未唯への手紙
未唯への手紙
家族であるとはどのようなことか
『社会学入門』より 「働くこと」の社会的な位置づけ
家族の多様化
家族のあり方は、時代によって大きく変わってきています。第2節でみたように、夫が会社で働き、妻が専業主婦として家事を行い子どもを育てるといったあり方(「男性稼ぎ手+専業主婦」)は、近代化にともなって生じた、過渡期的な家族形態ですし、日本においては、欧米社会ほどには一般化しなかったものです。現時点からみれぱ、むしろ家族のあり方は多様化してきていると主張されることが多いですし、またそういわれたほうが、みなさんの実感にあうかもしれません。実際に家族のあり方は、夫婦共働きはもちろん、母子もしくは父子世帯、ステップファミリーや、事実婚にもとづく家族、といったふうに、多様なものになっているようにみえます。家族が多様化している、ということ自体が、社会学の研究課題でもありますが、ここでは以下のことに気をつけておきたいと思います。
まず、家族が多様化しているといったとき、それ以前には、それほど多様ではなかった、ということを含意しています。第2節では、産業化がもたらす雇用労働の増加によって「男性稼ぎ手とその家族」が出身家庭から自立し、「核家族」のようなあり方が生じたこと、また、現在は、「男性のみが住居と離れた職場で働く」段階から「男女ともに住居と離れた職場で働く」段階に入っていることが示されていました。こうした変化の意味について考えていくことは、重要な社会学の課題です。同時に、それまで標準的だといわれていた「家族」が、どの程度、実態に即しているのかについても、議論のなされてきたところです。むしろ家族の多様性を主張することは、「標準」だとされる家族形態からみて「逸脱」だとみなされることへの異議申し立てとしての性格や、「逸脱」だとされる家族を包摂していこうとする志向も持っていました。
家族定義問題
他方で、家族が多様化しているというとき、その際に数え上げられるさまざまな「家族」の形態が、同じ「家族」という概念のもとで理解できる、ということを前提としています。つまり、「男性稼ぎ手」型の家族も、夫婦共働きの家族も、シングルマザーの家族も、(そして、場合によっては、事実婚や同性カップルの場合も)そのいずれもが、同じように比較することのできる「家族」である、ということを示しています。私たちは、日常的にも「家族」という言葉を使っていますので、その意味するところは理解できているはずです。けれども、そもそも「家族」という概念が、いったい何を指しているのかということを、学問的に議論し始めると、意外と難しい問題が生じます。つまり、家族に対してなんらかの定義を与えようとすると、どうしてもたくさんの例外が見つかってしまうので、なかなか決定的な定義にいたらない、ということで、「家族定義問題」と呼ばれることもあります。
こうした家族の定義をめぐる問題は、家族社会学のなかでも繰り返し論じられてきましたが、実際に、先にあげた「多様化」が進んでいるとすると、家族を特定の成員構成によって定義することは、いっそう難しくなるでしょう。あるいは、家族をなんらかの特徴によって定義づけるやり方は、どうでしょうか。「同居」のようなわかりやすい特徴づけをあげてみれば、こちらもそんなに簡単ではないことがわかるでしょう。「別居」していても「家族」といえる場合はいくらでもあるでしょう。また、「家族」は、私的領域のなかで「子育て」を担っている、という考え方がありますが、この場合にも、それにあてはまらない家族があるだけでなく、現在、そもそも誰が「子育て」や「介護」といったケアを行うのか、ということ自体が問題になっています。
家族定義問題への対応
こうした定義の難しさに対しては、さまざまな対応方法があり、D.チールはそれらを「特定化」「放棄」「置き換え」「拡張」の四つに分類しています。順にみていくと、それぞれの研究目的にあわせて、「家族」という概念を限定的に使っていく、という考え方があります([特定化])。逆に「家族」という概念を使うことをやめて、「親密な関係」のような新しい概念を使って研究を進めていく、という考え方もあります(「放棄」)。あるいは、新しい「家族」という概念を、多様化にあわせて、新しい現象に使えるように「拡張」してみる、ということもできるでしょう。法律婚によらず同居するカップルや同性のカップルを「家族」という概念のもとでとらえるとき、「家族」という概念の方が拡張されている可能性があります。こうした考え方は、家族の多様化という考え方にもなじみやすいかもしれません。
