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「自由」そのものに価値があるわけではない

『ひとまず、信じない』より 政治論 覚悟を決めない政治家たち

「自由」そのものに価値があるわけではない

 「誰かに必要とされている」ということが、人間にとっては一番重要だということを書いた。人には必ず「自分の席」が必要だ。自分の役割があって、それが誰かの役に立っていることが、人が幸福感を得るための条件であると指摘した。

 何も持たないことが自由だと勘違いしている人たちがいる。結婚したり、子どもを持ったり、会社で役職に就いたりすると、面倒を抱えることになる。だから、そんなものはない方が自由だという理屈である。

 しかし、その考えが正しいとはとうてい思えない。

 「自由」は人間が勝ち得た最大の美徳という言われ方がよくなされるが、「自由」そのものに絶対の価値があるわけではない。自由とは抽象的な概念ではなく、何かをなすための方法論的な価値でしかない。自由そのものに、最終的な価値があるわけではないのである。

 こういう言葉が誤解されて拡散し、大量に消費されるのが現代社会の特徴だ。「自由」「平等」「平和」といった概念が、それ自体の価値によって何物にも代えられないという誤解である。それが意味することを十分に吟味することもなく、ただ、抽象的な言葉の概念だけで、それ自体の価値を犯すべきではないという思いこみ。これらが、本質的な問題を見えなくしているだけだ。

 「自由」と「平等」に絶対の価値があるなら、それらはいずれも「絶対的に」守られるべきであるが、このふたつは両立しない。必ず矛盾を生じさせる。そうなると、どちらかの価値を毀損させてでも、片方の価値を守らなければならなくなる。その時点で、価値は絶対でなく相対的なものとなる。

 今は自由という言葉が、競合する相手を蹴散らし、踏みつぶすための便利な言葉として使われる。新自由主義と呼ばれるものは、すべてそのようなものだ。好きなだけ自由にふるまって成功し、好きなだけ稼ぐべし、というのが自由の定義だ。

 そんな考えと平等が並び立つわけがないのである。

 わがまま勝手に生きたいから、自由でいたいと思うのであれば、おそらく他人の自由を毀損することになる。自由に家庭を捨て、自由に他人の財産を奪い取り、自由に仕事を辞めれば、その分、誰かの権利を侵害することになる。

 革命で自由を手にしたフランスの市民は「人間と市民の権利の宣言」で、自由とは「他者に害をなさない範囲で、あらゆることを行うことができること」と定義している。抑圧されてきた市民が王政を打倒し、政治的な自由を手に入れたときは、自由にも制限があることが認知されていた。それが「自由」そのものに絶対の価値があるように思われていく中で、制限がなくなった。

 「人間と市民の権利の宣言」にもある通り、自由とは他人を傷付けない範囲で何かをなすための方法である。何とか現実と折り合いをつけ、責任をきちんと取りながら、それでも自分のやり方を貫くことができる裁量が自由ということだ。

 自分勝手に生きて、他人を蹴落とすことが自由ではないはずだ。同時に何もしない自由などというものも本来存在しない。誰もいない孤島で、「おれは自由だ」とつぶやいてみたところで、その自由には何の意味もないし、何の価値もない。

 スイスでは家庭で使う洗剤から窓枠の色まで、すべて決められている。この状態は、ある種の自由人たちにはとても息苦しく感じられるだろう。「永世中立」という、これも言葉の響きだけで憧れる人は大勢いるか、スイスという社会はそういう独特のバランスの上に成り立っているのである。

 つまり、はみ出るものを許さないという態度だ。

 そういう社会ではロックンローラーはいらない。パンクなど、もってのほかだ。しかし、社会というのはロックンローラーもいれば、まじめな勤め人もいるから成立する。多様性があって、成り立っている。多様性が確保された社会は、平等性にいくらか欠けるかもしれない。しかし、個人生活のすべてが法律で定められた、完全平等の世界よりはよほどましに思える。

 では、スウェーデンのような高福祉社会は本当に人間の理想だろうか。平等に安心の老後が訪れる社会は、確かに魅力的に映る。でも、その代償として25%の消費税率は受け入れなければならない。スウェーデンという社会は、そうやって成立しているのだ。それが理想社会だろうか。必ず不満が出てくるのではないだろうか。

 スイスのような国は嫌だ、スウェーデンみたいに税金を取られるのも我慢ならない、アメリカのような新自由主義社会で踏みつぶされるのはもっと耐えられない。そうなってくると、残るのは中国のような国しかない。少なくとも中国は新自由主義でもないし、党独裁のもとで人民は平等ということになっているが、その実態はおそらく抑圧的な社会であるに過ぎない。

「可能性」にがんじがらめにならないために

 自由は自己を実現するために必ず必要となる道具だ。自由は言葉だけの抽象的な概念ではなく、何らかの具体的な方法である。腕の良い職人であれば、確かな技術を持っていることが、自由に仕事を続けることにつながる。その意味で言えば、自由とは「技術」ということになる。企業の経営トップは自らの考えに従って、自由に経営判断を行うことができる。ここでは自由とはそれが許される「地位」のことである。

 何かを実現するために自由は必要なのであり、自由は手段ということにほかならない。それ以上のものではないが、自己実現のためにはどうしても必要なものだ。だから、何も背負わない状態を自由とは呼べない。そこには達成感がないからである。何も背負うことができない人間は、周囲から見れば、いてもいなくてもよい人間ということだ。それは自由ではない。

 誰かに必要とされる生き方と、好き勝手に生きる生き方というのは、それほどまでに違うものだ。若い人は特に、このあたりでつまずく。年寄りにはない可能性を秘めていることが、自分の価値だと誤解している。どんな人生でも自由に選べるという可能性が自分の価値だと思うから、いつまでも可能性だけを留保したいと願う。

 もちろん若いうちはどんな人生でも選べるだろうが、選んだ後はその人生を歩むしかない。可能性をいつまでも留保するということは、いつまでも選択しないということであり、それは可能性がないということだ。可能性を担保し続けることは、可能性を殺すことなのである。そして可能性とはすべてを選択できることではなく、たったひとつを選択できるということである。結局は若者と老人はどちらもたったひとつの人生しか送ることができない。若者に価値があるわけではなく、若者と老人はまるで同価値の中にいる。

 ひとつの仕事を選べば、当然のようにどんな仕事でも選べるという可能性を放棄することになる。それが怖いからと言って職業を選択しなければ、いつまでたっても職業人にはなれない。逆説的だが、仕事に就かなければ、「仕事を辞める自由」もあらかじめ奪われていることになる。こうなってくると、もはや言葉遊びだ。

 つまり、「可能性」という概念にも絶対の価値がない。「自由」と同じことだ。

 「可能性」は選択して初めて「可能性」となる。「自由」は何かを背負って初めて「自由」となる。それぞれの言葉の持つ逆の行動が、その言葉に初めて価値を与える。きれいな虹は遠くから見るからこそ美しく輝くのであって、近づいて見ようとすると見えなくなる。それと同じで、「可能性」や「自由」を価値のあるものにするためには、それらを追い求めてはいけないのである。

 仕事に就き、結婚もすべきだ。仕事が嫌なら辞めればよい。結婚が耐えられないなら離婚すればよい。そうして再就職しても、再婚してもよい。精神的には大きな痛手となるかもしれないが、それでも何もない人生よりはまっとうな人生である。
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