未唯への手紙
未唯への手紙
拡大自殺 被害者意識が復讐を正当化する
『拡大自殺』より 拡大自殺の根底に潜む病理 強い復讐願望
怒りと被害者意識
復讐願望を抱いている人の胸中には、怒りも煮えたぎっていることが多い。第一章で引用したセネカが見抜いているように、「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望」だからである。
見逃せないのは、怒りに駆られている人がしばしば「不正に害された」と思い込んでいることだ。大量殺人、自爆テロ、警官による自殺に走る人はもちろん、親子心中や介護心中に走る人も、自分だけが理不尽な目に遭っていると思い込んでいることが少なくない。
もちろん、本書で取り上げた事例の多くが恵まれない家庭で育ったとか、予期せぬ不幸な出来事に遭遇したとか、何らかの失敗や挫折を経験したとか、経済的に困窮したとか、子育てや介護で疲れ果てたという事情を抱えており、追い詰められた末に犯行に及んだのだろうとは思う。また、筆者自身が同じ境遇に身を置いたわけではないので、その苦悩については推測するしかないという限界もある。
ただ、中には、客観的に見ると乗り越えられないほどの大きな困難ではなく、別の選択肢もあったはずなのに、拡大自殺を選んだのは一体なぜなのだろうと首をかしげざるを得ない事例もある。
その一因として、強い被害者意識があるのではないか。何でも被害的に受け止めると、「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないんだ」と怒りを募らせやすく、当然復讐願望も強くなるからだ。
問題は、こうした被害者意識が日本で最近強くなっており、「自分だけが割を食っている」と感じている人が年々増加しているように見えることだ。その背景には、個人的な要因だけでなく、社会的な要因もあると考えられる。
まず、日本の貧困化か進んでいる。何しろ、手取り額が過去二〇年間で月七万円近く減少したのだから。その一因として、「国民総所得に占める家計の賃金・俸給の割合」が、新自由主義路線が世界の潮流になったばかりの一九八〇年度には四六・五%だったのに、二〇一五年度には四〇・五%にまで低下したこともあるのではないか(水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)。
しかも、高齢化の影響で社会保険料が増大している。そのため、収入は減っているのに、負担が重くなっている状況である。当然、エングル係数も高くなっており、出費を削らざるを得ない家庭が増えている。
たとえば、総務省統計局がまとめている家計調査には、お小遣いを含む「その他の消費支出」という項目があるのだが、一九九七年には九万四五四三円だったのに、その後減少の一途をたどり、二〇一六年には六万一五三三円と二〇年前より三万円近く削られている。衣服代も、二万二六四円から一万三一五三円に減少している。つまり、お小遣いを減らし、衣料品などを買い控えている家庭が多い。生活レペルを下げて我慢を強いられているわけである。
当然、貯蓄に回す余裕もない。金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査」によると、一九九七年は一〇%だった「貯蓄なし世帯」は、アベノミクスが本格化した二〇一三年以降、三〇%を超える水準で高止まりしている。いまや、貯蓄のない世帯が三軒に一軒の割合で存在する。
もっとも、総務省が二〇一七年五月一六日に発表した「家計調査報告(貯蓄・負債編)」によれば、二人以上の世帯における二〇一六年の一世帯当たり平均貯蓄額は、一八二〇万円だった。この数字に衝撃を受けた方が少なくないようだが、実は約三分の二の世帯がこの平均値を下回っていた。また、年齢階級別に見ると、七〇歳以上の世帯の純貯蓄額(貯蓄残高から負債を差し引いたもの)が二三五六万円と最も多かったのに対して、四〇歳未満の世帯では負債超過だった。しかも、四〇歳未満の世帯の平均貯蓄額は前年から五・六%減少して、五七四万円だったという。
