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未唯への手紙

未唯への手紙

レーニンは図書館に本を返却した後にペテログラードに向かった

2017年05月26日 | 4.歴史
『教科書では学べない世界史のディープな人々』より 封印列車の旅 「群衆は『ウラー(万歳)』の歓呼で迎えた」

ドイツが通行許可を与える

 マルトフはロシアに拘留されているドイツとオーストリアの捕虜と引き換えに、亡命者たちのドイツ通行許可を手に入れることを提案した。誰もが非現実的としてこの案に賛成しなかったが、レーニンはこれに飛びついた。結局、ボリシェヴィキが帰れば戦争反対の声は高まり、結果的にドイツを助けることになるという筋で、ドイツ軍と折衝することになった。

 レーニンはこの案に最後の望みを託した。しかし、敵に助けられて帰国するのは祖国に対する裏切りだという批判も当然あった。だが、レーニンはこれを祖国防衛主義で革命に対する裏切りだと論破した。

 「君はひょっとして、ドイツ側が列車を提供するはずがないというかもしれないが、必ずよこす。私は賭けてもいい」と同志に書き送ったことからもわかるように、レーニンの居直りともとれる焦りが伝わってくる。

 結局、スイス社会民主党員ロベルト・グリムとフリッツ・ブラッテンがドイツとの交渉にあたることになった。交渉は難航が予想されたが、意外にもドイツ陸軍最高首脳のルーデンドルフがこの案にゴーサインを与え、出発は3月27日月曜日と決まった。

 出発準備は大車輪で行われたが、ドイツ政府が通行許可を与えたことにデマの尾ヒレがついて、巨額の軍資金がレーニンに与えられたと声高に宣伝された。レーニンはきっぱりとこれを否定した。

 帰国に際してレーニンは、ドイツが法外な要求を自分たちに突きつけることを牽制してドイツ側に4条件を出した。自分たちの乗車する列車に治外法権を与えること。乗車や下車に際して旅券および人物の確認がなされないこと。旅費は普通料金で自分たちが負担すること。乗車や下車は命令によらず、また、自らも勝手な行動を慎むというものであるが、ドイツ側もただちにそれを受諾した。

 3月26日、とうとうドイツから正式な許可が下りたとき、「イリイチはすぐさま『最初の列車で行こう』と言った。出発まで2時間しかなかった。この2時間に私たちの所帯をすっかり整理し、女主人に勘定をすませ、本を図書館に持っていき、出発の支度などをしなければならなかった」とクループスカヤは回想している。

午後3時10分、列車は動きはじめた

 3月27日、レーニン夫妻は同行する帰国者と午後2時30分にチューリッヒのレストラン「ツェーリンガーホーフ」で落ち合った。ジノヴィエフ夫妻、カール・ラデックらスイス各地から集まった帰国者全員がそろっていた。一行はそこでドイツ公使館との間で約束された旅行条項を了解した旨の宣誓書に署名した。そして、午後3時にチユーリッヒ中央駅に着いた。

 駅には大勢の人々が見送りに来たが、「スパイどもめ、ドイツのまわし者」と叫ぶ者もいた。ついに汽笛が鳴りわたり、午後3時10分に列車は動きはじめた。

 列車はドイツ国境のシャフハウゼンに到着し、いよいよドイツ側の車両に乗り換えた。このドイツ側の車両がいわゆる封印列車である。

 封印列車といっても、護送列車のように鉄格子がはめられているわけではなく普通の客車であるが、4つあるドアは厳重に施錠されているので封印列車といわれた。

 ドイツに入った一行は車中で豪華な正餐を供されたが、不安や期待で食事どころではなかった。しかし、フランスのジャーナリストはこの一件を取り上げて、「王侯なみの豪華な旅行」というどぎつい見出しのでっち上げ記事を書いた。レーニンがいかに俗物かを示そうとしたのであった。実際には一行は三等車に乗っていたのである。

 列車は順調に動いていた。ドイツ当局からは優先通行権が与えられていたため、封印列車を先行させるためにドイツ皇太子の列車が2時間も待たされたほどであるとい シュトットガルト、次いでマンハイムを支障なく通過した。終始自分のコンパートメントに引きこもっていたレーニンを別にして、一行には安堵感が広がっていた。

 そのためか、フランクフルトに着いたときちょっとしたハプニングがあった。駅での待合時間を利用して、引率者のブラッテンがビールと新聞を買いにホームに降りたった。厳重に封印されていたはずの扉がひとつ開いていたのであった。

 ラデックもすかさずホームに降り、規則違反もかまわずにドイツ人たちに熱烈な連帯のあいさつを送り、列車が動き出してからもそれをやめなかった。

 ベルリンで列車は数時間停車し、その間、ドイツ社会民主党員が数人乗車したが、面会は許されなかった。3月30日には列車はバルト海のリューゲン島にある終着駅ザスニッツに着いた。正式にはここで封印列車の旅は終わる。

ペテログラードに降り立つレーニン

 ロシア領ポーランドを通過すれば時間はもっと短縮できる。しかし、危険な最前線のポーランドを通過するわけにはいかない。一行は連絡船でバルト海を渡り、スウェーデンのトレレポリに上陸。ここからあらかじめ同志が用意した車に乗り込みマルメヘ。マルメから列車に乗り込み、車中一泊してストックホルムに着いたのは3月31日であった。

 ストックホルムでレーニンははじめて自由に行動した。背広1着と靴を一足(なんと彼はそれまで登山靴を履いていた)、それに傘を1本買い求めた。そして、いよいよ一行の旅は最終段階にはいった。

 4月1日朝、ストックホルムを離れた列車はロシア領フィンランドに向かった。4月2日、列車はフィンランドとの国境トルニオに着いた。ここからはロシア領だ。したがって、ここからドイツ政府の保護はなくなる。一行はここでロシアの3等車に乗り換えた。臨時政府に逮捕される危険はあったが、一行の到着を待っていた革命派の兵士や労働者が乗り込んできて、自発的に護衛を申し出た。

 めざす首都まではあと一昼夜。クループスカヤは望郷の念やみがたく、車窓から目を離さなかったという。

 4月3日午後11時10分、革命ロシアの頭脳を乗せた列車はペトログラードのフィンランド駅に滑り込んだ。クロンシュタットの水兵が厳重に護衛するなか、レーニンが小柄な身体を3等車のデッキに現したとき、群衆は「ウラー(万歳)」の歓呼で迎えた。

 ウラジミール・イリイチ=ウリヤーノフ・レーニン、このとき彼はあと一週間で47歳を迎えようとしていた。そして、権力奪取という大言壮語も実現しようとしていた。

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