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この10年はなんだったのか

作ることが容易な世界

 作って、売ることを考えると、作ることが容易になってくる。3Dなどの世界では買う力がなくなってくる。だから、寄付だという発想する人がいる。それで社会の循環ができるのか。

 寄付される方は、寄付する人から考えるとごくつぶし。それが正しい世界なのか。それで存在意義が分かるのか。仕事する楽しみがなくなる。やはり、作って、売って、買うというスタイルを変えないと循環できなくなる。

 完全に使う方から発想していく。作る方はどうでもいい。いかに有効に使うのか。いかに存在意義を認めていくのか。そのためにコミュニティの世界。それは単純な世界です。

この10年はなんだったのか

 本当に目が悪くなっています。見えないです。パソコンどころか、目を近づけるタブレットも見づらくなっている。2005年5月2日にも「パソコンで目が疲れて、焦点が定まらない」と言っています。それから、10年、まるで変わっていない。まだ、見えているだけいいのか。

 同様に、2005年のゴールデンウィークで部屋を片付けをしようとしているけど、していません。

 その上に10年後のリタイアした後のことを書いています。メールは何も入っていない。こんな風な毎日になるということが書かれている。部屋を片付けることも女性的な感覚で考えていました。10年前に花を飾ろうとしていた。

 この10年はなんだったのか。仕事に対する態度も一緒です。そういう意味では、ひたすら未唯空間を作ってきた、ロジックを作ってきた。新しい言葉を作り上げてきた。

 環境社会というのも、その時点には在ったけど、3.11後の2011年の愛知環境塾で本格的に始めた。骨格部分があり、10年間、考え続けることで、まとめてきたということの証でしょう。何しろ、まとめないといけないけど、ドンドン、論理が飛躍すると同時に、詳細に入っていくから大変です。

そろそろ、自分だけの生活に戻らないと

 丁度、いいタイミングで、奥さんが右手を使えなくなったので、サポートというカタチで家庭に入り込んできた。治れば、自由に動くから、自分の生活に戻るしかない。

 時間をどう使っていくのか、部屋をどう使っていくのか、空間をどう使っていくのか。そして、外なる世界の身体と社会をどう使っていくのか。目的にはかなり、拘っています。10年前には「分化」「存在の力」みたいな個人から始めていくことはなかった。

 NPOとかITとかの連中のなまぬるい、あの感覚は好きにはなれない。

 今まで、5年間はパソコンで未唯空間をやってきた。同様に、部屋をベースにやることにすればいい。踏ん切りをつけましょう。パートナーとIさんとの接点がないだけです。これはきついけど、中野の時よりは易しいです。

 何しろ、自分がまとめたいことがあり、そのための時間をもらっている以上は、それに従いましょう。

私の世界の自由

 生きる意味は私は私の世界。だから内なる世界の自由です。

 眼は焦点が合っていないから、色も含めて、見づらいけど、身体は外なる世界だから、無視しましょう。

偶然をどう生かすか

 課題は偶然をどう生かすかです。ネットでの繋がりではダメです。リアルな世界ですね。

 Iさんとの3年間も考えると、偶然に期待するけど、時間はかかりそうです。パートナーのことを考えると、接点は難しい。スタバでかなりのことがつながりました。

 10年前のブログで面白い記述がありました。永作博美の「博」は大阪万「博」からとったということ。ということは1970年生まれです。丙午の中野さんよりも若いんだ。

 10年間のライフログから偶然を見出しましょう。
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