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未唯への手紙

未唯への手紙

最後の正統カリフ、アリー

2017年10月17日 | 4.歴史
『イスラームの歴史』より 初の内乱とウンマの在り方の模索

最後の正統カリフ、アリー

 アリーは推されて当然の人物と思われていた。幼い頃はムハンマドの家で育ち、預言者か推し進めていた理想をよく身につけていた。軍人としても優秀で、副官たちを励ますために書いた手紙は、正義を守る必要性と、被支配民族に思いやりをもって接する大切さを説くもので、今もムスリムの名文として高く評価されている。しかし、ムハンマドと親しい間柄だったものの、その即位はすべての人々に受け入れられたわけではなかった。アリーを支持していたのは、マディーナのアンサールと、ウマイヤ家の台頭を苦々しく思っていたマッカ市民たちだった。また、いまだに伝統的な遊牧生活を送るムスリムの支持も受けていて、特にそうした人々はイラクに多く、同地の軍営都市クーファはアリー派の拠点となった。一方、ウスマーンもアリーと同じくムハンマドの娘婿で、最初期にイそフームヘ改宗したひとりだったから、暗殺事件の衝撃は大きく、これをきっかけにウンマ内部で五年にわたる内乱か始まった。アラビア語では、これを「試練の時」という意味で「フィトナ」と呼ぶ。

 少し遅れて、ムハンマド最愛の妻だったアーイシャが、同族のタルハや、ムハンマドのマッカ時代からの教友ズバイルとともに、ウスマーン暗殺犯を罰しないアリーを批判して反旗を翻した。軍隊は地方にいたので、反徒たちはマディーナを出てバスラヘ移動した。アリーは難しい立場に置かれていた。アリー自身もウスマーン殺害に驚いていたに違いなく、敬虔な人物として、これを見過ごすことなどできなかった。しかし彼の支持者たちは、ウスマーンはクルアーンの理想に沿う公正な政治を行っていなかったのだから殺されて当然だと主張した。アリーは熱烈な支持者だちと縁を切ることかできず、クーファに移って、そこを本拠地とした。それから軍隊を率いてバスラヘ向かい、反乱軍をやすやすと破った。この戦いは、反乱軍と行動をともにしていたアーイシャがラクダに乗って戦闘の様子を見ていたことから「ラクダの戦い」と呼ばれている。

 アリーは勝利すると、支持者を要職に就け、財産を分け与えたが、それでも完全な「軍人の権利」は認めず、かつてペルシア帝国が税収の大半を得ていたクーファ周辺の肥沃な農業地帯サヮード地方を軍人らの私領とするのを許さなかった。彼は、味方を満足させられないばかりか、ウスマーン殺害を非難しなかったことで強い疑いの目も向けられるようになっていった。

アリーとウマイヤ家の対立

 シリアでは、アリーの即位は認められておらず、ムアーウィヤがダマスカスを本拠地として対抗していた。彼はウスマーンと同族であり、ウマイヤ家の新たな家長である以上、その敵を討つのはアラブの族長として当然の義務であった。彼はマッカの裕福な一門から支持を得ていただけでなく、シリアのアラブ人からも、強力で賢明な統治を高く評価されて支持されていた。そうしたムアーウィヤの立場にアリーは二定の共感を抱いていたらしく、当初は何も対策を取らなかった。しかし、ムハンマドの親類や教友が互いに争い合おうとする現状は、きわめて憂慮すべきものだった。ムスリムどうしの一体感を醸成し、ウンマをひとつにまとめて、そこに神の唯一性が反映されるようにすることこそ、ムハンマドの使命だったからだ。

 抗争の激化という忌まわしい事態を避けるため、両陣営は六五七年、ューフラテス川上流のスィッフィーンで戦った後、話し合いによる解決を図ったか、協議はまとまらなかった。ムアーウィヤの支持者たちはクルアーンの紙片を槍の先につけ、中立派のムスリムに、神の言葉に従って両陣営間の調停を行ってほしいと呼びかけた。調停の内容はアリーに不利だったらしく、支持者の多くはアリーを説得して調停を受け入れさせようとした。これで強気になったムアーウィヤは、アリーを退位させ、イラクに軍隊を送り、エルサレムで自らカリフを名乗った。

