『教育原理』より 教育の歴史 海外の教育史(古代ギリシアの教育思想) ⇒ スパルタは一種の理想型
1 古代ギリシアの教育思想を学ぶということ
日本で教職課程のカリキュラムを学ぶみなさんにとって、いったいなぜ「古代ギリシアの思想」がここで特別に一つの項目に掲げられるほど重要なものとなってくるのでしょうか。じつは古代ギリシアの思想・文化はキリスト教とともに近代西洋社会のものの考え方の原型をつくりあげてきたものの一つであり、今なおけっして無視できない重みがそこには存在しているのです。
たとえば世界中で使われているアルファベット。その語源がギリシア文字の1つ目(アルファα)と2つ目(ベータβ)をつなげたものであることに示唆されている通り、このアルファベットはフェニキアの古代文字を集約的に発展させたギリシア文字に確かなルーツをもっています。さらには左から右に向かって文章を書くといった一般規則も、当時のギリシア文字の表記法に由来するものです。また音楽や詩、絵画や彫刻など、さまざまな芸術の祖形も同時代の産物といえるでしょう。とくに吟遊詩人ホメロスによる長編叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』は世界で最も古い文学作品の一つですが、宗教的なギリシア神話の物語とともに、当時これらに通暁していることはギリシアの市民たちにとって必須の教養とされていました。
そのほかにも幾何学や物理学、天文学などの自然科学もこの時代当地で興ったものです。また体育競技も同様です。4年に一度開かれる近代オリンピック大会は古代ギリシア・オリンピアでの体育大会に遠いルーツをもつものであるということについて、あるいはみなさんもどこかで聞いたことがあるかもしれません。
そして古代ギリシアが注目される何より大きな理由が、そこでほかならぬ「哲学」が誕生したという事実です。たとえば今日では当たり前とされている、すべてのものごとには理由があると見定めたうえでその「紀源」を探ろうとする知の運動性は、このギリシア時代に端を発するものでした。当時のギリシア市民たちはさまざまに、世界の根源がどのようなものとして理解可能か対話を交わしつつ考えをめぐらせました。あわせて、たとえばA=B、B=Cならば、すなわちA=Cといったような論理的推論の作法やレトリック・修辞的な技法も、そうした対話における重要な道具として学ぶべき教養のうちに位置づけられていきました。
日本には主に明治維新後、古代ギリシアに源流をもった西洋思想が本格的に導入されることとなり、その後ずっと大きな影響をもたらし続けています。すこし大げさにいうならば、それはたとえば私たちが「人間とはなにか」ひいては「教育とは何か」について考える際に、一つの足場を与えてくれているようなものでさえあるかもしれません。本講ではこうした古代ギリシアの教育思想について確認を加えたいと思います。
2 古代ギリシアの教育風景
紀元前8世紀頃、現在でいうところのヨーロッパの南東、地中海にせり出したギリシア半島では、ポリスとよばれる都市国家が林立しました。それらのポリスは互いに勢力争いを繰り広げながら、それぞれ独自の教育方針を掲げ、次の世代の育成に努めていきます。共同体をともに担うことができる有用な人材を育成することは、時に激しい戦乱をともなった他のポリスとの抗争を生き抜くうえできわめて重要なものでした。
そうしたポリスのなかで特に有力であったのがアテナイとスパルタです。ライバル関係でもあったこの2つの都市は、まさに対照的な教育方針をもって共同体の維持・発展を目指していきました。
①スパルタ
今でも親や教師が子どもにビシバシ厳しく教え込む様子を「スパルタ教育」といったりしますが、そのイメージの通り、スパルタではまさに軍隊式の厳格な集団訓練教育が展開されました。スパルタ中興の祖である立法者リュクルゴスは、教育を含めたさまざまな分野で抜本的な改革を行い、その後の軍事都市スパルタの基盤を磐石なものとした人物として知られています。彼はポリス内の土地を均等に割って貧しい人たちにも配分し、また集団で一斉に同じ内容の食事をとる「共同食事」を取り入れるなど、それまではびこっていた貧富の差を一掃するべく制度改革に乗り出しました。また生まれてきた子どもをすべてポリスの所有物とみなし、7歳から過酷な集団生活を強いるとともに、女子も含めてレスリングや徒競走、槍投げや円盤投げなどの体育教育重視のカリキュラムを課しました。プルタルコス『英雄伝』の記述によれば、みな丸刈りで裸足、沫浴の禁止に徹底した粗食など、厳しい軍律のもとに完全な管理主義の生活学習が行われていたようです。闘争が奨励されるその教育風景は、あとに述べるアテナイのような自由で文化的な都市国家における教養教育の様子とは対照的なものでした。
