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なぜ日本は無謀な太平洋戦争を始めたのか

『徳川家が見た戦争』より ⇒ 負けた原因は戦争をしたから。中国を放棄すれば、道が開けた。

 石油を断たれ、開戦を決意

  一九四一(昭和十六)年、アメリカがついに日本への石油輸出を全面禁止に踏み切った。すると陸海軍とも主戦論が次第に勢いを増す。燃料となる石油がなければ軍艦も航空機も、動くことができない。

  何度もいうが、軍隊にとって石油は命綱だ。石油の備蓄が未だあるうちに、アメリカと戦ったほうがいいというわけである。このころ、陸海軍の戦力だけを単純に比較すれば、国力の差ほど、日米に違いはなかった。

  同年十一月に企画院の鈴木貞一総裁が御前会議で発表した政府の需給見通しがある。それが前ページの上の図である。この「南方作戦遂行の場合の石油需給バランス試算表」によると、海軍を中心に今まで溜め込んだ備蓄分八百四十万トンに、占領した蘭印(現・インドネシア)からの石油分、さらにはわずかばかりの人造石油分が加わると、戦争を開始して三年たった段階でも七十万トンもの石油が残ることになる。

  蘭印から運ばれる一年目の石油量の値が、三十万トンと少なめに設定されているのは、オランダが撤退する際、石油生産施設を破壊すると想定しているからである。需要予測(国内消費量)をかなり甘めに設定するなど、今から見れば辻棲合わせを指摘できるが、数字は一見もっともらしい。

  蘭印の石油さえ確保できれば、アメリカと開戦しても数年間は十分に戦争を継続できる。日本は一気に開戦に傾いた。

  ただ、このような日本側の動きは、アメリカからすれば間違いなくシナリオどおりだったろう。

  前記の『昭和16年夏の敗戦』のなかで、猪瀬はアメリカのフランクリン・ルーズペルト大統領の義勇派兵委員会での演説を取り上げている。時期は実質的な対日石油禁輸を決めた1ヵ月後の一九四一(昭和十六)年七月である。少々長くなるが引用してみたい。

  --ここに日本と呼ぶ国がある。彼らは北にあって彼ら自身の石油を持っていなかった。そこでもし、われわれが石油を切断してしまったなら、彼らはいまから一年前に多分蘭印に降りて行ったであろうし、そうすれば諸君は戦争に入っていたであろう。そこで「ある希望をもって、アメリカの石油を日本に行かせている手段」と諸君が呼んでもいい手段があり、その手段は、われわれの自身の利益のために、イギリスの防衛および海洋の自由の利益のために、南太平洋をいままで二ヵ年間も戦争の埓外に保たせるように働いてきたのである。

  ルーズペルトはアメリカが戦時体制を整える時間を稼ぐため、さらにはイギリスがドイツとの戦いに注力できるようにするため、時間を稼ぐ必要があった。だから、日米対立が深刻化しても、すぐに禁輸政策を取らなかったのだ。石油を断たれた日本がどのような行動を取るのか、ルーズベルトは十分に理解していた。

  太平洋戦争は海軍によるハワイ真珠湾攻撃で始まったとされる。しかし、実はこの真珠湾攻撃に先立つこと約一時間二十分、日本陸軍が蘭印侵攻のため、イギリス領だったマレー半島に上陸している。これが太平洋戦争の実質的な戦闘開始である。

  ちなみに、米国戦略爆撃調査団の石油・化学部が、『日本における戦争と石油』(奥田英雄・橋本啓子訳/石油評論社)と題する報告書を戦後にまとめている。そのなかで日本の開戦および真珠湾攻撃について以下のように解説している。

  日本は輸入石油〔その80%強がアメリカからの輸入〕を使って戦争を仕掛けた。真珠湾を攻撃した航空機とそれを太平洋を横断して運んだ戦艦がアメリカ製燃料で行動した確率はきわめて高い」

 物資が断たれて敗戦の道へ

  日本が太平洋戦争に敗れたのは、軍隊が弱かったからなのか。

  それは必ずしも当たっていない。異説はもちろんあろうが、日本軍は貧弱な装備にもかかわらず、懸命に戦った。それでも敗戦した大きな理由の一つは、海外から日本への物資の補給が完全に断たれたことにある。

  九州大学教授の三輪宗弘は、『太平洋戦争と石油』(日本経済評論社)のなかで海軍大将だった野村吉三郎の敗因分析を伝えている。

  野村大将は敗戦後の一九四五(昭和二十)年十一月、米国戦略爆撃調査団の尋問を受けた。「軍事力方面で、日本の崩壊をもたらしたアメリカの大きな影響は何だったと思われますか」という質問に対し、以下のように陳述した。

