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未唯への手紙

未唯への手紙

複雑性の縮減

2014年02月25日 | 4.歴史
『<世界史>の哲学』より インドと中国

仏教を代表する図像が曼荼羅であるとすれば、キリスト教を代表する図像は磔刑図である。前章で、われわれは、両者を比較することで、仏教とキリスト教の相違の要諦を整理した。そこで論じたことを、現代の社会システム論の概念に対応させて、一般化しておこう。

まず、曼荼羅や磔刑図を社会システムと対応させることが、決して、突飛な関連づけではない、ということを確認しておこう。曼荼羅は、仏教から見た宇宙のイメージである。たとえば、胎蔵界曼荼羅は、ブッダの身体を描いたものだが、この場合のブッダの身体とは、仏教で言うところの「法身」であって、宇宙と同じものである。さらに、金剛界曼荼羅は、主体がそれへと同一化すべき対象(即身成仏)として、ブッダの身体を提示する。ところで、磔刑図におけるキリストの(死にゆく)身体もまた、信者の同一化の対象ではないだろうか。というのも、パウロが述べているように、キリストの身体こそは教会、つまり信者たちの普遍的な共同体だからである。とするならば、磔刑図において描かれているのは、包括的な社会システム(教会)のイメージである。そして、その仏教側での対応物は、曼荼羅だ。このように考えれば、これらの図像を、社会システムについての直感的な表現であると見なすことは、決して不自然なことではない。

ニクラス・ルーマンによれば、社会システムの基本的な機能、すべての機能の前提となる基礎的な機能は、複雑性の縮減である。複雑性とは、「要素および要素間の関係」の可能性の集合のことであり、社会システムの場合には、要素はコミュニケーションである。システムにとっては、世界は、常に可能性の過多、大きすぎる複雑性として現れる。過剰な複雑性はシステムにとっての根本問題である。システムが成り立っている状態は、世界の複雑性の中から、許容されたり、承認されたりしている可能性が制限され、限定されていることを指している。つまり、社会システムの内部では、論理的に可能なコミュニケーション(とその接続)は限定され、その一部しか現れない。

たとえば、ある官僚が、大好きなホットドッグを食べていたとして、それが仮に勤務時間中のことであったとしても、その行為は行政システム(という社会システム)に所属しているとは見なされない。実際、この官僚は、ホットドッグを食べる歓びや感謝を、同僚や上司に向けることはなく、彼にそれを持たせた妻に向ける。「ホットドッグを食べる」という行為は、行政システムの中で可能とされている要素には初めから含まれていないからである。行政システムが成り立っているとき、その内部では複雑性は大いに縮減されている。システムに内部化されていない可能性は、そのシステムにとっては環境に属している。

環境の複雑性とそこからの縮減によるシステムの形成という関係は、「図/地」の構図で理解できるだろう。「地」(環境)としてあるところの過剰な複雑性の中から、一部が「図」(システム)として切り出されるのである。

ところで、システム論の領域では、(社会システムに限らず) 一般に、システムの能力、すなわちどれほど複雑で多様な環境を認識し、それらに対応できるかという能力は、システム自身の内的な多様度・複雑性に比例していることが知られている。これを、(この比例関係を唱えた学者の名前にちなんで)「アシュビーの最小多様度の法則」と呼ぶ。たとえば、ダェは、酪酸を発している物体(哺乳類)を感知して、その物体の表面に着地し、吸血する。ダェにとっては、その物体が酪酸を発するかどうかという区別は存在するが、その他のこと--たとえばその物体が何色かとかどんな音を発しているかといったこと--は無に等しい。ダェの知覚系には、酪酸の有無を区別する程度の複雑性しか備わっていないからである。したがって、システムは、複雑性を縮減するのだが、十分に多様で複雑に変化する環境に、鋭敏に対応するためには、自分自身の内的な複雑性を高めなくてはならない。

社会システムは--心理システムとともに--意味構成的システムである。「意味」という概念を現象学から借用し、社会システム論に自覚的に導入したのはルーマンだ。システムが、システムの内外の対象を「何ものか」として同定しているとき、その「何ものか」にあたるのが「意味」である。意味とは、否定の能力を媒介にした「体験加工」である。この点を、ルーマンに従って要約しておこう。対象を何ものかとして同定することは、そうではない可能性を否定し、それらから対象を区別することである。意味は、このように人間の否定の能力に基づいている。否定は、他なる可能性を廃棄することではない。むしろ、否定は、他のありえた可能性を保存し、維持するのだ。このように、選択されなかった「他なる可能性」を潜在的に維持することを、ルーマンは、体験加工と呼んだ。

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