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無緑死は自由だった証

『死に方の思想』より 無縁社会とは何か

無緑死は自由だった証

 無縁社会と対極にあるのが、村社会です。村社会にいれば、さまざまなしきたりや行事が共有され、人が死ねば葬式組の人たちがすべてを仕切ってくれます。まさに「有縁社会」です。もちろん孤独死などはありえませんが、縛られることが多いのも事実です。

 無縁社会の到来に衝撃を受けた人も、そうした「有縁社会」に戻りたいかと聞かれたら迷うのではないでしょうか。

 村には菩提寺があり、それぞれの家はその檀家になっています。村の名家は檀家総代などを務めることになり、たくさんのお布施をします。村に生きるということは、それを支える社会的な秩序の存在を意識し、そこから食み出ないようにすることを意味します。

 人が孤独には死なない、ということは「孤独に死ねない」の裏返しです。

 冠婚葬祭は村全体の行事ですから、参加しないことはありえません。檀家を辞めることは、秩序を乱すことですから、信教の自由が許されないことでもあります。

 束縛されたくなければ村を離れることになり、「無縁」社会に出て行くことになるわけですが、そうなれば縛られることはありません。それは、まさに自由を求めることでもあります。

 他者との強いつながりのなかで自由に生きることが理想なのかもしれませんが、それは容易に実現できることではありません。

 そういう意味で、「孤独死」「無縁死」は自由を求めて力強く生きたことの証と言えるのかもしれません。

無緑死は時代の必然

 いまでは、無縁死、孤独死を防ごうという対策がとられるようになっています。

 たとえば高齢者が多い団地の中で、自治体が見回りを強化し、亡くなっていたり、誰にも知られず病気で臥せっているケドスをなくそうとするのです。

 地方自治体でも、単身の高齢者世帯を巡回したり、増え続ける孤独死を防ごうという努力がされています。

 けれどもそうなると、人手と予算が確実にかかるのです。国や地方自治体の財政は危機的な状況にあり、そして今後団塊の世代が死を迎える時代となります。

 たくさんの人が死んでいく時代に、莫大な予算を使うことは事実上不可能でしょ

 これまで書いてきたように、そもそも無縁死、孤独死を即、不幸で悲惨な死とするのは違うと思います。

 もちろん、防げるものなら防いだほうがよいでしょうが、「完全ゼロ」を目指すのも無理があります。

 無縁死が増えてきたのは、戦後の都市化、産業構造の変化、さらには女性の社会進出などさまざまな要因が積み重なってきたからです。

 それはけっして日本人にとって不幸なことではなく、言ってみれば時代の必然でした。

 だからこそ、無縁死は『おみおくりの作法』の映画にも見られたように、日本だけの現象ではないのです。

葬式とは何か

 孤独死をして、身寄りの者が葬式を出さないという場合、葬儀社の費用は行政から出ることになります。葬式は、火葬場で葬儀社の職員が行なって終わりです。それが「直葬」というものです。

 この「直葬」は以前からあったのですが、NHKの番組「無縁社会」で紹介されました。

 ひとりで亡くなり、近親者が遺体を引き取らなかったために、葬儀社の社員二人だけが見送って火葬されるのです。

 家族も参列者もいないまま、火葬場で死の儀式が営まれます。葬式というよりも、遺体の処理に限りなく近く、視聴者に衝撃を与えました。

 ところが、この「直葬」で死者を葬るケースが増えているのです。

 行き倒れでもなければ、孤独死でなくても、首都圏では現在行なわれる葬儀の四分の一が直葬になっています。

 番組を通して「直葬」を知ったことをきっかけに、潜在的にそうしたいと思っていた人が直葬を選択するようになったのかもしれません。

 いまは、葬儀社も「直葬」をメニューにしていますから、これを選択しやすくなりました。

 この「直葬」に近い言葉として「密葬」がありますが、一般の人の場合には「密葬」とは言いませんでした。

 著名人だからこそ「密葬」なのです。著名人の場合には、密葬のあとにお別れ会のような会を行なうことが前提になっているわけです。

 「家族葬」というのは、「密葬」に限りなく似ていますが、「家族葬」は家族だけでやって終わりです。いま、家族葬も葬儀社のメニューに入っており、費用が安くて済むというイメージもあって、葬儀の中心を占めるまでになっています。

 いずれにしても現代は、会社ぐるみの葬式も少なくなりましたし、公職選挙法の規定もあって、政治家も参列できません。地域のつながりも希薄です。

 こうした社会のあり方が変わることによって、個人の「死」は共同体の中での「死」ではなくなってきています。そうすると、多くの人たちが共有する必要がなくなり、孤独死、無縁死でなくても、葬儀というものがどんどん簡素なものになってきているのです。

葬儀の形は時代の必然

 いずれにしても、葬儀、墓の問題は、法律も含めて見直さなければならない時代になっています。

 なんのために葬儀を営み、墓を建てるのか。現代社会では、その意味が曖昧になっています。

 私も親族を亡くしたときに経験していますが、八十代、あるいは九十代ともなれば、すでに故人の友人、知人の多くは亡くなっています。存命だとしても、葬儀に参列するのが難しい状態であることが多いわけです。

 多くの人が八十、九十代まで生きる現代、大々的に人を集めて故人の死を悼む儀式がどれほど必要とされているのでしょうか。

 肉体の死はある瞬間のできごとですが、「社会的な死」はそうではありません。まずは仕事を引退し、付き合いのあった人たちとも徐々に関係が希薄になっていくものでしょう。

 そういう意味では、生と死の境目は曖昧なものになりつつあるといえます。

 社会的な関係がおおかた切れてしまっている人が亡くなったとき、家族にとってはもちろん重要でも、周囲に与える影響は大きくはありません。

 葬儀も家族のみでこぢんまりと行なう、という流れが自然なのです。

 葬儀の簡略化は、時代の必然なのです。
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