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進化に介入する人類

『137億年の物語』より 世界はどこへ向かうのか

人間の、自然の枠組みから逃れる能力は、高まる一方である。第2次大戦後に生み出された数々の巧妙なシステムは、人間と人間、あるいは、他の生物や世界との関係を激変させた。テレビ、コンピューター、テレビゲームやオンラインゲーム、携帯電話、携帯メール、そしてインターネットは、普通の人々を、野生動物が入り込むはずのない不自然な世界へと連れていく。現在では、季節の変化さえ邪魔もの扱いされ、わたしたちは1年を通じて好きなときに好きなものを手に入れられるようになった。それを可能にしたのは、何万種類もの食料を世界中から集めて冷蔵・冷凍し、消費者に提供するスーパーマーケットである。

ラジオやテレビが普及したのは、1950年代というどく最近のことだが、それらの広告は、製造業者の販売能力をおおいに高めた。売上を伸ばしたければ、広告代理店に頼んで巧妙な戦略を立ててもらう。そうすれば、自然界には存在せず、本当はだれも必要としていない製品を、何百万人もの消費者に売りつけることができるのだ。ファッションや流行は、現代人の「仮想世界」の重要な要素であり、人間と、自然界や他の生物との距離をますます広げている。

西洋科学は、人工的な世界の守護者を自任している。化学合成薬は人間の平均寿命を引きのばし、受胎しにくい夫婦は体外受精で子どもをもうけ、以前なら出産時に命を落とすこともあった骨盤の狭い女性は、帝王切開で危険を避けられるようになった。

このような技術革新は、自然の土台となっているメカニズムにもその矛先を向けた。つまり、種が生き残るか絶滅するかは、各世代が環境に適応できるかどうかで決まるという進化のメカニズムに手を加えようというのだ。人類は、1万年以上前に農耕をはじめて以来、より好ましい作物や家畜を選んで育てるという、動植物の人為選択を行ってきた。しかし、DNAという生命の遺伝情報が明らかにされた今、さらに高度な人為選択が行われている。遺伝子工学は、命にかかわる病気を遺伝子レベルで治療することや、干ばつに強い作物を作り出すことを目指している。だが長い目で見れば、このような「解決策」は人口増加を加速させ、資源が枯渇し環境が破壊された地球に、さらなる負荷をかけることになる。

いくら他の動物と違うように見えたとしても、本当に人類は、自然から切り離された存在になったのだろうか。たとえば石油がなくなったら、どうするのだろう。原子力発電にかつてない規模の投資をしなければ、やがて化石燃料は枯渇し、それに依存する人類の「バーチャル・リアリティー」な世界は、電源が抜かれたように消えてしまうだろう、と主張する人々もいる。彼らは、風力や太陽熱エネルギーなどの「再生可能エネルギー」では、経済成長に取りつかれている世界の電力需要はとうていまかないきれない、と見ている。

2011年の3月を迎えるまで、原子力発電を支持する人々は、エネルギー問題に関する議論において、一歩先を行っているように見えていた。ところが、3月11日に、マグェチュード9.0という巨大地震が日本の東北地方の太平洋沿岸を襲い、福島第1原子力発電所にレべル7という大事故を引き起こした。原子力が世界を救うという考えは、果たして正しかったのだろうか。このような大惨事に直面して、原子力発電を推進しようとする政党など、日本にあるだろうか。これほど地震が多い国で、原発が安全だと信じる人がまだ残っているだろうか。

日本だけの問題ではない。アメリカや中国も原子力発電を推進しているが、やはり地震は多いのだ。しかし、人口の急増や、寿命の伸長、生活水準の向上などにより、世界中の国が、エネルギーをますます必要としているのも事実である。食料やエネルギー資源が不足し、インフレが加速すると、金融市場は縮小に追い込まれるだろう。原油の供給量はこれから数年のうちにピークに達し(すでに達しているという人もいるが)、2038年までに、採算の合う油田はなくなると考えられている。この21世紀において石油への依存を断ち切るのは、19世紀の中国がアヘン中毒を断ち切るより難しいはずだ。

人類は、一方では原子力への依存に反発しながら、もう一方では原油が枯渇するという避けようのない現実を受け入れ、ジレンマを抱えながら不安定な土台の上でバランスをとっていくしかないのだろうか。

経済成長が永遠に続くという信念は、資源がいくらでもあることを前提にしている。古代ローマ帝国が学んだように、領土の拡大と経済の発展は、永遠に続くわけではないのだ。他の国から富を略奪するというローマの戦略は、大航海時代の探検家に受け継がれ、その後、欧米諸国の政府や企業に受け継がれたが、ヨーロッパ人が北米大陸に入植し、アフリカの分割がはじまった時点で、すでに限界を迎えていた。安いアジアの労働力が、先進国の快適な暮らしを支えるという状況は、あとどれだけもつだろう。

唯一、実現可能で、理にかなった解決策は、人口がこれ以上増えないよう慎重に管理して(とはいえ、この問題が政治の場で自由に議論されることはほとんどない)、エネルギーをあまり使わない昔ながらの生活に戻ることだろう。ダーウィンの結論は、人類は、あくまで自然界の一部として進化してきたというものだった。今こそ、ガンディーやその支持者が示そうとした自然の恵みの範囲内での暮らしを、ふたたび学ぶべきときなのかもしれない。電源を切り、電灯を消し、車を売り払い、野菜を育て、歩いて仕事に通い、地元の小さな学校で子供たちを教育し、手仕事を覚え、必要な物だけを買い、近所づきあいをし、娯楽としては、トランプをしたり、子供に物語を語り聞かせたり、演劇やダンスをしたり、戸外に隠れ家を作ったりする、素朴で伝統的な暮らしに戻るというのはどうだろう。

とはいうものの、人間が他のあらゆる生物と同じように進化してきたというダーウィンの結論からすると、人間は本来、そのような端的で合理的な計画に沿って生きるようにはできていないともいえる。地球上の生物はどれも、競ったり協調したりしながら、場当たり的に生きており、それらの運命は、「盲目の時計職人」ともよぶべき自然によって、無秩序に決められてきたのだ。強い者は生き残り、その恵まれた形質を子孫に伝え、弱者は衰え、やがて絶滅する。そうやって生物は進化してきたのである。

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