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未唯への手紙

未唯への手紙

アレクサンダー大王とハンニバル

2018年03月05日 | 4.歴史
『ハンニバル戦記 ローマ人の物語Ⅱ』より アレクサンダー大王とハンニバル

二千三百年も昔の人アレクサンダー大王の業績を探ろうにも、現代に生きる私たちには、容易に手に入るものとすればプルタルコス(プルターク)の『列伝』しかない。とはいえあの作品では、アレクサンダーの人間性には迫れても、彼が駆使した戦略戦術までは探れない。紀元一世紀のギリシアの教養人であったプルタルコスが、そのようなことにはあまり関心がなく、またこの種のことを書くうえでの専門知識もなかったからである。

だが、古代人でアレクサンダーについて書いたのは、プルタルコス一人ではない。アレクサンダーが成しとげた大遠征は、早すぎたその死の直後から、古代の人々を魅了しっづけてきた。多くの歴史家が、この若き天才の業績を書く作業に挑戦する。史料も、その当時ならば不足しなかった。

アレクサンダー自身が、二人の記録係を同行している。この二人の書いた記録をもとに、大王の死の直後にはや、二人の歴史家が伝記を書いた。

今日では、アレクサンダーに同行した二人が書いた記録も、その死の直後に書かれた二歴史家の著作も消失してしまっている。だが、これらを原史料として使って書いたプルタルコスの『列伝』やクルティウス・ルッツォの『アレクサンダー大王伝』などで、アレクサンダーの実像に迫ることができないでもない。とはいえ、大王の死のわずか百年後に生きたハンニバルに比べれば、情報の量だけを考えても、埋めようもない不利にあるのは明らかである。

それに、戦略や戦術についての記述には、そのようなことへの関心と専門知識の双方ともが必要だ。プルタルコスにかぎらず古代の歴史家の多くは、大王の業績を讃美することのほうに熱心で、それがどのように実行されていったかの記述には熱心でなかった。自ら軍勢を率いたクセノフォンやペロポネソス戦役に参戦したツキディデスやアカイア同盟軍の騎士団長を務めたポリビウスのような資質をもった歴史家が、一人もアレクサンダーを書いていないのが惜しまれる。

だが、いつの世にも、自分のやろうとしていることに役立つ例はないかという想いで、先人の業績に関心をもつ人はいる。ハンニバルも、その一人ではなかったかと思う。後年、彼はスキピオの質問に答えて、優れた武将の第一位にアレクサンダー大王をあげている。自分自身も優れた武将と思っていたハンニバルのことだ。人伝てに知ったくらいで、このように答えるはずはない。大王の武将としての才能を知り認めたから、第一位にあげたのである。

ハンニバルは、イタリアに進攻する以前から、また第二次ポエニ戦役の間もずっと、陣中に一人のギリシア人を同行していた。シレヌスという名の側近で、イタリア遠征の記録係でもある。だが、同時に、ハンニバルにギリシア語を教える役も務めていた。アレクサンダー大王について書かれた書物は、当時ではすべてギリシア語だ。シレヌスの役目は、ハンニバルに対して、アレクサンダーの業績を読み聴かせることではなかったか。それも、このカルタゴの若い武将が最も関心をもっていた、大王の戦略と戦術についてを重点的に。

後に大王と尊称されることになるアレクサンドロス(アレクサンダー)は、二十二歳の年に、三万六千の兵を従えただけで広大なペルシア帝国に攻め入った。この戦力で、十万から二十万もの兵を動員してくるペルシア王ダリウスと闘って、二度までも勝ったのである。ペルシア側の戦死者は十万を数えたのに反し、アレクサンダーの損失は二百から三百。ゼロを一つか二つ書き落したかと思うくらいだ。古人は大げさに記す癖があったというが、完勝であったことでは疑いようがない。

なぜ、このようなことが可能であったのか。素晴しい、偉大だと言って感嘆してすむ一般人とはちがって、武人ならば誰でも、関心を刺激されないではすまなかったろう。とくに、七十五万の動員力をもつイタリアに、その十分の一以下の戦力で攻めこもうとしていたハンニバルにとっては、関心はより強かったと思われる。

アレクサンダーは十八歳の年に、父であるマケドニア王フィリップス二世の率いる軍に参加して、テーベとアテネの連合軍を向うにまわしたカイロネア戦を闘っている。そのときの彼は、騎兵団の指揮をまかされていた。マケドニア軍もテーベ・アテネ連合軍も兵の数では対等であったのに、この会戦はマケドニア側の勝利に終った。勝利を決めたのは、マケドニアの騎兵の働きによる。

古代ではギリシアもローマも、重装歩兵が軍の主力であったことでは変らない。重装歩兵団を構成していたのが、中・上層部の市民たちであったからだ。カイロネア戦でのマケドニア軍も、歩兵十に対し騎兵一の比率だった。

だが、騎兵を自ら指揮し、それによって戦いを決したことで、若いアレクサンダーは、騎兵の重要性に目覚めたのではないかと思う。その二年後にいよいよ東征に出発したときの彼の戦力は、歩兵三万一千に騎兵五千。歩兵と騎兵の比率は、六対一に変っていた。しかも、騎兵の戦闘力と防御力を高めるために、重装騎兵まで考えだしている。

