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未唯への手紙

未唯への手紙

プラトンが理想とする国家は私有財産が許されない

2018年03月10日 | 2.数学
『若い読者のための経済学史』より 空を舞う白鳥

人類がつねにそうであるように、原始の人類も、稀少性という経済学の問題に直面した。すなわち、充分な食料を探さなければならなかった。だが、農地や作業所、工場といった意味の「経済」はまだうまれていない。原始人は森に住み、木の実を集め、動物を狩って生き延びた。人々が〝経済学上の問題〟を考えはじめるのは、古代ギリシャやローマなどで、より複雑な経済が現れてからである。

最初の経済思想家は、経済学を含む西洋思想の伝統をつくりだしたギリシャの哲学者たちだ。彼らの思想が花開いたのは、最初の文明が誕生してから数千年後のことだった。しかし、そのはるか前から、人間は必要に応じて自然をつくりかえる知恵を獲得し、経済活動の〝種〟を蒔いていた。たとえば、火をおこし、土から壷を、植物や動物で食事を、というように、手に入れたものから新しいものをつくった。その後、いまから1万年以上前に、最初の経済革命が起こった。作物を植え、動物を飼育することを学んだ人間が集まって農業をはじめたのだ。その土地で生き延びていける人が増えると、村がうまれた。

このようにして、複雑な経済システムをもつ文明が、メソポタミアの地に誕生した。現在のイラクのあたりである。「複雑」というのには重要な意味がある。それは、人々は自分が食べるものを必ずしも自分自身でつくる必要はない、ということである。こんにち、わたしたちの多くは食べるものを自分で育てるのではなく、育てた人から買っている。メソポタミアには、大麦を収穫したり、ヤギの乳を搾ったりといったことをしない〝新しい種類の人々〟がいた。都市を治める〝王〟や、寺院を管理する〝神官〟である。

経済の複雑性が可能になったのは、作物の栽培や家畜の飼育の技術が進歩し、生産者が自分の生存に必要なものより多くを生産できるようになったからである。あまったものは、王や神官の腹に収まった。食物を生産者から〝食べる人〟へとまわすには、組織が必要となる。こんにちでは金銭による売買が行われるが、古代社会には古い伝統があり、作物は〝捧げもの〟として寺院に運ばれた。それが神官たちに分け与えられたのだ。食糧をいかに分配するかを管理するために、文字が考案された。現存する古代文明の文字の、もっとも古いもののひとつに、農民からの作物の〝奉納リスト〟がある。文字を使うようになった役人たちは、収穫高の一部(つまり「税金」)を徴収することができるようになり、それを使って農業用の水路を掘ったり、王の栄光をたたえる墓を建てたりした。

紀元前数百年頃にはメソポタミア、エジプト、インド、中国に数千年に及ぶ文明がすでに存在していたが、ギリシャにもまた新たな文明の萌芽がみられた。古代ギリシャ人は、社会で暮らす人間について、より深く考えはじめた。古代ギリシャの詩人ヘシオドスは、経済学の〝出発点〟を次のように述べている。「神々は、人間の命の糧をお隠しになられた」。パンは空から降ってはこない。人間は、食べるために小麦を栽培し、刈り取り、すりつぶして粉にしてパンを焼く。生きるためには働かなければならないのだ。

すべての思想家の〝始祖〟は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスである。ソクラテスが著述を行わなかったため、わたしたちが知っている彼の言葉は、弟子の書物を通して伝えられたものだ。ある夜、ソクラテスは一羽の白鳥が大きく鳴きながら、羽を広げて飛んでいく夢を見たという。翌日、プラトンに会ったソクラテスは、プラトンが自分のもっともすぐれた弟子になることを〝予見〟した。夢で見た白鳥がプラトンだったのだ。プラトンは人間性を説く師となり、彼の思想はその後、何千年も、高く広く空を舞うことになった。