さらに「家族」という概念に関連していそうな特徴を、たとえば、夫婦間の性的親密性や、(介護や育児のような)ケアの提供、同居による生活の共同のように分解していくこともできるかもしれません。その延長で、たとえば同居による生活の共同は、「家族」ではなくても、現在、高齢者にとってのコレクティブハウス、また、若者にとってのシェアハウスというかたちでなされているので、そうした現象について研究していくこともできます。あるいは、このような考え方を突きつめていくなら、私たちがこれまで「家族」という言葉でとらえてきた現象のある部分は、他のものでも置き換えられることがわかってくるかもしれません。ある種の社会学的研究は、実際に社会を動かしていくための指し手にもなりうるでしょう。
ここでは、これらの対応の方法に加えて、もう一つ別の考え方を紹介したいと思います。それは、研究者の方で「家族」という概念を定義するのではなく、そのかわりに、「家族」という概念を私たちが日常的にどのように使っているか、差し戻して考えるという方針です。この方針は、先にあげた四つの分類のなかでは、「家族の置き換え」のなかに位置づけられています。
記述のための方法としての「家族」
「家族」とは何か、誰が家族なのか、家族は何をしているのか、といった問いは、社会学的な家族研究における基本的な問いだといえます。こうした問いに対して、研究者が定義することによって答えるのではなく、家族にかかわるさまざまな言説に着目し、私たちが日常的に記述を行い、家族にかかわるさまざまな現実を構築していく過程を明らかにしていく(社会構築主義的な)考え方があります。代表的なものに、そのものずばり『家族とは何か』という書物にまとめられた。J.F.グブリアムとJ.λホルスタインによる研究があります。
私たちが「家族」という概念を使って何をしているのか、その用法に着目していくと、この概念が、さまざまな行為を動機づけていることに気づかされます。たとえば、誰が介護をするのか、ということを決定する際に、しばしばどこまでが「家族の責任」なのかが論じられます。そのとき、介護方針を決定していく過程において、「家族」という概念が用いられて問われるわけです。
こうしたことは、私たちの日常を振り返ってみても、ごく当たり前のこととして理解できるでしょう。この本を読むまで、「家族」という言葉を知らなかった、という読者はいないはずで、私たちは、この言葉を当たり前のように使っています。ただし、わざわざこの言葉をつかって、「家族」であることを強調する必要がある場合というのは、ある程度限られてくるでしょう。その一つに、ケアを必要とする人のケアを誰がするのかについて考えるとき、その重要な候補の一つを指し示すものとして、「家族」という言葉が用いられるわけです。
もちろん、私たちが「家族」という言葉を用いる際にあてにしている結びっきもまた、先に紹介したような「家族定義問題」のなかで定式化しようとした特徴づけと無縁なわけではありません。逆に、そこで論じられていた「家族」にかかわる結びっきは、私たちが実際に社会生活を成り立たせるための資源として用いることができるものでもあるのです。私たちは、「家族」にかかわるさまざまなリソースを用いて、私たちの社会生活を成り立たせています。
家族に期待される規範
たとえば、『家族とは何か』のなかには、そもそも「誰が家族なのか」という問いが際立ってみえる事例があります。そこでは、私たちの日常の概念としての「家族」の用法が、より制度的な思考と結びついて用いられています。どういうことかというと、ある患者の入退院をめぐる判断をする際に、そこで医療や司法の専門家が、誰がその患者の家族なのかについて考えなければならない、といったかたちの特徴的な事例になっているのです。一方では、精神科医が、自分の患者を治療プログラムどおり退院させたいと考えています。他方、判事は、この患者に対して行為能力がないのではという判断のもと、措置入院させたほうがよいと考えています。ここで、入退院の判断をめぐって、この患者の家族が探されることになります。