このような数字をみると、たんまり貯め込んでいる高齢者がいる一方で、若年層が割を食っているという印象を受けるが、経済的に困窮している高齢者も少なくない。第一章で紹介したように、高齢者が赤の他人を道連れにして拡大自殺を図る事件が最近目立つが、その背景に、「下流老人」という言葉に象徴される貧困にあえぐ高齢者の増加があることは否定しがたい。厚生労働省の調査でも、全国の生活保護受給世帯のうち六五歳以上の高齢者世帯が過半数を占めていることが判明している。
もちろん、若年層の中にも高学歴・高収入のエリートはいる。逆に、パート・アルバイト、契約・派遣社員などの非正規労働者は、いまや全労働者の四割近くを占めているが、その七割が年収二〇〇万円に届かないことが、連合などのアンケートでわかっている。年収が低いせいで、結婚をあきらめたり、食事の回数を減らしたり、医者にかかれなかったりという話を耳にすることもある。
要は、日本人がみな一様に貧しくなっているわけではないことだ。少数の大金持ちがいる一方で、食べていくだけで精一杯の貧乏人もいる。格差が拡大して、「一億総中流時代」と呼ばれていた頃の「平等幻想」はもはや崩壊してしまったのだ。
また、お互いに自分こそ被害者だと思い込んでいる人が少なくない。たとえば、若者が、年金をたっぷりもらっている高齢者の犠牲になっていると感じているのに対して、高齢者は、長年真面目に年金を納め続けた割には支給額が少ないと感じている。あるいは、非正規社員が「正社員は高い給料をもらっているのに、ろくに働かず、面倒な仕事は全部われわれ非正規に押しつけている」と不満を漏らす一方、正社員は「非正規社員は、残業もしないし、仕事の責任も取らないから、ミスがあったら結局われわれ正社員が尻拭いするしかない」と愚痴をこぼす。どちらの言い分か正しいかはさておき、それぞれの立場でみんなが不満を募らせているのが、現在の日本社会である。
さらに、小泉政権以降広がってきた自己責任論も見逃せない。被害者意識の強い人の増加と自己責任論は、一見相反するように見えるかもしれないが、両者は表裏一体である。自己責任論が幅を利かせるほど、被害者意識の強い人は増える。
というのも、自己責任論は、ある意味過酷だからだ。自己責任論を突き詰めると、うまくいかないのはすべて自分のせいということになるが、それを認めるのは非常につらい。何よりも、自己愛が傷つく。だから、強い自己愛の持ち主ほど、自己責任を否認して、「自分に能力がないわけでも、努力が足りないわけでもなく、○○のせいでこうなった。自分はあくまでも被害者なのだ」と思い込もうとする。したがって、社会が自己責任を強く求めるほど、他人のせいにして保身を図る人、つまり被害者意識の強い人が増えるわけである。
被害者意識が復讐を正当化する
このように被害者意識が強くなると、「自分はこんな理不尽な目に遭っている被害者なのだから、〈加害者〉に復讐するのは当然だ」と思い込む人が増える。ここでいう〈加害者〉とは、本人が主観的にそう思い込んでいるだけで、客観的に見ると的はずれなことも少なくない。
たとえば、自分の生活が苦しいのは在日韓国人が生活保護を不正受給しているせいだと、何の根拠もないのに思い込んだ人が、在日韓国人を〈加害者〉とみなしてヘイトスピーチを繰り返すような場合である。
こうした主観と客観のずれは、被害者意識が強くなるほど大きくなり、ときには被害妄想の域に入ることさえあるが、当の本人は気づいていない場合がほとんどだ。それどころか、被害者意識をよりどころにして、自分はあくまでも「正義の鉄槌」を加えようとしているのだと思い込み、〈加害者〉への復讐を正当化しようとする。
イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルが「功利主義論」で、「正義の心情には、二つの本質的な要素がある。加害者を罰したいという欲求と、一人またはそれ以上のはっきりした被害者がいるという知識または確信である」と述べているように、被害者意識が強くなるほど、〈加害者〉を罰したいという欲求も、自分の正しさへの確信も強まる。
被害者意識が強くなっている日本で、絶望感と厭世観にさいなまれた人が、「自分の人生がうまくいかなかったのは、これこれの〈加害者〉のせいだ」と思い込んで、〈加害者〉を罰して復讐を果たし、なおかつ自らの人生に終止符を打とうとする拡大自殺がますます増えるのではないかと危惧せずにはいられない。
