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インディアスの破壊についての簡潔な報告

『インディアスの破壊についての簡潔な報告』より

インディアスの人びとは地上のどの民族より、明晰かつ何ものにも囚われない鋭い判断力を具え、あらゆる秀れた教えを理解し、守ることができる。彼らはわが聖なるカトリックの信仰を受け入れ、徳高い習慣を身につけるのに十分な能力をもちあわせている。すなわち、彼らは、神がこの世に創造されたあらゆる人間の中で、信仰へ導くのに障害となるものがとりわけ数少ない人たちである。インディアスの人びとは信仰に関する事柄を知るようになると、それを理解したり、教会の秘蹟や礼拝を実行したりするのに非常に熱心なので、聖職者は彼らの執拗な願いを引き受けるためには、実際、神から忍耐という特別な恵みを授かっていなければならないほどである。最後に、長年この土地に暮らしていた大勢のスペイン人、それも聖職者以外の人たちがよく口にした言葉を記しておこう。つまり、彼らは、インディアスの住民が生まれついて善良な人たちであることを否定できず、「確かに、この土地の住民は、神を知らなかったことを除くと、この世で誰よりも至福を得た民である」と話していたのである。

スベイン人は、創造主から先記のさまざまな素晴らしい性質を授かったこれら従順な羊の群れに出会うや、まるで何日も獲物にありつけず、飢えて猛り狂った虎狼やライオンのように、彼らに襲いかかった。スペイン人が四〇年前から今に至るまで、そして、今日現在もなお、行ないつづけているのは、かつて人が見たことも、本で読んだこともなければ、話に聞いたこともない残虐きわまりない手口を新しく次々と考え出して、ひたすらインディオを斬りきざみ、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやることなのである。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約三〇〇万のインディオが暮らしていたが、今ではわずか二〇〇人しか生き残っていない有様である。私は以下にそれらの非道な行為についていくつか、ほんのわずかな例を記すことに。る。

クーバ島は全長がおよそバリャドリードからローマに至る距離に匹敵するぐらい大きな島だが、現在、島にはほとんど人がいない。サン・フアン島もハマイカ島、いずれも非常に大きな島で、豊饒で素晴らしいところであったが、今では荒れはてて見る影もない。エスパニョーフ島やキューバ島の北方に隣接して、ルカーヨ人の住む諸島があり、そこにはヒガンテと呼ばれる諸島をはじめ、大小さまざま合わせて六〇以上もの島々がある。その中で、いちばん貧しい島でも、王家がセビーリャに所有している果樹園よりはるかに豊かで美しく、また、その島は地上でもっとも快適な気候に恵まれたところでもある。ルカーヨ人の住むその島々には、かつては五〇万を超える人びとが暮らしていたが、今では住む人はひとりもいない。つまり、スペイン人はエスパニョーフ島の住民が絶滅したのを知ると、こんどはルカーヨ人をエスパニョーフ島へ連行してきては、また、その輸送途中で、全員を殺してしまったのである。そうして島々の住民がほとんど連れ去られたあと、あるひとりの立派なキリスト教徒が憐憫の情にうたれヽもし生きながらえている者がいれば、改宗させ、キリストの手に委ねようと思いたち、一隻の船に乗って三年間、島々を巡ったが、生き残っていたのはわずか一一名にすぎなかった。実は、私もその人たちに会ったことがある。

サン・フアン島の近くには三〇を超える島があるが、それらの島もルカーヨ人の島々と同じ原因で、人びとは全滅し、土地は荒れはててしまった。おそらくそれらの島を合わせると、全長二〇〇〇レグア以上にも及ぶと思われるが、今ではその島々もひとつ残らず、見るも無惨に荒れはて、人影もない。

広大な大陸方面に関して言えば、これは確信しているのだが、われわれの同胞であるスペイン人が残酷な仕打ちや邪悪な振る舞いでその地域の人びとを全員死へ追いやり、一帯を壊滅させた結果、現在、そこは荒れ野と化してしまっている。かつてその地域には、理性を具えた大勢の人びとがひしめきあって暮らし、アラゴン王国とポルトガル王国を加えたスペイン全土よりも広大な王国が数にして一〇以上も存在し、その全長は距離にして、セビーリャ・イェルサレム間の二倍以上、つまり、二〇〇〇レグア余りにも及んでいる。

したがって、われわれが確信し、正真正銘の事実だと判断しているところでは、この四〇年間に、男女、子ども合わせて二一〇〇万を超える人たちがキリスト教徒の行なった暴虐的かつ極悪無惨な所業の犠牲となって残虐非道にも生命を奪われたのである。それどころか、誤解を恐れずに言うなら、真実、その数は一五〇〇万を下らないであろう。

インディアスヘ渡った自称キリスト教徒がこの世からあの哀れな数々の民族を根絶し、抹殺するのに用いた手口はおもに二つあった。ひとつは不正かつ残酷で、血なまぐさい暴虐的な戦争を仕掛けるやりかたである。いまひとつは、自由な生活に憧れや望みを抱いたり、思いを馳せたり、あるいは、現在受けている苦しみから逃れることを考えたりするような首長や一人前の男性たちをおう殺しておいて、生き残った者たち(というのも、ふつうキリスト教徒は戦争では子どもや女性を殺さなかったからである)を、かつて人間が、いや、獣でさえ経験したことのないこの上なく苛酷で無慈悲な恐るべき奴隷状態に陥れて虐げることであった。それ以外にも、キリスト教徒は数えきれないほどさまざまな方法であの無数の人びとを殲滅したが、それらはいずれも上述した二つの極悪無惨で暴虐的な手口に集約されるのである。
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