精神科医は、患者は自分の家族と一緒に暮らしている、といっています。昨年離婚したが、ガールフレンドと子どもと彼女のおばと同居しているのだ、と。それに対して、判事は、誰が彼をコントロールしておくのかを問い、責任をとりうる人物を求め、「ほとんど家族があるようにはみえません」と結論づけています。つまり、医師にとっては、治療プログラムを支援してくれる人が「家族」であり、判事にとっては、彼を監督してくれる人が「家族」なのです。ここでは、誰が家族なのかが、確かに問われています。治療的関心のもとでは、「家族」とみなされた同じ人が、「身柄引き受け人」を求める司法の目のもとでは、「家族」とはみなされない、という相反することが生じているわけです。「家族」であるかどうかを判断しているのに対し、判事は、「身柄を引き受ける」ことができるかどうか、という基準で、「家族」であるかどうかを判断しているのです。
こうした結びつきには、さまざまなものがあります。「親は子どもを育てるべきだ」「長男は親と同居するべきだ」などなど。こうした結びっきを、家族に期待される規範と呼んでおきましょう。もちろん、私たちは、こうした規範に自動的にしたがうものではありません。つまり、「親と同居することをのぞまない長男」はいくらでもいるでしょうし、また、「育児を積極的には担当しない親」もいるでしょう。ただし、他方で、こうした例外事例が、ただちに規範を覆してしまうようなものでもありません。第急節の恋愛関係や結婚の排他性の規範においても示したようにかりに浮気や不倫が増えているとしても、ある程度規範を尊重するからこそ、それを隠しながらこそこそするのでしょう。同様に、もしも強い理由もなく育児を放棄する親がいたら、家族規範に照らして非難される可能性があります。もしも仕事との兼ね合いで、育児になかなか時間がさけないのでしたら、家族規範とどのように両立するか調整がなされるかもしれません。実際に、これから詳しくみていくように、家族による子育てを社会が支援しようと試みる現場においては、こうした調整の実践をしばしばみることができます。
家族の多様化
家族のあり方は、時代によって大きく変わってきています。第2節でみたように、夫が会社で働き、妻が専業主婦として家事を行い子どもを育てるといったあり方(「男性稼ぎ手+専業主婦」)は、近代化にともなって生じた、過渡期的な家族形態ですし、日本においては、欧米社会ほどには一般化しなかったものです。現時点からみれぱ、むしろ家族のあり方は多様化してきていると主張されることが多いですし、またそういわれたほうが、みなさんの実感にあうかもしれません。実際に家族のあり方は、夫婦共働きはもちろん、母子もしくは父子世帯、ステップファミリーや、事実婚にもとづく家族、といったふうに、多様なものになっているようにみえます。家族が多様化している、ということ自体が、社会学の研究課題でもありますが、ここでは以下のことに気をつけておきたいと思います。
まず、家族が多様化しているといったとき、それ以前には、それほど多様ではなかった、ということを含意しています。第2節では、産業化がもたらす雇用労働の増加によって「男性稼ぎ手とその家族」が出身家庭から自立し、「核家族」のようなあり方が生じたこと、また、現在は、「男性のみが住居と離れた職場で働く」段階から「男女ともに住居と離れた職場で働く」段階に入っていることが示されていました。こうした変化の意味について考えていくことは、重要な社会学の課題です。同時に、それまで標準的だといわれていた「家族」が、どの程度、実態に即しているのかについても、議論のなされてきたところです。むしろ家族の多様性を主張することは、「標準」だとされる家族形態からみて「逸脱」だとみなされることへの異議申し立てとしての性格や、「逸脱」だとされる家族を包摂していこうとする志向も持っていました。
家族定義問題
