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コミュニティとは何だろうか

『人口減少社会のデザイン』より コミュニティとは何だろうか
コミュニティという〝あいまい〟な存在
 コミュニティとは、ある意味で非常にごのいまyな存在と言えるだろう。それは次のような意味においてである。
 やや理念的な話となるが、近代という時代の枠組みでは、社会ないし世界は、独立した「個人」(あるいは「個体」)から成り立つものと考えられ、経済的な文脈では、個人は市場において互いに自由に競争し、利潤の最大化を図ることが想定されている。そして、そこで生じうる格差の拡大とか、環境破壊といった問題については、「政府」という公的部門をつくって、それがそれらの問題の是正や調整を行うものとされる。
 これが近代的な人間観ないし社会観の基本にある思考枠組みであり、それはいわば「個人」と「社会」、あるいは〝私〟(プライベート)と〝公〟(パブリック)、ないし「市場」と「政府」の二元論であって、そこには「コミュニティ」という概念や要素は登場しない。つまり〝コミュニティという存在を前提とせずとも人間の社会は成り立つし(むしろそのほうが望ましく)、また人間や社会の理解は可能である〟というのが近代的なパラダイムだった。
 ところが、近年に至り、様々な背景から、そうした「個人-社会」、「私-公」、「市場-政府」といった二元論的枠組みでは、現在生じている種々の問題の解決はどこか根本的に不可能なのではないか、あるいはそもそも人間という存在の理解が十分にできないのではないかという疑問が提出されるようになり、そこで浮上してきたのが、他ならぬ「コミュニティ」という存在--〝公--私〟に関して言えば〝共〟という第三の領域ないし関係性--であるととらえることができる。
 思えばコミュニティという存在は、近代以前の伝統的社会--たとえば農村共同体--においては中的な意味を担っていたので、以上のような近年の方向は、ある意味で「新しいコミュニティ」を再構築するような動きであるとも言えるだろう
 実際、様々な学問分野において、〝文・理〟の枠を超えて、そうしたコミュニティや人間の関係性、あるいは「〝個体〟を超えた人間理解」に関する新たな把握やコンセプト等が百花椋乱のように湧き起っているように見える。この話題は次章において立ち返りたいが、いずれにしてもこうした近年の様々な領域での展開の軸にあるのが、「コミュニティという〝あいまい〝な存在」をめぐる問題群なのである。
情報とコミュニティの進化
 以上は主として人間にそくした議論だが、人間以外の生物も含めて「コミュニティ」ということを考えるとどうだろうか。ここで浮上してくるのが「情報」というコンセプトである。
 手がかりとして、かつてカール・セーガンが著書『エデンの恐竜』の中で展開した次のような視点が参考になる。
 すなわち、情報は大きく「遺伝情報」と「脳情報」に区分することができる。前者はいわゆるDNAに組み込まれた情報であり、これは他でもなく遺伝子(という情報メディア)を通じて親から子へとバトンタッチされていく。
 しかしながら生物が複雑になっていくと、この遺伝情報だけでは〝不十分〟になってくる。つまり、必要な情報の容量ないし容器がDNAでは間に合わなくなるのだ。
 そこで遺伝情報に加えて、生物は「脳」という情報の貯蔵メディアを作り出し、「脳情報」を通じて様々な情報の蓄積や伝達を行うようにした。この場合、脳情報の伝達は、生物の個体間の種々のコミュニケーションによって行われる。そしてこうした中で形成されるのが、様々なかたちの「コミュニティ」に他ならない。
 このように「情報」と「コミュニティ」とは不可分の概念である。そして、こうした脳情報&コミュニティは生物進化の中で次第にその比重が大きくなり、哺乳類において大きく拡大することになるが、言うまでもなくそれが最高度に展開したのが人間という生き物であった。
 セーガンの議論のおもしろい点は、このようにして脳情報を大きく進化させた人間であるが、しかし歴史の展開の中で、脳すら〝容量不足〟となり、やがて人間はさらに新たな情報の媒体を作っていったという把握である。
 すなわちそれは、「文字情報」とその蓄積手段としての書物、ひいてはそれを保存する図書館などであり、これはいわば脳にとっての〝外部メモリー〟のようなものと言えるだろう。そして、やがてこれでも不十分となり、コンピューターが現れ、デジタル情報の蓄積や伝達が展開していったのが20世紀後半ということになる。
 まとめると、「遺伝情報↓脳情報(↓文字情報)↓デジタル情報」という形で、情報とコミュニケーションの何重かの。外部化〟を行ってきたのが人間ということになる。いわゆる「ネット(ないしデジタル)コミュニティ」が人間にとってどういう意味をもつかは、こうした大きな視野においてとらえられる必要があるだろう。
 では「デジタル情報」やそのコミュニティの先はどう展望されるのか。思えば近年しばしば話題になる、アメリカの未来学者カーツワイルのいわゆる「シンギュラリティ」論は、このデジタル情報に遺伝情報も脳情報もすべて取り込んでいくというビジョンと言えるだろう。彼の著書の副題が「人間が生物学を超えるとき」となっているのはそうした世界観を象徴している。
 しかし、そのようなビジョンは人間や生命、世界を大幅に矮小化してとらえているのではないか。そうしたいわば「スーパー情報化」ないし「スーパー資本主義」と呼びうる方向ではなく、むしろ身体性や口ーカルな場所性、あるいは情報に還元されない生命そのものへの〝着陸〟という方向が、人間の理解や幸福にとって、あるいは有限な地球の持続可能性にとって望ましい道ではないかと私は考えており、それは後ほど述べる「ローカライゼーション」や「ポスト情報化」というテーマとつながる。

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