未唯への手紙
未唯への手紙
ブッダのことば 真理をめぐる23章
『ブッダを知る事典』より
1 悟りのうた--ブッダガヤーの菩提樹の下で
私は家を作る者を求めながらも見出せないままで、幾多の生死輪廻をくりかえしてきた。生存をくりかえすことは苦しみである。
2 中道の教え--最初の説法
そのとき、ブッダは五人の修行僧たちにつぎのように説かれた。
「修行僧たちよ、出家修行僧は二つの極端に親しみ頼ってはならない。二つとは何か。一つはもろもろの欲望にまかせて快楽に耽ることである。これは低劣で、野卑であり、世俗の凡夫の行ないであり、無益であって貴い道をもとめる者の行なうことではなく、真の目的にそぐわない行ないである。もう一つは自分自身の肉体を疲労消耗させることである。これは苦しく、貴い道をもとめる者の行なうことではなく、真の目的にそぐわない行ないである」
3 真理は何のためにあるのか--毒矢の讐え
マールンキヤプッタよ、ある人が毒を塗った矢で射られたとしよう。これを見て彼の親友・同僚・親族・血縁の人々は、彼のために医者を迎えにやるであろう。
しかし、彼は「矢を射た人が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、隷民であるかがわからない間は矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。また、彼は「私を射た人がなんという名で、なんという姓かわからない間は矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。また、彼は「私を射た人は背丈が高いか、低いか、中くらいかがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。(中略)また、彼は矢を射た弓の弦、矢の羽などが何でできているかわからない間は、矢を抜くことを拒否するとしよう。
マールンキヤプッタよ、このように言っている間に、彼の全身に毒がまわり、その人は死んでしまうであろう。(中略)
マールンキヤプッタよ、「世界は有限か、無限か」「如来は死後も存在するか、しないのか」などの問題について、どうして私は答えないのか。マールンキヤプッタよ、それは、これらの議論は私たちに利益をもたらさず、私たちの浄らかな修行生活の基礎となるものではなく、私たちがもろもろの欲望を離れた静寂な境地、正しい智慧、正しい悟り、あるいは砂敷に至るために何の役にも立たないからである。それゆえに、私はこれらの問題を説かなかったのである。
マールンキヤプッタよ、それでは、私が説いたことは何か。それは「これは苦である」「これは苦の原因(集)である」「これは苦が消滅した境地(滅)である」「これは苦を消滅させる方法(道)である」ということである。
マールンキヤプッタよ、これらの教えは私たちに利益をもたらし、私たちの浄らかな修行生活の基礎となり、私たちがもろもろの欲望を離れた静寂な境地、正しい智慧、正しい悟り、涅槃に至るために役立つからである。それゆえに、私はこれらの教えを説いたのである。
4 真理にも執着してはならない--筏の讐え
修行僧だちよ、たとえば、いま、川岸の道を行く人があって、洪水で道が水びたしになっているのを見たとしよう。こちらの岸は危険で、水に流されるおそれがあり、向こうの岸は安全でおそれがない。しかし、向こうの岸に行こうと思っても渡し舟もなく、橋もないとしよう。そこで彼はつぎのように考えるであろう。
「これは大洪水だ。こちらの岸は危険で水に流されるおそれがあり、向うの岸は安全でおそれがない。そこで向うの岸に行こうと思うのだが、渡し舟もなく、橋もない。そうだ、私は草や木を集めて筏を組み、筏に乗って手足で水を掻いて向うの岸に渡ろう」。修行僧だちよ、このようにして彼は筏に乗って向うの岸に無事着いたのであるが、このとき彼はこのように思った。
「この筏は私にとって、実に役立った。私はこの筏を頭にのせ、あるいは肩にかついで、思うままに行こう」と。
修行僧たちよ、これをどう思うか。この人は筏について適切な扱いをしたのであろうか。「そうではありません」と修行僧たちが答えると、ブッダはつぎのように言われた。
修行僧たちよ、彼が「この筏は私にとって、実に役立った。私はこの筏に乗って無事に岸に着いた。そこで、この筏を陸に引きあげ、あるいは水に沈めておいてから思うままに行こう」と考えるならば、彼は筏について適切な扱いをしたのである。修行僧たちよ、このように、私は人々をこちらの岸から向うの岸に渡らせ、しかも執着の心をおこさせないために筏の讐えの教えを説いた。修行僧たちよ、実に、筏の替えを知るあなた方は、真理(法)をも捨てなければならない。まして、真理でないもの(非法)を捨てねばならないことは言うまでもない。(『中部経典』「蛇喩経」)