プラトン(紀元前428[427とも]~前348[347とも])は、理想の社会を思い描いた。その経済は、いまわたしたちが知っている経済とは異なるものだっただろう。また、当時の社会は現代とは違う。たとえば、国家はわたしたちが理解しているようなものではなく、古代ギリシャはアテネやスパルタやテーベなどの都市国家の集合体だ。都市国家は「ポリス」と呼ばれ、「ポリティクス(政治)」の語源となった。プランの理想社会は、巨大国家というよりも、統治者のもとに組織化された〝小さな都市〟だ。食糧や労働を金銭で売買する市場の余地はほとんどない。労働についていえば、こんにち、わたしたちは自分の労働力をどのように使うかを自由に選択できると考える。たとえば、修理をするのが好きで、賃金が充分に高ければ、配管工になろうと決めるかもしれない。だが、プラトンの理想国家では、すべての人にうまれながらの〝ふさわしい場所〟が決められている。奴隷も含めて、ほとんどの人が農民だ。プラトンによれば、彼ら農民は最下層の階級に属し、〝青銅の魂〟をもつ。その上は〝白銀の魂〟をもった兵士だ。最上位は統治者である「哲人王」で〝黄金の魂〟の持ち主とされる。プラトンは社会を統治するのに〝ふさわしい賢人〟を育てるため、アテネの近くに〝アカデメイア〟と呼ばれる学園を開設した。

プラトンは富の追求に不信感をもち、黄金や宮殿が人を堕落させると考えた。そのため、プラトンが理想とする国家では、兵士や王には私有財産が許されない。そのかわり、人々は一緒に暮らし、すべてを共有する。子供たちさえも、親のもとではなく、共同で育てる。プラトンは、富の重要性が過度に高まると、人々が富を求めて競いはじめると考えた。その結果、国家は金持ちが支配することになる。彼らは貧しい人々にねたまれる。行きつく先は、喧嘩や争いだ。

アリストテレス(紀元前384~前322)は、プラトンのアカデメイアで学んだ。アリストテレスは、いねば次なる〝空駆ける白鳥〟であり、知識を科学や数学、政治学などのいくつかの分野に体系づけようとした最初の人でもあった。彼の興味の対象は、難解な論理から魚のえらの構造まで幅広い。「耳が大きな人間は、噂ばなしが好きだ」というような、わたしたちには奇妙に思える言葉も残している。だが、これも、アリストテレスと同じ視点に立って世界全体をとらえようとしている人にとっては、それほど驚くことではない。アリストテレスは何世紀にもわたり、ギリシャ哲学を代表する最高の権威とされた。そして「ザ・フィロソフィア」として知られるまでになったのだ。

アリストテレスは、プラトンの社会構想を批判している。プラトンのような理想の社会を思い描くのではなく、なにが人を不完全にするのかを追求した。また、プラトンが提案する私有財産の禁止は、非現実的だと考えた。人がなにかを所有すれば、互いのもっているものをうらやましがり、それをめぐって争うようになるのは確かだ。だが、すべてを共有すれば、争いはさらに増える。財産の私有が認められれば、人はもっているものを大事にし、だれが共有の財産にもっとも貢献しているかをめぐって争うことも減るはずだ。

もし人が自分の所有する種と道具を用いて富を築くのだとしたら、自分で靴をつくらない人はどのように新しい靴を手に入れたらいいのだろうか。そういうときは、自分が育てたオリーブの実と交換して、靴職人から手に入れればよいのだ。ここでアリストテレスは、経済の宇宙の〝基本粒子〟であるモノとモノの交換に光を当てる。貨幣がこれを助ける、とアリストテレスは言う。貨幣がなければ、必要な靴と交換するためのオリーブを運ばなくてはならないし、オリーブを必要とする靴職人に出会う幸運に恵まれなければならない。もっと容易に靴を手に入れるために、なにか(たいていは銀か金)を貨幣とすることに、人々は同意することになる。そうして役に立つものを売り買い(っまり交易)する。貨幣は、経済的価値(あるモノにどれくらいの価値があるか)を計る〝ものさし〟となり、価値を人から人へ移動させる。貨幣があればこそ、いますぐオリーブと靴を交換してくれる人を探さなくてもいい。オリーブを売って硬貨を手に入れれば、翌日、その硬貨で靴を買うことができる。硬貨は、貨幣として標準化された小さな金属の塊である。最初の硬貨は、紀元前6世紀に現在のトルコの一部であるリディア王国で、銀と金の天然混合物である琥珀金からつくられたが、実際には古代ギリシャで使われはじめた。古代オリンピックのチャンピオンも栄誉をたたえられ、ひとり500ドラクマを受け取っている。紀元前5世紀には銀貨の鋳造所が100近く存在した。そうした銀貨の流れが交易の歯車をまわし続けたのだ。