あっさりと読めば神の再来としか思えないほどにアレクサンダー礼讃に満ちた歴史書でも、この種の関心をもって読むと、ほんの時折だが、戦略戦術にふれた記述が浮びあがってくる。「敵軍の脇から攻めた」とか、「背後にまわった」とかである。また、五倍の戦力の敵に向ったイッソスの会戦を述べた個所では、「戦況の展開を見たアレクサンダーは、自軍の主力は重装歩兵にあるのはわかりながらも、ここは騎兵によって勝負をつけるときだと判断した」とさえ書いてある。

マケドニアの若い武将は、騎兵のもつ機動力を駆使することで、歩兵と騎兵で成り立っている軍の力を有機的に活用することを考えついたのである。軍全体を有機的に活用することで、敵の主戦力の非戦力化を策したのであった。

それまでの戦闘は、歩兵は歩兵同士、騎兵は騎兵同士で闘うのが定法だった。騎兵の機動性が活用されたとしても、敗走する敵の追撃程度であったのだ。この戦法だと、勝負を決めるのは「量」になる。大量の兵力を戦場にくり出すことこそ大帝国の帝王の力と信じていたダリウスが、十五万もの兵をイッソスの戦場に投入したのは、何もアレクサンダーを怖れたからではない。イ″ソスの前には、アレクサンダーはペルシア相手に、ただ一度しか戦闘をしていない。ダリウスと対決するのも、イッソスが最初だった。アレクサンダー出現以前の戦闘は足し算的な闘い方をしていたのだから、ペルシア側には大軍をくり出す理由もあったのである。だが、マケドニアの若者は、従来の戦闘のやり方を変えてしまった。

歩兵も騎兵も、アレクサンダーにとっては、戦場という盤の上で戦術に応じて動かす駒であった。彼は、歩兵に向けて騎兵を投入したり、歩兵団を騎兵にぶつからせたりしている。彼の関心は、貴族出身者の多い騎兵の自負心の尊重などにはなく、一に、自軍のもつ力をいかにすれば効率よく活用できるか、にあった。これが、戦場での彼の勝因であったのだ。

天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。

自軍の各部門を有機的に活用することで、量では優勢な敵に対して勝利を収めようと考えるのだから当然にしても、戦場でのアレクサンダーは、戦闘の主導権は常に彼がにぎり、敵の出方を待つようなことはしなかった。彼は、こんなことも言っている。

「戦闘とは、激動の状態である。ゆえに、戦場でのすべての行為は、激動的に成されねばならない」

それでいて、アレクサンダーは、戦場の外では慎重であることも知っていた。イッソスで完敗したダリウスを、深追いしていない。内陸部に逃れたこのペルシア王はまずおいて、地中海沿岸地方の制圧に専念している。ギリシアからの補給線確保は、敵地で闘うアレクサンダーにとっては、放置することは許されない課題であった。また、ガウガメーラで再度ダリウスに勝った後も、ダリウスを追撃するよりもまず、バビロニアやスーザやペルセポリスの攻略を優先させている。ダリウス追撃の準備に入ったのは、これらペルシアの重要都市を手中にした後であった。

戦闘に大勝した後でも深追いは避け、周辺を攻略しつつ戦闘での勝利を確かなものにするアレクサンダーのやり方は、三万六千だけで東に攻め入った彼の軍を、大幅に増強させることにつながった。束に進むにつれて、彼の軍勢はギリシア色が薄れていく。進軍の途中で加わった、現地住人の兵でふくれあがったからだった。

ここまで述べてきたアレクサンダーの戦略戦術のすべては、そのままハンニバルのやり方に重なると思うが、最後の項はとくに、「ローマ連合」の解体を重視したハンニバルの、関心をより強くひいたにちがいない。だが、ハンニバルが相手にしているのは、ペルシアやその他の専制君主制に慣れたオリエントの民ではなかった。ほぼ対等な同盟関係をローマとの間に結び、「インフラ整備」によるローマ化でローマ人とは経済的にも運命共同体になっていた、イタリアのエトルリア人やギリシア人であったのである。

アレクサンダーを学んだこと確実と思われるハンニバルだが、それでも二人は同じ人間ではない。アレクサンダーには、ハンニバルとちがって、敵の不意を突くとか策謀をめぐらせるようなところがほとんどなかった。これはもう、ギリシア人とカルタゴ人という民族のちがいではなく、アレクサンダーとハンニバルという、個人の性格のちがいに帰すしかない。ホメロスの英雄たちの中でアレクサンダーが誰よりも愛したのは、高貴で勇敢ではあっても策謀には縁のないアキレスである。ハンニバルの好みは知られていないが、奸計によってトロイを落城にもって行った、オデュッセウスを好むと言ったかもしれない。

いかに巧妙に考案された戦略戦術でも、それを実施する人間の性格に合っていなければ成功には結びつかない。人はみな、自分自身の肌合いに最も自然であることを、最も巧みにやれるのである。紀元前四世紀の「アキレス」は夜襲さえもしようとはしなかったが、ハンニバルは、前三世紀の「オデュッセウス」であった。