1 悟りのうた--ブッダガヤーの菩提樹の下で
私は家を作る者を求めながらも見出せないままで、幾多の生死輪廻をくりかえしてきた。生存をくりかえすことは苦しみである。
2 中道の教え--最初の説法
そのとき、ブッダは五人の修行僧たちにつぎのように説かれた。
「修行僧たちよ、出家修行僧は二つの極端に親しみ頼ってはならない。二つとは何か。一つはもろもろの欲望にまかせて快楽に耽ることである。これは低劣で、野卑であり、世俗の凡夫の行ないであり、無益であって貴い道をもとめる者の行なうことではなく、真の目的にそぐわない行ないである。もう一つは自分自身の肉体を疲労消耗させることである。これは苦しく、貴い道をもとめる者の行なうことではなく、真の目的にそぐわない行ないである」
3 真理は何のためにあるのか--毒矢の讐え
マールンキヤプッタよ、ある人が毒を塗った矢で射られたとしよう。これを見て彼の親友・同僚・親族・血縁の人々は、彼のために医者を迎えにやるであろう。
しかし、彼は「矢を射た人が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、隷民であるかがわからない間は矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。また、彼は「私を射た人がなんという名で、なんという姓かわからない間は矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。また、彼は「私を射た人は背丈が高いか、低いか、中くらいかがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない」と言うとしよう。(中略)また、彼は矢を射た弓の弦、矢の羽などが何でできているかわからない間は、矢を抜くことを拒否するとしよう。
マールンキヤプッタよ、このように言っている間に、彼の全身に毒がまわり、その人は死んでしまうであろう。(中略)
マールンキヤプッタよ、「世界は有限か、無限か」「如来は死後も存在するか、しないのか」などの問題について、どうして私は答えないのか。マールンキヤプッタよ、それは、これらの議論は私たちに利益をもたらさず、私たちの浄らかな修行生活の基礎となるものではなく、私たちがもろもろの欲望を離れた静寂な境地、正しい智慧、正しい悟り、あるいは砂敷に至るために何の役にも立たないからである。それゆえに、私はこれらの問題を説かなかったのである。
マールンキヤプッタよ、それでは、私が説いたことは何か。それは「これは苦である」「これは苦の原因(集)である」「これは苦が消滅した境地(滅)である」「これは苦を消滅させる方法(道)である」ということである。
マールンキヤプッタよ、これらの教えは私たちに利益をもたらし、私たちの浄らかな修行生活の基礎となり、私たちがもろもろの欲望を離れた静寂な境地、正しい智慧、正しい悟り、涅槃に至るために役立つからである。それゆえに、私はこれらの教えを説いたのである。
4 真理にも執着してはならない--筏の讐え
修行僧だちよ、たとえば、いま、川岸の道を行く人があって、洪水で道が水びたしになっているのを見たとしよう。こちらの岸は危険で、水に流されるおそれがあり、向こうの岸は安全でおそれがない。しかし、向こうの岸に行こうと思っても渡し舟もなく、橋もないとしよう。そこで彼はつぎのように考えるであろう。
「これは大洪水だ。こちらの岸は危険で水に流されるおそれがあり、向うの岸は安全でおそれがない。そこで向うの岸に行こうと思うのだが、渡し舟もなく、橋もない。そうだ、私は草や木を集めて筏を組み、筏に乗って手足で水を掻いて向うの岸に渡ろう」。修行僧だちよ、このようにして彼は筏に乗って向うの岸に無事着いたのであるが、このとき彼はこのように思った。
「この筏は私にとって、実に役立った。私はこの筏を頭にのせ、あるいは肩にかついで、思うままに行こう」と。
修行僧たちよ、これをどう思うか。この人は筏について適切な扱いをしたのであろうか。「そうではありません」と修行僧たちが答えると、ブッダはつぎのように言われた。
修行僧たちよ、彼が「この筏は私にとって、実に役立った。私はこの筏に乗って無事に岸に着いた。そこで、この筏を陸に引きあげ、あるいは水に沈めておいてから思うままに行こう」と考えるならば、彼は筏について適切な扱いをしたのである。修行僧たちよ、このように、私は人々をこちらの岸から向うの岸に渡らせ、しかも執着の心をおこさせないために筏の讐えの教えを説いた。修行僧たちよ、実に、筏の替えを知るあなた方は、真理(法)をも捨てなければならない。まして、真理でないもの(非法)を捨てねばならないことは言うまでもない。(『中部経典』「蛇喩経」)
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