他方で、家族が多様化しているというとき、その際に数え上げられるさまざまな「家族」の形態が、同じ「家族」という概念のもとで理解できる、ということを前提としています。つまり、「男性稼ぎ手」型の家族も、夫婦共働きの家族も、シングルマザーの家族も、(そして、場合によっては、事実婚や同性カップルの場合も)そのいずれもが、同じように比較することのできる「家族」である、ということを示しています。私たちは、日常的にも「家族」という言葉を使っていますので、その意味するところは理解できているはずです。けれども、そもそも「家族」という概念が、いったい何を指しているのかということを、学問的に議論し始めると、意外と難しい問題が生じます。つまり、家族に対してなんらかの定義を与えようとすると、どうしてもたくさんの例外が見つかってしまうので、なかなか決定的な定義にいたらない、ということで、「家族定義問題」と呼ばれることもあります。
こうした家族の定義をめぐる問題は、家族社会学のなかでも繰り返し論じられてきましたが、実際に、先にあげた「多様化」が進んでいるとすると、家族を特定の成員構成によって定義することは、いっそう難しくなるでしょう。あるいは、家族をなんらかの特徴によって定義づけるやり方は、どうでしょうか。「同居」のようなわかりやすい特徴づけをあげてみれば、こちらもそんなに簡単ではないことがわかるでしょう。「別居」していても「家族」といえる場合はいくらでもあるでしょう。また、「家族」は、私的領域のなかで「子育て」を担っている、という考え方がありますが、この場合にも、それにあてはまらない家族があるだけでなく、現在、そもそも誰が「子育て」や「介護」といったケアを行うのか、ということ自体が問題になっています。
家族定義問題への対応
こうした定義の難しさに対しては、さまざまな対応方法があり、D.チールはそれらを「特定化」「放棄」「置き換え」「拡張」の四つに分類しています。順にみていくと、それぞれの研究目的にあわせて、「家族」という概念を限定的に使っていく、という考え方があります([特定化])。逆に「家族」という概念を使うことをやめて、「親密な関係」のような新しい概念を使って研究を進めていく、という考え方もあります(「放棄」)。あるいは、新しい「家族」という概念を、多様化にあわせて、新しい現象に使えるように「拡張」してみる、ということもできるでしょう。法律婚によらず同居するカップルや同性のカップルを「家族」という概念のもとでとらえるとき、「家族」という概念の方が拡張されている可能性があります。こうした考え方は、家族の多様化という考え方にもなじみやすいかもしれません。
さらに「家族」という概念に関連していそうな特徴を、たとえば、夫婦間の性的親密性や、(介護や育児のような)ケアの提供、同居による生活の共同のように分解していくこともできるかもしれません。その延長で、たとえば同居による生活の共同は、「家族」ではなくても、現在、高齢者にとってのコレクティブハウス、また、若者にとってのシェアハウスというかたちでなされているので、そうした現象について研究していくこともできます。あるいは、このような考え方を突きつめていくなら、私たちがこれまで「家族」という言葉でとらえてきた現象のある部分は、他のものでも置き換えられることがわかってくるかもしれません。ある種の社会学的研究は、実際に社会を動かしていくための指し手にもなりうるでしょう。
ここでは、これらの対応の方法に加えて、もう一つ別の考え方を紹介したいと思います。それは、研究者の方で「家族」という概念を定義するのではなく、そのかわりに、「家族」という概念を私たちが日常的にどのように使っているか、差し戻して考えるという方針です。この方針は、先にあげた四つの分類のなかでは、「家族の置き換え」のなかに位置づけられています。
記述のための方法としての「家族」
「家族」とは何か、誰が家族なのか、家族は何をしているのか、といった問いは、社会学的な家族研究における基本的な問いだといえます。こうした問いに対して、研究者が定義することによって答えるのではなく、家族にかかわるさまざまな言説に着目し、私たちが日常的に記述を行い、家族にかかわるさまざまな現実を構築していく過程を明らかにしていく(社会構築主義的な)考え方があります。代表的なものに、そのものずばり『家族とは何か』という書物にまとめられた。J.F.グブリアムとJ.λホルスタインによる研究があります。
私たちが「家族」という概念を使って何をしているのか、その用法に着目していくと、この概念が、さまざまな行為を動機づけていることに気づかされます。たとえば、誰が介護をするのか、ということを決定する際に、しばしばどこまでが「家族の責任」なのかが論じられます。そのとき、介護方針を決定していく過程において、「家族」という概念が用いられて問われるわけです。