有機的に戦闘を展開しようと思えば騎兵を活用するしかないということを、アレクサンダーから学んだにちがいないハンニバルだが、そのハンニバルに四度もつづけて敗北を喫したローマ人は、なぜ彼らも騎兵力を増強しようとはしなかったのか。騎兵の機動性に、気づかなかったのか。それとも、増強はしたくてもそれを実行に移すのは、何かの理由で不可能であったのか。

ローマ側は、早くもティチーノの戦闘で、ハンニバルの騎兵力の優勢に気づいていた。あのときの騎兵戦で敗れた執政官コルネリウスは、元老院でこの点を報告している。また、トランジメーノで敗れた執政官フラミニウスも、南下するハンニバルを追うと決めたときに、リミニにいる同僚の執政官セルヴィリウスに、騎兵団だけでも先行させるよう要請している。ローマの司令官たちは、ハンニバルの強さの一因が、彼の騎兵力にあることを完全に理解していた。だが、それは、ただちには騎兵力の増強に結びつかなかった。

一つには、共和政ローマの軍隊の成り立ちに理由がある。当時のローマ軍の主力は、中から上の階級に属す市民が、市民としての義務をまっとうする意味で兵役につく、重装歩兵であった。共和政ローマの魂は、この重装歩兵に体現されていたのである。

この重装歩兵をないがしろにするようでは、共和政ローマの斟丿所をないがしろにすることになる。われらが日本の特色が和の精神であるとすれば、それを国際化時代では通用しないとして全面的にしりぞけたりすれば、日本は日本でなくなるのと同じである。騎兵が重要になったからといって、重装歩兵を騎兵に転化したりすれば、ローマ人はローマ人でなくなるのであった。

また、五百年このかたずっと、重装歩兵を主力にした軍隊でうまく行ってきたのである。人間、これまではずっと有効であったことを変革するくらい、困難なことはない。

第二の理由としては、当時のローマには、騎兵を集めようにも戦力になりうる騎兵が、地中海世界の他の国同様に少なかった事情があげられる。イタリアには、アペニン山脈周辺の山岳地帯に、わずかに馬の産地があるだけだ。騎兵は、馬の産地にしか生れない。

まったく、科学の創始者であるギリシア人や、工学の天才であったローマ人にして、なぜ考えつかなかったのかと不思議なくらいだが、古代の人々は鐙を知らなかった。

医学の祖とされるヒポクラテスも古代医学の大成者ガレーヌスも、長時間ぶら下げたままでいるためのうっ血による脚の病いを、騎士の職業病であると記している。

古代の騎士たちは、アメリカ大陸のインディアンと同じに、簡単な鞍を置いただけの馬にまたがり、両足は、鐙というささえもなしに下げたままだった。ぶら下がった足でも、馬腹を蹴ることはできる。鐙はなくても、騎行はできるのだ。

しかし、騎乗しながら矢を射たり槍で突き刺したりするには、馬の上でふんばらないとうまくいかない。そのために鐙が必要なのだが、それが存在しない以上、両足で馬腹を強くしめつけることで身体を馬上で固定するという、幼少時からの訓練でもなければ会得できない、特殊技能が要求された。

こうなると、生れたときから馬に乗って山野を駆けまわっている馬の産地の出身者か、でなければ社会的地位が高く裕福な家の子弟にかぎられてくる。ローマの税制で、所有財産が最も多い第一階級に、騎兵としての兵役者が割り当てられたのもこの理由による。騎兵力増強が急務とわかっても、ただちにそれを実行に移せなかったのには、これらの理由があった。

その点、専制君主国であったマケドニアや傭兵制度を選択していたカルタゴのほうが、騎兵力増強には有利だった。アレクサンダーは東征に際し、北辺のトラキアから大量の騎兵を徴集している。ハンニバルは、地中海世界の騎馬民族として有名だった、北アフリカのヌミディアから傭い入れればよかった。

ローマ軍が市民軍でなくなって以後も、ローマは、重装歩兵を軍の主力とする方針は変えていない。それゆえに、騎兵の増強をどのようにして実現するかは、常に切実な課題として残った。ユリウス・カエサルは、白下の騎兵を、ヌミディアと並ぶ地中海のもう一つの騎馬民族である、ガリア人から集めている。だが、第二次ポエニ戦役当時、ローマにとってのガリア民族は、ハンニバル側についている敵だった。つまり、アレクサンダー大王に学んで騎兵力の重要性を悟ったハンニバルは、ヌミディアにガリアという、地中海世界では数少ない騎馬民族の二つともを、自軍に加えていたということになる。

ローマの騎兵力増強は、このように二重にも三重にも困難な状態にあったのだ。この問題の解決は、カンネでの完敗から数えても十四年を待だなくてはならないのであり、アレクサンダーの弟子であったハンニバルの、そのまた弟子の出現を待だなくてはならなかったのである。

ちなみに、鐙は、紀元後の十一世紀になってようやく普及する。騎士が中世の華になりえたのは、いちに鐙の出現のおかげであった。

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