アリストテレスは、硬貨によってモノの交換が行われるようになったために、そのモノがなにかに使われること(オリーブを食べること)と、なにかと交換されること(オリーブと硬貨を交換すること)のあいだに違いがあることに気づいた。一家がオリーブを育てて食べるのも、必要なものと交換する硬貨を手に入れるためにオリーブを売るのも、ごく自然なことだ、とアリストテレスは言う。オリーブを売って硬貨を手に入れられることがわかれば、ただ利益を得るためにオリーブの栽培をはじめるかもしれない(利益とは、オリーブの売り値と、栽培にかかった費用の差だ)。これが商業、つまり、利益を得るための売買である。アリストテレスはこれに疑問を抱き、一家が必要とする以上のものを手に入れる取引は「不自然である」と考えた。利益のためにオリーブを売れば、他人を犠牲にすることになる。本書でのちほどわかるように、近代経済学者にはこれがなかなか理解できない。というのは、売り手と買い手がモノの取引で競いあえば、社会が利益を得るからだ。だが、アリストテレスの時代には、こんにちとは異なり、売り手と買い手が競いあっていたわけではない。

アリストテレスは、「自然な」経済活動では一家が必要とするものさえ満たされれば充分なので、うみだされる富には限度がある、と指摘した。一方、不自然な富の蓄積には際限がない。オリーブはもっと売り続けることができるし、ほかにも売るものが見つかるだろう。富が天に届くほど高く蓄積されるのを止めるものはあるのだろうか。なにもない。あるとすれば、知恵と徳を危険にさらすことだけだ。「富がうみだすのは、金まわりの良い愚か者である」とアリストテレスは述べている。

だが、山のように硬貨を稼ぐためにオリーブを栽培するよりも、もっと〝悪いこと〟があった。さらに儲けるために、貨幣そのものを利用することだ。オリーブは食べる(あるいは家計で必要なものと交換する)のが自然な使い方であり、貨幣は交換の手段として使うのが自然である。だれかにお金をある価格で(ある「利子率」で)貸して、お金でお金を稼ぐのは、考えうるかぎりにおいて、もっとも不自然な経済活動であり、次章で見るように、アリストテレスの金貸しに対する批判は、その後、何匪紀にもわたって経済思想に影響を与えた。当時のアリストテレスにとって、徳の高さは正直な農民にあり、小賢しい銀行家にはないことが明らかだった。

プラトンとアリストテレスが書き記したように、古代ギリシャは、彼らの経済構想から遠ざかりつつあった。都市国家は危機に陥った。アテネとスパルタの戦争は長く続いた。哲学者たちの経済構想は過去の栄光にしがみついたものだったのだ。プラトンの打開策は規律ある国家で、アリストテレスは行きすぎた商業から社会を救うための実践的な方法を示した。アリストテレスとプラトンによる金銭欲への非難にもかかわらず、古代ギリシャの人々は〝計算高く〟なっていった。このため、スパルタの統治者は、通貨を牛に引かせるほど重い鉄の棒状にして、金儲けの意欲を削ごうとさえしたという。しかし、ギリシャ世界のほかの地域では、商業が盛んに行われた。オリーブオイル、穀物、そのほか多くのものが、地中海を越えて取引された。その後、交易の潮流はさらに広がった。それを加速させたのは、アリストテレスのもっとも有名な弟子であるアレクサンダー大王だ。アレクサンダー大王の軍は地中海世界を制しただけでなく、さらに遠征を続け、広大な新帝国のすみずみまでギリシャ文化を広めた。

歴史のつねとして、すべての帝国と同様に、偉大なギリシャ文明も、後に続いたローマ文明も滅び、新しい思想家たちがうまれた。紀元5世紀にローマ帝国が滅亡したのち、経済思想はヨーロッパ各地の人里離れた修道院で学ぶ修道士たちに引き継がれていった。

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