怒りと被害者意識
復讐願望を抱いている人の胸中には、怒りも煮えたぎっていることが多い。第一章で引用したセネカが見抜いているように、「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望」だからである。
見逃せないのは、怒りに駆られている人がしばしば「不正に害された」と思い込んでいることだ。大量殺人、自爆テロ、警官による自殺に走る人はもちろん、親子心中や介護心中に走る人も、自分だけが理不尽な目に遭っていると思い込んでいることが少なくない。
もちろん、本書で取り上げた事例の多くが恵まれない家庭で育ったとか、予期せぬ不幸な出来事に遭遇したとか、何らかの失敗や挫折を経験したとか、経済的に困窮したとか、子育てや介護で疲れ果てたという事情を抱えており、追い詰められた末に犯行に及んだのだろうとは思う。また、筆者自身が同じ境遇に身を置いたわけではないので、その苦悩については推測するしかないという限界もある。
ただ、中には、客観的に見ると乗り越えられないほどの大きな困難ではなく、別の選択肢もあったはずなのに、拡大自殺を選んだのは一体なぜなのだろうと首をかしげざるを得ない事例もある。
その一因として、強い被害者意識があるのではないか。何でも被害的に受け止めると、「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないんだ」と怒りを募らせやすく、当然復讐願望も強くなるからだ。
問題は、こうした被害者意識が日本で最近強くなっており、「自分だけが割を食っている」と感じている人が年々増加しているように見えることだ。その背景には、個人的な要因だけでなく、社会的な要因もあると考えられる。
まず、日本の貧困化か進んでいる。何しろ、手取り額が過去二〇年間で月七万円近く減少したのだから。その一因として、「国民総所得に占める家計の賃金・俸給の割合」が、新自由主義路線が世界の潮流になったばかりの一九八〇年度には四六・五%だったのに、二〇一五年度には四〇・五%にまで低下したこともあるのではないか(水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』)。
しかも、高齢化の影響で社会保険料が増大している。そのため、収入は減っているのに、負担が重くなっている状況である。当然、エングル係数も高くなっており、出費を削らざるを得ない家庭が増えている。
たとえば、総務省統計局がまとめている家計調査には、お小遣いを含む「その他の消費支出」という項目があるのだが、一九九七年には九万四五四三円だったのに、その後減少の一途をたどり、二〇一六年には六万一五三三円と二〇年前より三万円近く削られている。衣服代も、二万二六四円から一万三一五三円に減少している。つまり、お小遣いを減らし、衣料品などを買い控えている家庭が多い。生活レペルを下げて我慢を強いられているわけである。
当然、貯蓄に回す余裕もない。金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査」によると、一九九七年は一〇%だった「貯蓄なし世帯」は、アベノミクスが本格化した二〇一三年以降、三〇%を超える水準で高止まりしている。いまや、貯蓄のない世帯が三軒に一軒の割合で存在する。
もっとも、総務省が二〇一七年五月一六日に発表した「家計調査報告(貯蓄・負債編)」によれば、二人以上の世帯における二〇一六年の一世帯当たり平均貯蓄額は、一八二〇万円だった。この数字に衝撃を受けた方が少なくないようだが、実は約三分の二の世帯がこの平均値を下回っていた。また、年齢階級別に見ると、七〇歳以上の世帯の純貯蓄額(貯蓄残高から負債を差し引いたもの)が二三五六万円と最も多かったのに対して、四〇歳未満の世帯では負債超過だった。しかも、四〇歳未満の世帯の平均貯蓄額は前年から五・六%減少して、五七四万円だったという。
このような数字をみると、たんまり貯め込んでいる高齢者がいる一方で、若年層が割を食っているという印象を受けるが、経済的に困窮している高齢者も少なくない。第一章で紹介したように、高齢者が赤の他人を道連れにして拡大自殺を図る事件が最近目立つが、その背景に、「下流老人」という言葉に象徴される貧困にあえぐ高齢者の増加があることは否定しがたい。厚生労働省の調査でも、全国の生活保護受給世帯のうち六五歳以上の高齢者世帯が過半数を占めていることが判明している。