  --はじめのうちは潜水艦によって、われわれの商船隊が大きな損害を与えられ、後期は空軍と協同した潜水艦が日本の船舶を減少させました。われわれの補給路は切断され、その生命線を維持することはできませんでした。次に日本の飛行機工場は破壊され、われわれは前線に消耗機の補充が十分できなかったが、一般の人々は船舶喪失の重大性の認識が欠けていて、一番大切なのは飛行機の問題だとばかり思い込んでいた。--

  同じく海軍大将だった豊田副武も同じ趣旨の尋問で、「南方の資源からの補給が断たれたことでした。それは主として、船舶の喪失と、輸送手段一般が何も無くなったことからきたものでした」と野村大将と同様の発言をしている。

  国内で所有されていた大型船(百トン以上)の総トン数推移を見ると、一九四三(昭和十八)年度以降、総トン数は右肩下がりとなる。このころ、アメリカ軍は日本の商船暗号を解読、輸送船団の航行情報を把握できるようになった。アメリカ軍の攻撃によって船舶が次々と撃沈されていった一方、生産施設や資材の不足などの理由で、国内での船舶建造はとても損失分を補う状況ではなかった。

  なかでもタンカー船舶の喪失は痛手で、日本に到着した石油量は一九四三年時点で、南方産油量のわずか二十%に過ぎない。太平洋戦争前に軍が描いた蘭印からの石油確保という目論見はもろくも崩れた。

  潜水艦などによる輸送船団への攻撃によって、当てにしていた南方の石油も工業資源も、そして、不足分を賄おうとした輸入米も移入米も、とにかくなにもかもが日本に入ってこなくなった。

  第二次・第二次両世界大戦でドイツと戦ったイギリスは、ドイツの潜水艦Uボートによる輸送船団攻撃の結果、補給物資が国内に入らなくなり、経済は白旗を掲げる寸前まで追いつめられた。アメリカも第二次世界大戦の序盤には、Uボートの攻撃にさんざん苦しめられた。

  このため、アメリカとイギリスは船団航行の方法や護衛艦隊の配置方法などを研究し、商船隊を守る護衛システムを考えた。ソナーなど対潜水艦用の装備を有した護衛専門の駆逐艦の建造も急ぎ、潜水艦攻撃による被害を最小限に食い止めようとした。

  これに対して、日本は輸送船団の護衛について、有効な手を打てぬまま終戦に至った。そもそも陸海軍とも民間商船を守ろうなどという発想自体が希薄だったように思う。

  太平洋戦争末期の一九四四(昭和十九)年に、海軍教育局が戦時輸送船員の教育用に作成した資料に「船員二告グ」がある。

  二十ページの小冊子のなかで、「民間船は脆弱に見えるが、艦艇に比べて予備浮量があるので、容易には沈没しない」「見張りが一番重要になる。旺盛な責任感は心眼を開く」「戦争は無理の連続。勝利のためには金剛精神の発揮が必要」などと、アメリカ軍の攻撃に対し、おおよそ効果があるとは思えない対策を並べ立てている。

  ただし、海軍のなかにも、アメリカ軍の潜水艦による海上封鎖に対し、早くから警告を発していた人もいる。何度も話に上らせて恐縮だが、海軍大将の井上成美がその一人である。

  一九四一(昭和十六)年に出された海軍大臣宛意見書「新軍備計画論」のなかで、当時、海軍中将だった井上は、「アメリカの海上交通制圧によって、国内が物資窮乏に陥る可能性が大である」と述べている。海軍の海上交通確保戦、今でいう「シーレーンの確保」が、日米戦のなかで特に重要になると強調しているのだ。

  しかし、艦隊決戦に勝利することのみを重視した、大井篤海軍大佐(海上護衛総司令部作戦参謀)が呼ぶところの「連合艦隊一本槍思想」に囚われた海軍のなかで、海上護衛について真剣に検討されることはなかった。先見の明に富んだ井上の意見書は無視されてしまった。

  カエサルはかつて『ガリア戦記』(國原吉之助訳/講談社学術文庫)のなかで、「願わしいものなら喜んで本当と思いこむ(人間の一般的な傾向)」と語っている。信じたくない事実を見せられたとき、当時の海軍首脳部は目を閉じてしまったのだろう。

  アメリカに完全に海上封鎖された日本に、もはや戦争を継続する道はなかった。
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