未唯への手紙
未唯への手紙
新しい市民社会論
『政治学をつかむ』より
このような新自由主義的な議論とは別に、現代的な視点から市民社会に再注目する動きがある。このような動きは、「新しい市民社会」論、あるいは「市民社会論のルネサンス」と呼ばれている。
市民社会という概念自体は古代ギリシア・ローマの時代に遡るものであるが、「市民による政治共同体」を意味するこの言葉は、国家とほぼ同義語として用いられることが多かった。これに対し、18世紀以降、この言葉は国家と区別される領域を指し示すようになる。近代市場経済の発展を背景に、市民の経済活動の展開によって形成される秩序を指し示すようになったのである。すでに指摘したようなヘーゲルの用法は、そのひとつの典型であった。このような意味での市民社会概念は、日本の戦後社会科学においても活発に論じられた。その場合、自立的な個人が構成する近代社会の理念として評価されることもあれば、マルクス主義のように、資本家(ブルジョヮ)の階級支配として批判されることもあった。
これに対し、現在、「新しい市民社会」論と呼ばれる動きは、1980年代末の中・東欧における民主化運動の中で再発見され、89年の社会主義体制の崩壊を機に、世界的な拡大を見せるようになったものである。中・東欧諸国においては、1956年のハンガリー動乱や、68年のチェコスロヴァキアにおける「プラハの春」のように、共産党独裁に対する民主化運動はソヴィエト連邦の介入を招き、挫折に終わっていた。このことを教訓に、政治権力を奪い自らが権力の中枢にすわることをめざすのではなく、むしろ国家から自立した領域において、複数の自発的アソシエーション(結社)から構成される独自の公共空間を創出することをめざす「自己限定的革命」の戦略がとられるようになった。このような動きの中から、レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が生まれ、国民的な社会運動を展開し、ポーランドの民主化を実現していった。この際に、直接に国家権力にかかわる政治活動の領域でもなく、また市場の領域でもない、市民の自発的な多様な組織的活動の領域として注目されたのが、「新しい市民社会」であった。
このような現実の動きと呼応するように、「新しい市民社会」概念の理論化も進んでいる。「新しい市民社会」とは、古典的な政治共同体=国家と同一視されるものでもなければ、ヘーゲルの考え方やマルクス主義のように国家から自立した経済領域とも区別される。政府を中心とする国家の領域でもなければ。企業を中心とする市場経済の領域でもない、いわば第3の領域こそが「新しい市民社会」なのである。この第3の領域の中心となるのは、政党や企業ではなく、NGOや非営利組織(NPO)など、さまざまな自発的なアソシエーション、社会運動、市民活動のネットワークである。
このような「新しい市民社会」を構成するアクター(主体)の活動はいまや、地域レベルから国家レペル、さらには超国家レベルにまで発展している。そのような市民社会アクター同士の相互作用や、各レベルの政府組織との交渉は、「グローバル市民社会」とでも呼ぶべきものを生み出している。もはや市民社会は国境の内側にとどまるものではない。もちろん、すでに指摘したように、国境を越えて活動するのは、必ずしも民主的で社会正義にかなう組織とは限らない。テロ組織はともかくとしても、原理主義的な宗教組織や、民族主義組織も、グローバルな市民社会を構成している。いずれにせよ、今日の世界を考えるにあたって、国家の政治権力による上からの統治だけでなく、多様な市民社会の集団による下からの秩序創造を考慮に入れることなしに、さまざまな問題への取り組みは不可能であろう。
このような新自由主義的な議論とは別に、現代的な視点から市民社会に再注目する動きがある。このような動きは、「新しい市民社会」論、あるいは「市民社会論のルネサンス」と呼ばれている。
市民社会という概念自体は古代ギリシア・ローマの時代に遡るものであるが、「市民による政治共同体」を意味するこの言葉は、国家とほぼ同義語として用いられることが多かった。これに対し、18世紀以降、この言葉は国家と区別される領域を指し示すようになる。近代市場経済の発展を背景に、市民の経済活動の展開によって形成される秩序を指し示すようになったのである。すでに指摘したようなヘーゲルの用法は、そのひとつの典型であった。このような意味での市民社会概念は、日本の戦後社会科学においても活発に論じられた。その場合、自立的な個人が構成する近代社会の理念として評価されることもあれば、マルクス主義のように、資本家(ブルジョヮ)の階級支配として批判されることもあった。
これに対し、現在、「新しい市民社会」論と呼ばれる動きは、1980年代末の中・東欧における民主化運動の中で再発見され、89年の社会主義体制の崩壊を機に、世界的な拡大を見せるようになったものである。中・東欧諸国においては、1956年のハンガリー動乱や、68年のチェコスロヴァキアにおける「プラハの春」のように、共産党独裁に対する民主化運動はソヴィエト連邦の介入を招き、挫折に終わっていた。このことを教訓に、政治権力を奪い自らが権力の中枢にすわることをめざすのではなく、むしろ国家から自立した領域において、複数の自発的アソシエーション(結社)から構成される独自の公共空間を創出することをめざす「自己限定的革命」の戦略がとられるようになった。このような動きの中から、レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が生まれ、国民的な社会運動を展開し、ポーランドの民主化を実現していった。この際に、直接に国家権力にかかわる政治活動の領域でもなく、また市場の領域でもない、市民の自発的な多様な組織的活動の領域として注目されたのが、「新しい市民社会」であった。
このような現実の動きと呼応するように、「新しい市民社会」概念の理論化も進んでいる。「新しい市民社会」とは、古典的な政治共同体=国家と同一視されるものでもなければ、ヘーゲルの考え方やマルクス主義のように国家から自立した経済領域とも区別される。政府を中心とする国家の領域でもなければ。企業を中心とする市場経済の領域でもない、いわば第3の領域こそが「新しい市民社会」なのである。この第3の領域の中心となるのは、政党や企業ではなく、NGOや非営利組織(NPO)など、さまざまな自発的なアソシエーション、社会運動、市民活動のネットワークである。
このような「新しい市民社会」を構成するアクター(主体)の活動はいまや、地域レベルから国家レペル、さらには超国家レベルにまで発展している。そのような市民社会アクター同士の相互作用や、各レベルの政府組織との交渉は、「グローバル市民社会」とでも呼ぶべきものを生み出している。もはや市民社会は国境の内側にとどまるものではない。もちろん、すでに指摘したように、国境を越えて活動するのは、必ずしも民主的で社会正義にかなう組織とは限らない。テロ組織はともかくとしても、原理主義的な宗教組織や、民族主義組織も、グローバルな市民社会を構成している。いずれにせよ、今日の世界を考えるにあたって、国家の政治権力による上からの統治だけでなく、多様な市民社会の集団による下からの秩序創造を考慮に入れることなしに、さまざまな問題への取り組みは不可能であろう。
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