もちろん、若年層の中にも高学歴・高収入のエリートはいる。逆に、パート・アルバイト、契約・派遣社員などの非正規労働者は、いまや全労働者の四割近くを占めているが、その七割が年収二〇〇万円に届かないことが、連合などのアンケートでわかっている。年収が低いせいで、結婚をあきらめたり、食事の回数を減らしたり、医者にかかれなかったりという話を耳にすることもある。
要は、日本人がみな一様に貧しくなっているわけではないことだ。少数の大金持ちがいる一方で、食べていくだけで精一杯の貧乏人もいる。格差が拡大して、「一億総中流時代」と呼ばれていた頃の「平等幻想」はもはや崩壊してしまったのだ。
また、お互いに自分こそ被害者だと思い込んでいる人が少なくない。たとえば、若者が、年金をたっぷりもらっている高齢者の犠牲になっていると感じているのに対して、高齢者は、長年真面目に年金を納め続けた割には支給額が少ないと感じている。あるいは、非正規社員が「正社員は高い給料をもらっているのに、ろくに働かず、面倒な仕事は全部われわれ非正規に押しつけている」と不満を漏らす一方、正社員は「非正規社員は、残業もしないし、仕事の責任も取らないから、ミスがあったら結局われわれ正社員が尻拭いするしかない」と愚痴をこぼす。どちらの言い分か正しいかはさておき、それぞれの立場でみんなが不満を募らせているのが、現在の日本社会である。
さらに、小泉政権以降広がってきた自己責任論も見逃せない。被害者意識の強い人の増加と自己責任論は、一見相反するように見えるかもしれないが、両者は表裏一体である。自己責任論が幅を利かせるほど、被害者意識の強い人は増える。
というのも、自己責任論は、ある意味過酷だからだ。自己責任論を突き詰めると、うまくいかないのはすべて自分のせいということになるが、それを認めるのは非常につらい。何よりも、自己愛が傷つく。だから、強い自己愛の持ち主ほど、自己責任を否認して、「自分に能力がないわけでも、努力が足りないわけでもなく、○○のせいでこうなった。自分はあくまでも被害者なのだ」と思い込もうとする。したがって、社会が自己責任を強く求めるほど、他人のせいにして保身を図る人、つまり被害者意識の強い人が増えるわけである。
被害者意識が復讐を正当化する
このように被害者意識が強くなると、「自分はこんな理不尽な目に遭っている被害者なのだから、〈加害者〉に復讐するのは当然だ」と思い込む人が増える。ここでいう〈加害者〉とは、本人が主観的にそう思い込んでいるだけで、客観的に見ると的はずれなことも少なくない。
たとえば、自分の生活が苦しいのは在日韓国人が生活保護を不正受給しているせいだと、何の根拠もないのに思い込んだ人が、在日韓国人を〈加害者〉とみなしてヘイトスピーチを繰り返すような場合である。
こうした主観と客観のずれは、被害者意識が強くなるほど大きくなり、ときには被害妄想の域に入ることさえあるが、当の本人は気づいていない場合がほとんどだ。それどころか、被害者意識をよりどころにして、自分はあくまでも「正義の鉄槌」を加えようとしているのだと思い込み、〈加害者〉への復讐を正当化しようとする。
イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルが「功利主義論」で、「正義の心情には、二つの本質的な要素がある。加害者を罰したいという欲求と、一人またはそれ以上のはっきりした被害者がいるという知識または確信である」と述べているように、被害者意識が強くなるほど、〈加害者〉を罰したいという欲求も、自分の正しさへの確信も強まる。
被害者意識が強くなっている日本で、絶望感と厭世観にさいなまれた人が、「自分の人生がうまくいかなかったのは、これこれの〈加害者〉のせいだ」と思い込んで、〈加害者〉を罰して復讐を果たし、なおかつ自らの人生に終止符を打とうとする拡大自殺がますます増えるのではないかと危惧せずにはいられない。
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