②アテナイ
スパルタに並ぶもう一つの代表的な都市国家アテナイでは、ペリクレスやテミストクレスなど優れた改革者による民主政治のもと、より文化的・精神的な学びが重視されました。市民の義務として7歳になると読み書きのほか体育と音楽、さらには詩の暗唱や幾何学の理解といった共通教養がパイダゴーゴスとよばれる私教師によって教授されました。また青年期になると体育場(ギムナジオン)や闘技場(パレストラ)での身体鍛錬が奨励されるとともに、ソフィストらによる弁論術のための私塾も大いに流行しました。ちなみに貴族的な軍事国家であったスパルタとは異なり、アテナイでは18歳以上のすべての市民が参加可能な民会を中心とした直接民主制が採用されていました。市民たちは月に4回アゴラとよばれる中央広場に集まり、間達な討議と挙手による多数決をもって共同体の政治の方向性をその都度決定していったのです。さらに僣主とよばれる一部の権力者が幅を利かせてしまった僣主政治への反省を経た紀元前5世紀以降は、神々の神託のもとすべての成人男性市民からクジ引きで執政官をふくむ公職が選ばれることとなりました。女性や奴隷がそこに含まれていなかったという限界はありますが、これはある意味で徹底した民主主義の実現ともいえるのではないでしょうか。公職の抽選性は裏を返せば、読み書きや体育、音楽その他のギリシア人としての基礎教養が少なくとも表向きにはみなが一定の水準において備えもっていたとみなされていたことを意味しています。
3 ポリスの政治と市民
ポリスの数は細かなものを入れればじつに1,500を超え、それぞれに歴史も特徴も異なっているのですが、おしなべて上でみたアテナイにおいては典型的な古代ギリシアの教育のかたちが示されており、スパルタの極端な管理主義はむしろ例外的であったといえるでしょう。アテナイはデロス同盟とよばれる周辺諸ポリス連合の盟主として、政治的にも文化的にもギリシア文明を事実上リードする存在でした。この地で活躍したとされる人物には哲学者のソクラテスやプラトン、クセノフォン、歴史家のトゥキディデスや劇作家のソフォクレス、アイスキュロスなど、じつに錚々たる顔ぶれを数えることができます。
もっともいずれにしても、古代ギリシアの各都市においては市民以外の奴隷たちの労働によって共同体の生産性が保障されていたという一面の事実については注意が必要でしょう。市民らが一日中軍事教練に明け暮れたり、討議や体操、精神活動に連日ふけることができたのは、ひとえに市民権をもたない奴隷たちが農場や鉱山などで生産活動を行っていたことにより生み出された閑暇のおかげでした。もちろん奴隷たちには参政権が与えられておらず、教養としての市民教育が施されることもありませんでした。そしてもう一つ、古代ギリシアにおいては一般的に女子教育が軽視されていたという点も忘れるわけにはいきません。戦争に従軍する義務と合わせ含むかたちで参政権や「真意を率直に述べる権利(パレーシア)」を得ていた男性市民層とは異なり、女性はあくまで結婚して子どもを産むものという考えのもとに学校教育からも完全に締め出されてしまっていたのです。すでにみたスパルタの軍隊教育にしても、女子にはあくまで「陣痛に耐えられるように」といった個別の目的のもと厳しい体育訓練が課されていたにすぎませんでした。
こうしたいくつかの限界をもちながらも、しかしそこで政治の直接的な担い手となる教養市民の育成が重視されていたということはやはり重要なポイントです。すでにみた通り、大勢を占めていたアテナイ型のポリスではその共同体の運営において民主的な討議がどこまでも大切にされていました。そこでは民主的な討議に参加し得る市民がその必須の教養としてさまざまな力そして構えを身につけることが期待されていたのです。というのも当時のポリスはマケドニアやペルシャ、さらには他の都市国家といった外憂にたびたび悩まされており、有為な人材を育成して国の確かな方向づけを行っていけるかどうかは、共同体の存亡と直結していたからです。
さて次節ではソクラテス・プラトン・アリストテレスといった当時活躍した哲学者らの思想をとおして、もうすこし踏み込んで古代ギリシアにおける教養そして教育観について考えてみましょう。
