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リサイクルという幻想

『ふしぎな社会 おかしな行政』より

ゴミをそのまま焼却したり埋め立てるのではなく、モジュール(部品・要素)や成分の物質に還元し再利用して行けば、資源も節約できるし、環境への負荷も少なくなるという。このことは観念的には正しく、これが広範囲に可能なら、大量生産、大量販売という戦略と資源、環境問題はある程度両立する。

しかし、どんなゴミでもリサイクルに馴染むわけではない。資源というものは、あるかないかではなく、市場価格に見合うコストで入手できるかどうかが問題だからである。カリフォルニアなどの河川の川底には今でも砂金が存在する。それでも、趣味以外に採ろうという人がいないのは、日当に見合う量が採れないからである。海水中には金や白金などの貴金属が大量に存在するが、回収コストが高いので資源として認識されていない。逆に、石油はあと数十年で枯渇するといわれているが、本当にそうなって化石燃料の価格が高騰すれば、無尽蔵にあるというオイルシェルなどが資源化されるだろう。

リサィクルも基本原理は同じである。アルミ缶は回収率が高くリサイクルの優等生といわれているが、その理由は低コストで原料化できるからだ。天然資源のボーキサイトは安価ではあるが、精製してアルミニウムにするためには膨大な電力を必要とする。しかし、アルミ缶は既に電力の塊である金属になっているため、これを元に地金を作れば天然資源を用いるより安くできるのだ。

これに対して、ペットボトルやプラスチック類の再資源化は容易ではない。そもそもこういう高分子化合物はリサイクルになじみ難いからだ。金属なら、融点の違いや磁性の有無等を利用して、物理的、化学的方法で精製できるが、融点が低く磁性もない紙やプラスチック類等の再生には、様々な段階で手作業を必要とするし、質の劣化という宿命もある。それでも紙ならば、たとえば再生紙のように、新品より高くても公的機関などで無理して使うような需要があるが、ペットボトル等は口に入れる飲料の容器だけに、劣化したものの需要は乏しい。

その上、再生するためには大量の化石燃料を必要とする。家庭ゴミは世帯単位で排出され、市町村によって集められるから収集に人手はかかるし、再生工場まで運ぶ輸送費も馬鹿にならない。まだ、住民がどんなに努力して分別しても、つい蓋やラベルなどの異物が残ってしまうし、洗浄も不徹底になる。要するにまっさらの石油から造った方がはるかに手間もかからず、コストが安いのだ。

こういう事情が重なって、ペットボトルなどはもともとリサイクルに馴染みにくい。折角分別されたペットボトルが焼却されたり外国に輸出されるなど、住民の善意を裏切るような運命になるのは、経済的にはやむを得ないのである。国民の勘違いをいいことに、プラスチック類のように分別、分離が困難で、生成した物質の品質に問題がある物質のリサイクルを推進することは、意図的かどうかは別として、議論のすりかえであり、政策的なミスといえる。

ペットボトルや紙類の分別処理は、一部の自治体に対してリサィクル事業者への処理費の支出だけでなく、もう一つの損害を及ぼしている。これらが除外された家庭ゴミの成分は、水分の多い生ゴミが中心となってそのままでは燃えないため、膨大な重油などの化石燃料の添加が必要になるからである。

基本法には、リユース、リサイクルが困難な廃棄物のうち燃えるものは「熱回収」することが定められており、「サーマルリサイクル」という難しい言葉も用いられている。しかし、わざわざ手間ひ圭をかけて分別回収してから燃やさなくても、良く燃えるペットボトルなどは生ゴミと一緒に燃やせば、化石燃料の節約になっていたのであり、一部の自治体ではこういう方法を復活させた。この種のものを焼却すると有害物質が出るという俗論があるが、ダイオキシン猛毒説もおかしな議論の一つであり、その詳細は第Ⅲ部2で取り上げる。
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