それぞれの分野で定評のある、あるいは定評を得ようとしている作者が、自分の書き手としての社会的な評価を懸けて出版したものです。たとえ間違いがあったとしても、その責任の所在ははっきり特定の作者にあるわけで、作者はできるだけ間違いがないように心がけています。これに対してインターネットでは、知識の作り手が匿名化されがちです。図書館の本が「誰かの知識」であるのに対し、ネット検索でヒットするのは「みんなの知識」となりやすいのです。もちろん、ネット情報は常に匿名ではなく、多くの場合、何らかのハンドルネームをもつ作者によって書かれています。しかし、ネット上の名前と現実世界の特定の個人が常に対応するわけではありません。むしろインターネットは、そこに書かれていることが誰か特定の個人のものだという観念を弱め、知識は「みんな」で作るものだという発想を強めていくのです。
知的権威主義からの解放とその陥穽
 このことは、インターネットが可能にする文化世界の可能性と困難を示しています。いまや知識は権威主義から解放され、誰もが自由に参加して書き換えていくことができるかのようです。しかし、どんな知識も「みんなのもの」となってしまうと、その向こう側にいる特定の書き手に行き着かない、つまりその知識の責任が誰にあるのかがあいまいになります。本の内容が間違っていたら、責任は作者にあります。しかし、ネット上で書かれていることが間違っていたとき、その責任は誰にあるのでしょうか。
 もっともこの違いから、私たちの知識がそもそも図書館の本のようで、インターネットのように「みんな」で知識を作るのはごく最近の逸脱なのだと考えてしまうのは誤りです。事実はむしろ逆、つまり図書館の本のように知識の作り手が誰であるかがはっきりするようになったのこそ、ここ数百年のことなのです。15世紀半ばに発明された活版印刷が普及し、自分の著作を出版することが知的活動の根本をなすようになった17世紀以降、「作者」の観念や「著作権」の制度が発達します。知識の作り手は、このような観念や制度の普及を通じて確立されたのです。
体系としての知識
 もう1つ、図書館の本とインターネットの情報の間には、知識の体系性という観点からの違いもあります。知識は、ばらばらにある情報やデータの集まりなのではありません。知識とは、概念の内容や事象の記述が相互に結びつき、体系をなしている状態のことです。当然、そこには中心となる知識と派生的な知識、つまり事の軽重があります。中世ヨーロッパでは知識は樹木に喩えられていました。知識には幹の部分と枝葉の部分があり、相互に結びついているのです。
 たとえば、百科事典の編集で最も重視されるのが、この幹と枝の関係です。事典の編者たちは、ある事項が他の事項に比べてどのくらい重要か、どの事項とどの事項がどんな関係にあるのかを繰り返し議論をします。百科事典を使い、さらに図書館でさまざまな本を借り出してある事項について学ぶとき、私たちはやがて、個々の言葉の意味だけでなく、絡まり合う概念の関係を構造的に把握できるようになります。
 ところが、インターネット上の検索システムは、こうした構造的な結びつきなどお構いなしに、私たちを一気に探している事項の情報に連れていきます。知識の幹と枝の関係など何もわからなくても、私たちは知りたい事項の詳しい情報を得ることができるようになったのです。これは、森のなかでりんごの木がどの木で、その実がどの枝についているのか知らなくても、一瞬でりんごの実が手に入る魔法のようなもので、実に便利ですが、私たちは最後まで自分がどんな森を歩いているのかを知らないままです。 GPSのナビゲーションに従って車を運転していても、なかなか道を覚えないのによく似ています。人々はネット検索で瞬時にして次々に必要な情報を手に入れることで、緩やかに形成される体系としての知識を見失っているのかもしません。
インターネットは私たちの知を豊かにしない?
 こう考えてくると、インターネットには、知識の責任や体系性という面で、簡単には図書館にとって代わることのできない限界があるようにも思えてきます。それでは私たちは、インターネットを使うのをやめて本と図書館に戻ればいいのでしょうか。
 実は、そんなことはすでに不可能です。多くの情報がインターネットに依存している今日、ネット情報を拒否するだけでは何も始まりません。すでにインターネット上の百科事典について触れたように、インターネットは、著名な大学者でも無名の学生でも同じように知識の作り手としてしまう傾向をもちます。しかし、知識の構築には体系性、つまり異なる概念が相互に結びついて体系をなすことが不可欠です。知識とは単なる情報の集まりではなく、世界を理解する体系的な枠組みを含んでいるのです。知識が新しくなるということは、この枠組みの変化により、さまざまな情報についての理解の方式が新しくなっていくことです。
 歴史上で起きたこうした知識の革新の1つに、天動説から地動説への転換があります。コペルニクスが地動説を唱えたとき、彼は何らかの重大な天文学的な発見を手にしていたのではありません。しかし16世紀初頭は、およそ半世紀前に発明された活版印刷術によって多数の印刷本が出回り始めた時代でした。そのためコペルニクスは、それまでの天文学者よりもずっと多くの観測記録を手元に集めることができたのです。彼は、そうやって集めた過去の記録をもとに、天動説でそれらを解釈する際の矛盾を発見し、すべてをより整合的に説明するための新しい理解の枠組みを提案したのです。
 私たちはいま、コペルニクスと似た時代を生きています。かつては印刷本により科学者たちが入手できる情報量が激増したのですが、今日の主役はインターネットです。あふれんばかりの情報の海でサイトからサイトヘと移動を重ねることで、私たちはコペルニクスよりもずっと手軽に大量の情報をかき集めています。つまり、今日では一部の科学者だけでなく、世界中のアマチュアが、時には専門家顔負けの情報を手にし始めているのです。
 

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