1 古代ギリシアの教育思想を学ぶということ
日本で教職課程のカリキュラムを学ぶみなさんにとって、いったいなぜ「古代ギリシアの思想」がここで特別に一つの項目に掲げられるほど重要なものとなってくるのでしょうか。じつは古代ギリシアの思想・文化はキリスト教とともに近代西洋社会のものの考え方の原型をつくりあげてきたものの一つであり、今なおけっして無視できない重みがそこには存在しているのです。
たとえば世界中で使われているアルファベット。その語源がギリシア文字の1つ目(アルファα)と2つ目(ベータβ)をつなげたものであることに示唆されている通り、このアルファベットはフェニキアの古代文字を集約的に発展させたギリシア文字に確かなルーツをもっています。さらには左から右に向かって文章を書くといった一般規則も、当時のギリシア文字の表記法に由来するものです。また音楽や詩、絵画や彫刻など、さまざまな芸術の祖形も同時代の産物といえるでしょう。とくに吟遊詩人ホメロスによる長編叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』は世界で最も古い文学作品の一つですが、宗教的なギリシア神話の物語とともに、当時これらに通暁していることはギリシアの市民たちにとって必須の教養とされていました。
そのほかにも幾何学や物理学、天文学などの自然科学もこの時代当地で興ったものです。また体育競技も同様です。4年に一度開かれる近代オリンピック大会は古代ギリシア・オリンピアでの体育大会に遠いルーツをもつものであるということについて、あるいはみなさんもどこかで聞いたことがあるかもしれません。
そして古代ギリシアが注目される何より大きな理由が、そこでほかならぬ「哲学」が誕生したという事実です。たとえば今日では当たり前とされている、すべてのものごとには理由があると見定めたうえでその「紀源」を探ろうとする知の運動性は、このギリシア時代に端を発するものでした。当時のギリシア市民たちはさまざまに、世界の根源がどのようなものとして理解可能か対話を交わしつつ考えをめぐらせました。あわせて、たとえばA=B、B=Cならば、すなわちA=Cといったような論理的推論の作法やレトリック・修辞的な技法も、そうした対話における重要な道具として学ぶべき教養のうちに位置づけられていきました。
日本には主に明治維新後、古代ギリシアに源流をもった西洋思想が本格的に導入されることとなり、その後ずっと大きな影響をもたらし続けています。すこし大げさにいうならば、それはたとえば私たちが「人間とはなにか」ひいては「教育とは何か」について考える際に、一つの足場を与えてくれているようなものでさえあるかもしれません。本講ではこうした古代ギリシアの教育思想について確認を加えたいと思います。
2 古代ギリシアの教育風景
紀元前8世紀頃、現在でいうところのヨーロッパの南東、地中海にせり出したギリシア半島では、ポリスとよばれる都市国家が林立しました。それらのポリスは互いに勢力争いを繰り広げながら、それぞれ独自の教育方針を掲げ、次の世代の育成に努めていきます。共同体をともに担うことができる有用な人材を育成することは、時に激しい戦乱をともなった他のポリスとの抗争を生き抜くうえできわめて重要なものでした。
そうしたポリスのなかで特に有力であったのがアテナイとスパルタです。ライバル関係でもあったこの2つの都市は、まさに対照的な教育方針をもって共同体の維持・発展を目指していきました。
①スパルタ
今でも親や教師が子どもにビシバシ厳しく教え込む様子を「スパルタ教育」といったりしますが、そのイメージの通り、スパルタではまさに軍隊式の厳格な集団訓練教育が展開されました。スパルタ中興の祖である立法者リュクルゴスは、教育を含めたさまざまな分野で抜本的な改革を行い、その後の軍事都市スパルタの基盤を磐石なものとした人物として知られています。彼はポリス内の土地を均等に割って貧しい人たちにも配分し、また集団で一斉に同じ内容の食事をとる「共同食事」を取り入れるなど、それまではびこっていた貧富の差を一掃するべく制度改革に乗り出しました。また生まれてきた子どもをすべてポリスの所有物とみなし、7歳から過酷な集団生活を強いるとともに、女子も含めてレスリングや徒競走、槍投げや円盤投げなどの体育教育重視のカリキュラムを課しました。プルタルコス『英雄伝』の記述によれば、みな丸刈りで裸足、沫浴の禁止に徹底した粗食など、厳しい軍律のもとに完全な管理主義の生活学習が行われていたようです。闘争が奨励されるその教育風景は、あとに述べるアテナイのような自由で文化的な都市国家における教養教育の様子とは対照的なものでした。