こうしたことは、私たちの日常を振り返ってみても、ごく当たり前のこととして理解できるでしょう。この本を読むまで、「家族」という言葉を知らなかった、という読者はいないはずで、私たちは、この言葉を当たり前のように使っています。ただし、わざわざこの言葉をつかって、「家族」であることを強調する必要がある場合というのは、ある程度限られてくるでしょう。その一つに、ケアを必要とする人のケアを誰がするのかについて考えるとき、その重要な候補の一つを指し示すものとして、「家族」という言葉が用いられるわけです。
もちろん、私たちが「家族」という言葉を用いる際にあてにしている結びっきもまた、先に紹介したような「家族定義問題」のなかで定式化しようとした特徴づけと無縁なわけではありません。逆に、そこで論じられていた「家族」にかかわる結びっきは、私たちが実際に社会生活を成り立たせるための資源として用いることができるものでもあるのです。私たちは、「家族」にかかわるさまざまなリソースを用いて、私たちの社会生活を成り立たせています。
家族に期待される規範
たとえば、『家族とは何か』のなかには、そもそも「誰が家族なのか」という問いが際立ってみえる事例があります。そこでは、私たちの日常の概念としての「家族」の用法が、より制度的な思考と結びついて用いられています。どういうことかというと、ある患者の入退院をめぐる判断をする際に、そこで医療や司法の専門家が、誰がその患者の家族なのかについて考えなければならない、といったかたちの特徴的な事例になっているのです。一方では、精神科医が、自分の患者を治療プログラムどおり退院させたいと考えています。他方、判事は、この患者に対して行為能力がないのではという判断のもと、措置入院させたほうがよいと考えています。ここで、入退院の判断をめぐって、この患者の家族が探されることになります。
精神科医は、患者は自分の家族と一緒に暮らしている、といっています。昨年離婚したが、ガールフレンドと子どもと彼女のおばと同居しているのだ、と。それに対して、判事は、誰が彼をコントロールしておくのかを問い、責任をとりうる人物を求め、「ほとんど家族があるようにはみえません」と結論づけています。つまり、医師にとっては、治療プログラムを支援してくれる人が「家族」であり、判事にとっては、彼を監督してくれる人が「家族」なのです。ここでは、誰が家族なのかが、確かに問われています。治療的関心のもとでは、「家族」とみなされた同じ人が、「身柄引き受け人」を求める司法の目のもとでは、「家族」とはみなされない、という相反することが生じているわけです。「家族」であるかどうかを判断しているのに対し、判事は、「身柄を引き受ける」ことができるかどうか、という基準で、「家族」であるかどうかを判断しているのです。
こうした結びつきには、さまざまなものがあります。「親は子どもを育てるべきだ」「長男は親と同居するべきだ」などなど。こうした結びっきを、家族に期待される規範と呼んでおきましょう。もちろん、私たちは、こうした規範に自動的にしたがうものではありません。つまり、「親と同居することをのぞまない長男」はいくらでもいるでしょうし、また、「育児を積極的には担当しない親」もいるでしょう。ただし、他方で、こうした例外事例が、ただちに規範を覆してしまうようなものでもありません。第急節の恋愛関係や結婚の排他性の規範においても示したようにかりに浮気や不倫が増えているとしても、ある程度規範を尊重するからこそ、それを隠しながらこそこそするのでしょう。同様に、もしも強い理由もなく育児を放棄する親がいたら、家族規範に照らして非難される可能性があります。もしも仕事との兼ね合いで、育児になかなか時間がさけないのでしたら、家族規範とどのように両立するか調整がなされるかもしれません。実際に、これから詳しくみていくように、家族による子育てを社会が支援しようと試みる現場においては、こうした調整の実践をしばしばみることができます。
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