ハワーリジュ派弾圧とアリー暗殺

 一方、アリー支持者のうち二部の急進派は、調停を受け入れるのを拒否し、アリーが屈服したことに憤慨した。いわく、ウスマーンはクルアーンの規範に従った行動かできていなかった。それなのにアリーは、ウスマーンの犯した悪事を正すことかできず、不正の支持者と妥協したのだから、彼は真のムスリムではない。そう考えた彼らは、今のウンマはクルアーンの精神に背いていると主張してウンマから離脱し、別に指導者を選んで独自のグループを作った。この急進派はハワーリジュ派(退去した者)と呼ばれ、最初に離脱した者たちはアリーの弾圧を受けて一掃されたか、彼らの運動は帝国全土で信奉者を得た。その多くはウスマーン時代の親族重用に懸念を抱き、クルアーンの平等主義的精神を実践したいと考えていた。

 ハワーリジュ派は常に少数派だったか、その見解は重要だった。なぜなら、政治かウンマの道徳性に影響を及ぼして神学の新たな展開を招いたという点で、ムスリムの重要な傾向を示す最初の事例だったからである。ハワーリジュ派は、イスラーム共同体の支配者は最も強い権力者ではなく最も熱心なムスリムであるべきで、ペムアーウィヤのように権力を追い求める者がカリフになってはならないと主張した。神は人間に自由意志を授けたが、神は公正であるから、ムアーウィヤやウスマーンやアリーのような、イスラームに反して背教者となった悪人を必ずや罰するであろう。そう説くハワーリジュ派は、急進派ではあったか、ムスリムたちに、誰かムスリムで誰がムスリムでないかという問題を考えさせることになった。政治指導者のあり方は宗教思想として非常に重要だったため、これを契機に、神の本質と運命と人間の自由についての議論か起こった。

 アリーは、ハワーリジュ派を厳しく弾圧したことで大幅に支持を失い、クーファからも離反者が出た。一方ムアーウィヤは着実に勢力を広げ、アラブ人の多くは中立を保った。再び調停が試みられ、別の人物をカリフ位に就けるため候補者探しが行われたが、不調に終わった。ムアーウィヤの軍勢は、アラビアで彼の支配に抵抗する勢力を破り、六六一年にはアリーがハワーリジュ派の人物に殺された。クーファでアリーヘの忠節を守っていた者たちは息子のハサンを擁立するか、ハサンはムアーウィヤと和解し、年金をもらってマディーナに退去すると、その後は政治に一切関与せずに過ごし、六六九年に没した。

正統カリフ時代の幕切れ

 かくしてウンマは新たな段階に入った。ムアーウィヤはダマスカスを首都と定め、ムスリム共同体の統一回復に取り掛かった。しかし、すでにひとつのパターンが出来上がっていた。ィラクのムスリムとシリアのムスリムは、今では互いに敵対感情を抱いていた。

 後になると、アリーは現実政治の論理に敗れた立派で敬虔な人物だったと考えられた。男性として最初にイスラームに改宗した者であり、ムハンマドの男性親族のうち最近親者だった人物を殺害したのは、当然なから不名誉な事件と見なされ、ウンマの道徳的健全性に深刻な疑問を投げ掛けた。アリーは、アラブ人の通説により、ムハンマドの類まれなる資質の一部を受け継いでいたと考えられ、その男性子孫は優れた宗教的権威として尊敬された。敵からだけでなく味方からも裏切られたアリーの運命は、生きている限り逃れられない不正を表す象徴となった。

 やがてムスリムの中から、在位中のカリフの言動に反対し、ハワーリジュ派のようにウンマから離脱して、真のムスリム全員に、イスラームの道徳規範を高める努力(ジハード)に参加するよう呼びかげる者が出てきた。その多くは、シーアーアリー(アリー党)のこ貝と名乗るようになる。

 だか、ほかの者たちはもっと中立的な立場を取った。彼らは、不和か流血の事態に発展してウンマを引き裂いたことに愕然とし、以後イスラームでは、統一かそれまで以上に重要視された。多くの者がアリーに不満を抱いていたが、ムアーウィヤが理想には程遠いことも分かっていた。

 次第に人々は、四人の正統カリフの時代を、ムスリムが敬虔な人物に統治されていた時代と見なし、正統カリフは預言者ムハンマドに近しい人たちだったが、悪人らによって倒されたのだと考えるようになった。第一次内乱で起きた出来事は象徴的なものとなり、対立していた諸党派は、この悲劇的な出来事を踏まえて、自分たちに課せられたイスラームの使命を理解しようとした。だが、中心地かムハンマドと正統カリフの町マディーナからウマイヤ家の拠点ダマスカスヘ移ったことについては、誰もがこれは単なる政治上の処置ではないと感じていた。ウンマは預言者ムハンマドの世界から遠ざかろうとしているように思われ、その存在理由を失う恐れがあった。そうした中、ムスリムのうち人一倍敬虔で危機意識の強い者たちは、ウンマを正しい道に引き戻す新たな方法を見つけ出そうと決意していた。

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