②アテナイ
スパルタに並ぶもう一つの代表的な都市国家アテナイでは、ペリクレスやテミストクレスなど優れた改革者による民主政治のもと、より文化的・精神的な学びが重視されました。市民の義務として7歳になると読み書きのほか体育と音楽、さらには詩の暗唱や幾何学の理解といった共通教養がパイダゴーゴスとよばれる私教師によって教授されました。また青年期になると体育場(ギムナジオン)や闘技場(パレストラ)での身体鍛錬が奨励されるとともに、ソフィストらによる弁論術のための私塾も大いに流行しました。ちなみに貴族的な軍事国家であったスパルタとは異なり、アテナイでは18歳以上のすべての市民が参加可能な民会を中心とした直接民主制が採用されていました。市民たちは月に4回アゴラとよばれる中央広場に集まり、間達な討議と挙手による多数決をもって共同体の政治の方向性をその都度決定していったのです。さらに僣主とよばれる一部の権力者が幅を利かせてしまった僣主政治への反省を経た紀元前5世紀以降は、神々の神託のもとすべての成人男性市民からクジ引きで執政官をふくむ公職が選ばれることとなりました。女性や奴隷がそこに含まれていなかったという限界はありますが、これはある意味で徹底した民主主義の実現ともいえるのではないでしょうか。公職の抽選性は裏を返せば、読み書きや体育、音楽その他のギリシア人としての基礎教養が少なくとも表向きにはみなが一定の水準において備えもっていたとみなされていたことを意味しています。
3 ポリスの政治と市民
ポリスの数は細かなものを入れればじつに1,500を超え、それぞれに歴史も特徴も異なっているのですが、おしなべて上でみたアテナイにおいては典型的な古代ギリシアの教育のかたちが示されており、スパルタの極端な管理主義はむしろ例外的であったといえるでしょう。アテナイはデロス同盟とよばれる周辺諸ポリス連合の盟主として、政治的にも文化的にもギリシア文明を事実上リードする存在でした。この地で活躍したとされる人物には哲学者のソクラテスやプラトン、クセノフォン、歴史家のトゥキディデスや劇作家のソフォクレス、アイスキュロスなど、じつに錚々たる顔ぶれを数えることができます。
もっともいずれにしても、古代ギリシアの各都市においては市民以外の奴隷たちの労働によって共同体の生産性が保障されていたという一面の事実については注意が必要でしょう。市民らが一日中軍事教練に明け暮れたり、討議や体操、精神活動に連日ふけることができたのは、ひとえに市民権をもたない奴隷たちが農場や鉱山などで生産活動を行っていたことにより生み出された閑暇のおかげでした。もちろん奴隷たちには参政権が与えられておらず、教養としての市民教育が施されることもありませんでした。そしてもう一つ、古代ギリシアにおいては一般的に女子教育が軽視されていたという点も忘れるわけにはいきません。戦争に従軍する義務と合わせ含むかたちで参政権や「真意を率直に述べる権利(パレーシア)」を得ていた男性市民層とは異なり、女性はあくまで結婚して子どもを産むものという考えのもとに学校教育からも完全に締め出されてしまっていたのです。すでにみたスパルタの軍隊教育にしても、女子にはあくまで「陣痛に耐えられるように」といった個別の目的のもと厳しい体育訓練が課されていたにすぎませんでした。
こうしたいくつかの限界をもちながらも、しかしそこで政治の直接的な担い手となる教養市民の育成が重視されていたということはやはり重要なポイントです。すでにみた通り、大勢を占めていたアテナイ型のポリスではその共同体の運営において民主的な討議がどこまでも大切にされていました。そこでは民主的な討議に参加し得る市民がその必須の教養としてさまざまな力そして構えを身につけることが期待されていたのです。というのも当時のポリスはマケドニアやペルシャ、さらには他の都市国家といった外憂にたびたび悩まされており、有為な人材を育成して国の確かな方向づけを行っていけるかどうかは、共同体の存亡と直結していたからです。
さて次節ではソクラテス・プラトン・アリストテレスといった当時活躍した哲学者らの思想をとおして、もうすこし踏み込んで古代ギリシアにおける教養そして教育観について考えてみましょう。
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