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超高齢化時代の死生観と「深層の時間」

『人口減少社会のデザイン』より
死亡急増時代と死亡場所の多様化
 これからの時代は、人口減少社会であると同時に超高齢化の時代でもあり、それは自ずと〝死亡急増時代〟、つまり年間の死亡者数が高度成長期などに比べてはるかに多い時代ということを意味する。
 図表はそうした年間死亡者数の推移を今後の推計を含めて示したものである。高度成長期の1950年代から70年代頃までは死亡者数はおよそ70万人程度だったが、80年代頃から増加基調となり、2000年を過ぎた頃には100万人を超え、現在はさらに急増中で、高齢化率がピークを迎える2040年頃には170万人弱まで増加することが予想されている(国立社会保障・人口問題研究所推計)。文字通り私たちは〝死亡急増時代〟を生きているのだ。
 時代状況との関連を述べると、戦後の日本社会は、人口増加ということと並行して、経済の成長あるいは物質的な富の拡大ということをもっぱら目標にして走ってきた。個人の人生にたとえると、社会全体が文字通り「若く」、〝上昇、進歩、成長〟という方向にひたすら坂道を登っていった。それは「生」を限りなく拡大していくということでもあり、その先にある老いや死といったことにはあまり関心を払わず、視野の外に置いてきた。
 ところが人口減少社会となり、物質的な富が飽和する中で経済も成熟化の時代を迎えつつあり、本書の中でも様々な角度から述べてきたように、日本社会全体が〝離陸〟から〝着陸〟の方向を模索しつつある。そして上記のように高齢化に伴って年間死亡者数も増加し、ということはすなわち「看取り」ということが社会の中で日常的な現象となっていく中で、死生観の再構築ということが、日本人全体にとっての大きな課題となっているのである。
 死生観という話題に入る前に若干〝外形的〟な事実を確認すると、図表は戦後日本における死亡場所の推移を示したものである(人口動態統計)。高度成長の入り口にあった1960年頃では、病院で亡くなるのは2割未満で、大半は自宅で亡くなっていた。しかし高度成長期ないし人口増加の時代に状況は一変し、自宅死と病院死の割合は逆転して、病院死が8割を占めるようになった。
 以上のことは、看取りあるいはターミナル(終末期)ケアに関する文脈ではしばしば言及されてきた事実関係だが、1990年代後半にそうした関連の調査研究をしていた際、私自身は、そうしたトレンド(病死の割合の増加)はやがて成熟化し、今後はむしろ逆の動き、つまり自宅あるいは老人ホームなど病院以外の場所での死が増えていくことになるのではないかと考えていた。実際、1997年に出した『ケアを問いなおす』という本の中で、「死に場所の選択の拡大と多様化」ということを論じたのである。
 そして、ある意味で予想通りというべきか、図表6-2にも示されているように病院死の割合は2006年に初めて減少に転じ(79・8%↓79・7%)、その後も徐々に減少を続け(2017年には73・〇%)、一方、老人ホームの割合が徐々に増加するという状況になっている(2005年の2・1%から2017年には7・5%まで増加)。
 思えば、日本の総人口が初めて減少に転じたのも同時期であり(2005年)、したがって人口増加あるいは経済の高度成長という時代の流れと、病院での死が増えることには一定の連関があったと言えるかもしれない。逆に、亡くなる場所が病院に限らず多様化していくというのは、先進諸国あるいは成熟社会において一般的に見られる現象であり、やや古いデータだが、図表6-3に示されるように、イギリスやデンマークでは病院死の割合は5割前後であり、自宅や老人ホームで亡くなる割合が日本よりかなり大きい状況にある。
ライフサイクルのイメージと時間
 この場合、どのような死生観をもつかはもちろん一人ひとりにかかっているが、死生観というものは「時間」ということと深く関連していると私は考えている。
 話の手がかりとして、「人生」あるいはライフサイクルのイメージというものを考えてみよう。人生、つまり人が生まれ、成長し、老い、死んでいくという全体的な過程について人々がもつイメージには、さしあたり大きく二つのタイプがあるように思われる。ひとつは「直線としての人生イメージ」であり、もうひとつは「円環としての人生イメージ」だ。
 前者の場合、人生とは基本的に〝上昇、進歩する線〟のようなものであり、そのこと自体はプラスの意味をもつが、こうした人生イメージの場合、「老い」はどうしてもネガティブな性格のものとなり、さらに死はその果ての「無」への落下という意味合いが強くなる。おそらく高度成長時代を駆け抜けてきた戦後の日本人にとっての人生イメージは、大方こちらに近かったと言えるのではなかろうか。他方、後者(円環としての人生イメージ)のほうでは、人生とは、生まれた場所からいわば大きく弧を描いてもとの場所に戻っていくようなプロセスとして考えられる。この見方では、「生」と「死」とは同じ場所に位置することになる。
 私にとって、そもそもこうした円環的な人生イメージを具体的に感じるきっかけを与えてくれたのは、『バウンティフルヘの旅』という1985年のアメリカ映画だった。「バウンティフル」はアメリカ南部の地名で、主演女優のジェラルディン・ペイジはこの作品により同年のアカデミー主演女優賞を受賞している。
 内容を簡単に紹介すると、ペイジ演ずる主人公の老女は、夫には大分以前に先立たれ今は息子夫婦とともに町に暮らしている。自分の死がそう遠くないであろうことを意識し始めている彼女は、死ぬ前に一度だけ、生まれ育った場所であるバウンティフルを訪れたいと思うようになる。バウンティフルは遠く離れた田舎の場所であり、今ではほとんどただの草原のようになっているところだ。彼女は周到に計画を立てた上で、ある日こっそり家を抜け出し、長距離バスを乗り継いでバウンティフルまでの旅を「決行」することになる。
 ここから先はむしろ映画をど覧いただければと思うが、このように「自分が生まれ育った場所を、死ぬ前にもう一度見とどけたい」という思いは、人間の心の深い部分に根ざした普遍的な願いのように思われる。そして、このことを先の「円環としての人生イメージ」と結びつけて考えると、彼女にとってバウンティフルは、「生まれた場所」であると同時に、いわば「たましいの還っていく場所」ともいうべき存在としてあったのではないだろうか。
 私自身は、死生観においてもっとも重要なことは、その人にとってのこうした「たましいの還っていく場所」とでも呼べるものを見出すことではないかと考えている。
 これはとりたてて難しいことを言おうとしているのではない。私事にわたり恐縮だが、10年ほど前に亡くなった私の父は、実家が田舎の農家だったこともあってか、老後は郊外の小さな農園で野菜を育てることを最大の生きがいにしていた。そしてその場所を「還自園」、つまり自然に還っていく園と名付けていたのだが、それは父親にとって、農園で過ごす時間が〝自然に還る〟時間であるという意味にとどまらず、人生を終えた後にそこに還っていくという意味をもっていたと思う。
 もう一つ例を挙げると、社会保障論という大教室の講義でターミナルケアのテーマを取り上げた際に学生に書いてもらった小レポートで、岩手県出身のある女子の学生(当時2年生)は「ターミナルケアにおける『地元』の重要性」と題して次のような文章を記していた。
 ターミナルケアと死生観について、私は「若者」のうちに「どう死ぬか」ということを考えておく必要がある、また「地元」と呼べる場所を生産年齢のうちに失わない、あるいは作っておくことが重要だと考える。……もし、生産年齢の間、それまで住み慣れた地域を離れ、全く地縁のないところで人生の大部分を過ごしたとしても、「地元」と呼べる場所を失わない限り、そこが各人にとっての還っていく場所であり、心が休まる場所であり、還っていくコミュニティとなりうるのではないだろうか。……人によって変わる可能性があるが、日本人が望む「安らかな死」というものには、このような還るべき場所(自分が居てもいいと周りに認められている場所)にいるのだという安心感が必要となってくるのではないかと考える。
 ターミナルケアをめぐるテーマが、「地元」ということと結びつけられて語られているのが印象的で、それは単なる空間的な意味を超えた、「たましいの還っていく場所」という性格をもっているように思われる。
深層の時間--生と死のふれあう場所
 「直線としての人生イメージ」「円環としての人生イメージ」という話題から始め、特に後者との関連で「たましいの還っていく場所」ということについて述べた。この延長で、さらに「時間」という話題について考えてみたい。
 私たちは日々の生活の中で、いわば「日常の時間」というべき時間を生きている。それは通常、「カレンダー」的な時間であり、過去から未来へとつらなる「直線」としての時間である。
 しかしそうした「直線的な時間」というものは、決して絶対唯一のものではなく、そうした時間のいわば根底に、それとは異なる時間の層があるとは考えられないだろうか。
 たとえて言うと次のようなことである。海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりとしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが「時間」についても言えるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間、瞬間に過ぎ去り、変化していく直線的な時間の底に、もう少し深い時間の層というべきものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって支えられているのではないか。
 私は、そうした時間の層を「深層の時間」と呼んでみたい。このように述べるといささか観念的なことを主張しているように響くかもしれないが、必ずしもそうではない。たとえばニュートン力学においては直線としての「絶対時間」は自明の存在として考えられたが、アインシュタインの相対論に至ると、そうした時間(や絶対空間)は客観的な実在ではなく、人間が世界を理解するにあたっての便宜的な座標に過ぎないとされた。また生物学系の議論では、人間が認識しているのはあくまで「人間の時間」であって、それは時間の一つに過ぎず、様々な生き物はそれぞれにおいて異なる固有の「時間」の中を生きているという見方がされるようになっている。このように「直線的な時間」は決して唯一絶対のものではないのである。
 そして、先ほどから述べている「直線」と「円環」との対比については、これらは並列する関係にあるというよりは、いわば時間の異なる層を示しており、もっとも表層にあるのが「直線的な時間」で、その底には回帰する円環としての時間があり、さらにその底に、もっとも根底的な「深層の時間」が存在すると考えてみてはどうだろうか。
 そうした「深層の時間」は、先ほど海の水の流れにたとえたように、もっとも底にある不動の部分であり、刻々と変化していく事象の中にあって〝不変のもの〟ともいえる。そのように見ていくと、そうした深層の時間は最終的には「死」とつながるものであり、言い換えれば「生と死がふれあう場所」と呼べるような性格をもっているのではないか。
 私たちは「生と死」というものを全く接点のない対立物と考えがちであるが、生と死はむしろ連続的なものであり、私たちの生は、深層の時間において死とつながっているのではないだろうか。
 以上は「時間」ということを手がかりとした死生観に関する一つの考え方に過ぎないが、いずれにしても、それぞれの仕方で死生観の再構築を行っていくことが、現在の日本においてもっとも根本にある課題であると思えるのである。

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